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第41回 インパール作戦
これからお話するインパールは、竹山道雄さんの小説「ピルマの竪琴」の舞台にもなっ た戦場です。
お読みになった方も多いと思いますし、映画にもなりましたが、インパールはガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦いが行われた所です。
「酸鼻を極める」という言葉がありますが、インパールがまさにそうでした。
昭和十九年三月から始まったインパール作戦には、第十五軍司令官牟田口廉也中将が指揮する三個師団を中心に、約十万の将兵が参加しましたが、進撃と攻防四ヵ月、作戦が失敗に終わり、その敗走は一千キロ、五ヵ月にも及びました。
三万五百二人が戦死し、戦傷病者四万一千九百七十八人。
損耗率実に七二%という莫大な犠牲者を出したのです。
中でも悲惨だったのは、犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、食べるものがないための栄養失調、赤痢やマラリアで体力を消耗し、猛烈な豪雨の中での敗走中に倒れたことでした。
撤退して行く道は日本兵の死体だらけ、蛆虫が小山のようにたかっています。
蛆というのはあんなにちっちゃくても、これだけ集まると、人間の死体なんてもう一日で完全に食い尽くしちゃうんだそうです。
下がれば下がるほど、道の両側は日本兵の白骨で埋まり、兵隊たちは退却路を「白骨街道」、また靖国神社へ行く道だというので、「靖国街道」とも呼ぶようになったのです。
インパールは、ヒマラヤの尾根に当たるインドの東部。
現在のミャンマーであるビルマ国境近くにあるアッサム州の町で、イギリス第四軍の補給基地が置かれていました。
しかし、ここを攻めるには、各師団の進撃距離は百キロから三百キロもあり、行く手には二千メートルクラスの険しいアラカン山系、人跡未踏、悪疫瘴癘(しょうれい)の密林地帯が待ち構えているのです。
当然、万全の補給、輸送路を確保しなければ、成り立たない作戦でした。
ところが日本軍には、これを支援する十分な航空兵力もなければ、満足な機動力もありません。
牟田口軍司令官がとったのは「ジンギスカン戦法」。
八百年も前のモンゴル帝国の英雄、ジンギスカンの遠征にならって、 象や牛馬で食糧、弾薬を運び、食べるものがなくなったら、その牛馬を殺して食べる。
インパールは敵の補給基地だから、ここさえ取れば後の補給は何とでもなる。
「糧は敵から奪え」という、一人よがりの、時代遅れの考えも甚だしいものだったのです。
補給がどんなに大切か、また制空権を奪われた中での補給がどんなに難しいものなのか。
ガダルカナル敗戦で、いやというほど実感したはずでしたが、その貴重な教訓は生かされませんでした。
悲劇の第一歩は、この補給無視にあったのです。
第二の失敗は、こんな無謀な作戦が、「ただ突進あるのみ」という牟田口の強烈な個性、剣幕に、ビルマ方面軍、南方軍の上級司令部から、最初は慎重論をとっていた大本営までが、引きずられてしまったことです。
牟田口は作戦に反対した参謀長を更迭し、部下の反論、慎重論にも一切耳を貸しませんでした。
あげくは作戦に参加した三人の師団長を全員解任、更迭するといった、日本の陸軍史上にも例を見ない異常な事態を招いています。
問題点は、早くから数多く指摘されていたのに、大本営も「現地指揮官が出来ると言うから、やってみる」。
こんな程度の、心許ない作戦発起だったのです。
それでも、初期作戦が予想以上に順調に進み、三月二十一日にインパール束北方のウクルル、二十六日にはサンジャックを占領すると、東条英機首相は大本営報道部に命じて華々しく発表させました。
「我軍は印度国民軍を支援し、三月中旬国境を突破し印度国内に進入せり」。
何しろ十八年2月のガダルカナル撤退以来、連合艦隊長官山本五十六の戦死、アッツ島玉砕、太平洋戦線でも玉砕続きでしたから、東条首相としても国民の戦意高揚のためにも、このインパール作戦に大いに期待するところがあったのでしょう。
それ以来、新聞には連日『インパール』の活字が躍るようになりましたが、徳川夢声は日記に皮肉たっぷりに書いています。
「新聞でイムバール、イムバールと大騒ぎしているから、ビルマ明細図を出して見ると、印度東境の村落と分る。もっと大都会だと思っていた。
もっとも、このイムパールに敵の大軍が集結しているとすれば、大騒ぎして不思議はない訳だ。
戦闘が行われる毎に、新しい地名が新聞で幅を利かせるのは、面白くもあり、煩わしくもある。
尻の先へ腫物が出来ても、全身の注意が一時そこに集中されるのだから、イムバールが目下、ロンドンよりもワシントンよりも幅を利かせるのは当然かもしれない」
こんな、インパールを「尻の先の腫物」扱いをしていますが、外交評論家の痢沢例が鋭く、
「新聞が印度作戦について書きたてている。
相変らず『至妙なる作戦』と謳っている。
軍部の連中は朝から晩まで讃められていないと、一日が過ごせないのである。
が、印度作戦は大きな政策から見ると、悲しむべき結果を生ずることは明瞭である。
かりにインパールをとったらどうするというのだ。
それ以上は進めず、されぱとて退けぬ。
戦局の釘づけなのである。
そして、犠牲は非常に多いであろう」。
こう指摘しているように、一言で言えば無用な戦い、やらなくてもよい作戦だったのです。
実は、インパール作戦が始まる二十日ほど前、二月十七日に日本の委任統治領で連合艦隊の根拠地であるトラック島が、アメリカ機動部隊に急襲され、航空機三百機、艦船四十一隻を失うという壊滅的な打撃を受けていました。
米軍の次の進路が、マリアナ諸島のサイパン島に向けられるのは明白であり、サイパンが落ちたら、日本本土は長距離爆撃機B9の空襲圏内に入ってしまいます。
参謀本部戦争指導班の種村佐孝大佐は、
「大本営機密日誌」に「内南洋に担当の海軍が十分処置していると思い込んでいたのに、トラック島が急襲されて始めて空ッポだと聞いてびっくりした」。
こう書いて、大本営が絶対国防圏としている、ここだけは絶対に守るんだと言っている内南洋の危うさを指摘していますが、
それは陸軍も同じで、そんなインパールに回す兵力があったら、ビルマは専守防衛にして、何をおいてもサイパンの防備強化を急がなければいけなかったのです。
事実、米軍はインパール戦最中の六月十五日、サイパンに上陸して来るのですが、衰えつつある国力から見て、インパール作戦が戦局全体にとって本当に必要な作戦だったのかどうか。
消沢例のような軍事の素人でさえ分かることが、なぜ分からなかったのか。
陸軍首脳部の、大局観のない欠陥をさらけ出したものでした。
それでは、こんな無謀かつ無意味な作戦が、一体どんな経緯で決定され、実行されることになったのでしょうか。
開戦に当たっての参謀本部の南方作戦基本構想は、まず東南アジアの米英の軍事拠点である番港、シンガポール、フィリピンを攻略し、蘭印の重要資源地域を確保して長期不敗態勢を構築することでした。
このため、寺内寿一大将を総司令官とする南方軍の下に四個箪を置いて、第十四軍がフィリピン作戦、第十六軍が蘭印作戦、第二十五軍がマレー・シンガポール作戦を行い、飯田祥二郎中将の第十五軍には、第二十五軍の後方を安定確保するため、タイ、ビルマを担当させることにしたのです。
ビルマ確保は、南方要域の西側の防衛拠点とする。
ラングーンから昆明に至る援蒋ルート、重慶の蒋介石政権に軍需物資を送っている路線を遮断する。
イギリス植民地を解放し、インドに対する反英離反工作の促進拠点とする。
こういった狙いを持つものでしたが、第十五軍の兵力が少ないため、ビルマ進攻はマレー作戦の進展を見て開始することにして、タイに平和進駐したところで待機させていました。
ところがマレー作戦が順調に進み、昭和十七年二月十五日にはシンガポールを占領してしまいました。
そこで大本営は、第25軍から牟田口が師団長をしている第18師団を引き抜いて第15軍に編入し、一気にビルマに攻め入って、三月八日、ビルマ最大の都市であるラングーン、現在のミャンゴンを占領したのです。
大本営のビルマ工作は、開戦前から進められていました。昭和十六年二月、鈴木敬司大佐を長とする「南機関」を作り、ビルマ独立運動を支援していましたが、日本に亡命していたアウン・サンら若い志士三十人は、開戦と共にビルマ独立義勇軍を組織して祖国の解放戦争に出陣して行きました。軍司令官になったアウン・サンは当時二十七歳。ミャンマーの民主化運動を進めて、先月、七年半ぶりに軍事政権の軟禁状態から解放されたノーベル平和賀受賞者スー・チーさんは、その長女です。
鈴木大佐は、ビルマの民族衣装をまとい、彼らと寝食を共にしながら三月十三日、義勇軍と一緒にラングーンに入りましたが、南方軍総司令部にビルマの「即時独立」を進言したのです。東条首相も一月、議会の施政方針演説でビルマとフィリピンの独立を認めることを明らかにしていましたが、南方軍はまだ時期尚早だとして、これをはねつけ、ビルマに軍政を敷きました。軍政下に置けば、軍の発行する軍票で何でも物資の調達か出来るからてす。そして鈴木大佐は、若い志士たちを扇動する邪魔者と映ったのでしょう。すぐ旭川の第七師団参謀長に転出させてしまいましたが、彼らの心をしっかり掴んでいた鈴木のいなくなったことが、やがてアウン・サンらを反日に走らせることにもつながっていったように思います。
第十五軍は昭和十七年五月十八日、ビルマ全土を平定してビルマ作戦を終了しましたが、十三日にはマンダレーに潜伏していた反英運動家のバー・モウ博士を救出、六月四日、そのバー・モウを委員長とするビルマ中央行政機関設立準備委員会を発足させました。こうしてビルマ情勢が安定してくると、南方軍の中に、この際余勢をかって一気にインドに攻め込み、インパールからアッサムにかけての地域を押さえてしまおうという計画が生まれてきたのです。連戦連勝に沸き立っている時です。北アフリカ、コーカサスからスエズ運河を目指しているドイツ軍に呼応し、インド北東部を制圧すればイギリスに圧力をかけられる。南方軍は政治的効果も大きいと、「二十一号作戦」と名付けたインド進攻計画を大本営に提出、昭和十七年九月一日、第十五軍に作戦準備を指示したのです。
しかし、この計面は、装備の貧弱な植民地軍に勝って、イギリス軍を甘く見ていたのでしょう。わずか一個師団で険しいアラカン山系の山越えをしようというもので、飯田軍司令官は「とても無理だ。今はまずビルマ防衛を全うすべきだ」。こう考えましたし、作戦主力に予定されている第十八師団長の牟田口、シンガポール攻略に武勲を立てて自信満々の牟田口でさえ、作戦地域の「地形困難」を訴えて反対したのです。この間、八月七日に米軍のガダルカナル上陸が始まり、参謀本部もそれどころではなくなってきました。十一月二十三日、作戦部長名で南方軍に「二十一号作戦の当分保留、実施の場合でも十八年二月以降とされたい」と、電報で命じてきました。ただこの電報はあくまで保留であって、作戦取り消しを明確に命じたものではありません。何となく延期になったところに、インパール作戦が一度は反対した牟田口によって、再び日の目を見る余地が残されていたのです。
参謀本部はこの決定に先立って、各軍参謀長を集めて会議を開いていますが、第十五軍参謀長の諌山春樹少将が、
『インド進攻作戦はとても困難な作戦で、たとえアラカン山系の頂上線を占領しても、わが後方補給は決して平易安全ではない」。
こう報告したところ、
陸軍首脳部は消極的だと、諌山を更迭してしまいました。
インパールだけではなく、ガダルカナルでもそうでしたが、
「行け行け、どんどん」の積極論だけを良しとし、慎重論を腰が引けていると見倣しがちな日本陸軍の体質にも、「インパール悲劇」の種があったように思います。
事情が変わってきたのは、昭和十八年三月十八日、ビルマ方面軍が新設され、牟田口がビルマ北部、中部を担当する第十五軍司令官に昇格してからでした。
方両軍の新設は、イギリス軍の反攻に対処するためでしたが、二月八日にチンドウィン河を渡って来たウィングート少将率いる挺身部隊に、当時牟田口が師団長の第十八師団は翻弄されたのです。
兵力は三、四千人と少ないものでしたが、昼間は密林に潜伏して無線進路により空中補給を受け、夜になると攻撃を仕掛けて来ます。
第十八師団は東奔西走一ヵ月、何とか撃退は出来たものの、牟田口は「ここからは攻めて来ない」と思っていたアラカン山系の峻険が、意外に安全ではないことを思い知らされたのです。
もともとが、「最良の防御は攻撃にあり」を信条としている牟田口です。
軍司令官に昇格すると同時に、一度は反対した「二十一号作戦」の実現、インド進攻計画に俄然熱意を見せるようになったのです。
彼が「作戦困難」と見ていたアラカン山系も、イギリス軍の行動を見れば必ずしも不可能ではない。
それなら従来のような守勢的防御ではなく、こちらから攻勢に出て、反攻基地になっているインパールを攻略すべきだ。
ただ牟田口は、イギリス部隊の行動が十分な空中補給があって初めて可能なんだという、この一番重要な点を見落としていたのです。
牟田口の「インド進攻論」には、個人的な心情もからんでいました。昭和十二年七月七日に虚構橋事件が勃発した時、これを支那事変に拡大させる一発を撃たせたのは、当時支那駐屯軍の歩兵第一連隊長をしていた牟田口だったのです。牟田口はインパール作戦を説くとき、「私は虚構柵事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで発展してしまった。もし今後、自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることが出来れば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳がつく。男子の本懐として、まさにこの上なきことである」。こう付け加えるのが口癖になり、インパール作戦に異様な執念を燃やすようになるのです。
牟田口は、インパール作戦の動機を「自責の念から」と言っていますが、幕僚たちは「俺はインパールを取って、大将になるんだ」。こうわめいている牟田口を見ていますし、やはり功名心、名誉欲が強かったのではないでしょうか。それにこの盧溝橋事件は、牟田口が冷静に対処していたら、あるいは些細な発砲事件で終わっていたかも知れないのです。日本陸軍一個中隊が夜間演習中、突然十八発ほど発砲されたのですが、働が発砲したのか。日本側の陰謀説、近くに駐屯していた中国第二十九軍の発砲脱、また中国共産分子の策謀だとか、いろんな説がありますが、未だに真相は分かりません。ただ牟田口は、中国軍に抗議の使者を派遣する時、「あくまで不拡大方針で臨む。向こうの弁解は、こじつけでも聞いてやれ」。こう言っていたのに、交渉中にまた発砲騒ぎが起こると、『攻撃命令』を出し、結局はこの命令が八年間に及ぶ日中戦争の原因となったのです。牟田口は、「事件を最小限に食い止めるには、この際一喝を食らわすことが賢明だと思った」と言っていますか、発砲で死者が出たわけではなし、交渉中に戦闘命令を出すあたり、あの頃の軍人特有の一撃論、同時に牟田口という人の性格をよく物語っているように思います。
しかもビルマ方面軍司令官になったのが、この時、歩兵旅団長として牟田口の上司だった河辺正三中将だったのです。「盧溝橋のコンビ」がビルマで再現したことが、インパール作戦を大きく前進させることになります。牟田口の使命感は掻き立てられました。牟田口を知る人は、牟田口は一旦思い込むと、その思い込みが確信、信念となり、信仰にまで高めてしまう人だ、と言っています。ところが河辺は、本来なら牟田口の突出を押さえるべきだったのに、「何とか牟田口の意見を通してやりたい」と、私情に動かされて後押しすることになるのです。
牟田口がインパール作戦の構想を明らかにしたのは、昭和十八年四月二十日、第十五軍司令官になって初めて開いた兵団長会議の席でした。集まったのは第三十一師団長の佐藤幸徳中将、第三十三師団長の柳田元三中将、そして牟田口に代わって第十八師団長になった田中新一中将です。雨季入り前後に急襲的に攻撃を開始し、雨季が本格化すれば敵の奪回行動は困難になるだろうから、作戦開始を五月下旬とする。こう言うのですが、牟田口がインパールだけに止まらず、ディマプールからアッサム州の奥深くまで進攻する意図を明言したものですから、一同ただ唖然とするぱかりだったと言います。
六月が最盛期のアッサムの雨季は、それは凄まじいものなんだそうです。日本では一日百%降れば大雨ですが、世界一の雨量と言われるアッサムでは千句降ることもあり、年間総雨量は一万一千三百句にもなります。昨然たる豪雨はジャングルを叩き、大地を激しく打って、濁流が堰を切ったように土砂、岩石を運んで押し寄せて来ます。ちょっとした小川も水位がぐんぐん上がり、まず渡らなければならないチンドウィン河は、川幅が千なにも広がる大河になります。その光には、険しい山また山で、一面ジャングルに蔽われたアラカン山系が待ち構えているのです。雨季に倫えた準備はなく、作戦開始までの時間的余裕もありません。各部隊はウィングート兵団の掃蕩作戦に疲れ切っていて、休養が必要でした。一山に代わって第十五軍参謀長になった小畑信良少将は、「補給の権威」と言われた人で、「補給上、到底無理だ」。こう反対意見を述ぺると、たちまち更迭されてしまいました。そうこうするうちに雨季に入り、自然消滅の形になった作戦の実現に、牟田口はますます執念を燃やすようになります。
河辺方面軍司令官がその熱意に動かされて、インド進攻作戦の兵棋演習を実施したのが昭和十八年六月二十四日でした。兵棋というのは、地図の上に各師団の駒を置いてそれを動かし、作戦が可能かどうか、問題点がどこにあるのか。そういったことを検討する図上演習ですが、作戦実施に意思統一を図る必要から、南方軍から総参謀剛長の稲田正純少将、大本営からは参謀の竹田官報聴少佐が参加しました。牟田口は、稲田に「死なねばならぬ時には、私を使って貰いたい。アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」。熱っぽく訴えましたが、稲田は『そんな無茶な作戦は話になりませんよ』と相手にもしません。大本営や南方車の心配は、むしろビルマ南部アキャブからの反攻でした。種田は「持てるだけの食糧弾薬で突進し、後は敵に糧を求めるというのは、捕らぬ狸の皮算用だ」。こう醤って補給の難点を指摘し、アッサムを目指す第十五錐の進撃方向にも再検討を要請しました。しかし演習の結論としては、チンドウィン河西方に防衛線を進める必要があるとして、「敵の策源地インパール攻略を目的にすべし」となってしまったのです。
問題はここでした。「インパール作戦の合意」は、大本営や南方錐にとっては、あくまで補給とビルマ南部防衛に重点を置いた限定作戦だったのに、牟田口の方は北方に重点を置いて、あわよくぱアッサム州に攻め入ろうと、急襲突破の鵯越戦法を改めようとはしなかったのです。
竹田宮はインパール作戦にも「準備不足だ」とはっきり反対し、帰京後、参謀本部作戦課長に「第十五錐の考えは目茶苦茶な積極案です」と報告しています。
ですから大本営も、インパール作戦に否定的な考えが強かったのですが、それが牟田口構想通りに動き出すことになるのは、河辺方面軍司令官の一言でした。
方面軍参謀長の申永太郎少将が「第十五軍の作戦方式には問題点が多い」と報告したところ、
河辺は「最後の断は自分が下すから、それまでは牟田口の積極的意志を十分尊重せよ」と指示したのです。
日記に「予ハ同司令官ノ心持ヲ知ル」と書いているあたり、盧溝橋以来の仲に動かされたのは聞違いありません。
大本営も方面軍の強い要請がある以上は、無視するわけにもいかず、
昭和十八年八月七日、「ウ号作戦」と名付けたインパール作戦準備命令を南方軍に出したのです。
「インパールの悲劇」は、ここに第一歩を踏み出しました。
牟田口がこの準備命令に基づき、第十五軍司令部に各師団長を集めて作戦計画を提示したのが八月二十五日です。ビルマ北部フーコン渓谷で米軍の支援を受けた重慶軍の攻撃が激しくなったため、田中中将の第十八師団はそれに当たることになり、インパール作戦は第三十一、三十三師団のほか、六月に新たに第十五軍に編入された山内正文中将の第十五師団で実施することになりました。ところが牟田口構想には、奇襲の成功だけを考えて、頑強な敵の抵抗にあった時の対策が用意されていません。これが、インパールで硬直化した作戦指導の原因にもなるのですが、山内中将は手記に『但し其の通り実現せず、変化せらるる状況の下に師団の使用せらるる場合の多き予想あり』と、不安を書いています。
真っ先に「補給に責任が持てるか」と、最大の疑間をぷつけたのが、作戦には直接参加しない田中中将でした。補給担当参謀が「とても責任は持てません」と正直に答えたものですから、怒ったのは前年暮れまで参謀本部作戦部長をしていた田中です。この人はガダルカナル戦継続のため船舶増徴を要求して、認めようとしない東条首相を「それでも貴公は陸軍大臣か。この馬鹿野郎」と怒鳴って、重謹慎十五日の処分を受け、第十八師団長に回されてきた人です。南方軍の「二十一号作戦」に、補給上の観点から『待った』をかけたのも、当時作戦部長の田中でした。「そんなことでどうするか。この困難な作戦で補給に責任が持てぬでは戦は出来ん」。怒鳴りつける田中に参謀が絶句していると、牟田口はこう答えたというのです。『本作戦は尋常では遂行出来ぬ。糧は敵によることが本旨である』。そして「なあに、心配はいりません。敵に遭遇したら銃口を空に向けて三発撃つ。そうすれば敵は降参する約束になっている」。師団長たちが呆れ返って黙っていると、解散が宣言され不得要領のまま終わってしまいました。
大体が、牟田口と作戦参加の三人の師団長は、肌合いが違い過ぎました。牟田口は緻密な作戦家というよりは、果敢な行動家。外国勤務は一度もなく、本人も野戦指揮官を自負し、支那事変、シンガポール攻略と、連戦連勝に自借滴々でした。これに対して山内は士官学校二十五期の首席。アメリカ陸軍参謀学校を卒業し、アメリカ駐在武官も務めた知性派です。柳田も二十六期首席で、何事にも理論と計算を重んじる合理主義者。最初から航空兵力と補給を欠いた作戦に、疑問を持っていました。山内と士官学校同期の佐藤は、かつては統制派の活動家でした。ところが佐賀県出身の牟田口は、同郷の皇道派総帥だった真崎甚三郎大将の一の子分でしたから、二人の間には「陸軍派閥の対立感情があった」という人もいます。
山内の第十五師団はこの頃、中国戦線からビルマに移動中でした。タイに着いたところで、南方軍の命令で自動車道路の建設に当たりましたから、前線到着は遅れに遅れました。すると牟田口は、連絡に訪れた参謀に「十五師団は戦はいやなのか。戦がいやだから、いつまでもタイにいるんだろう」と、大声を張り上げたというのです。山内はこれを聞いて、手配に書いています。「こんな分からず屋の軍司令官の下に働くは潔しとは考えられず。情けもなく察しもなく、唯自分勝手にならぬのをどなるような将軍は、軍司令官たるの資格なきなり。師団としては何ともならざるも、悪い上官を持ったと諦めて将来処置する必要あるべし」-こうして戦闘責任者の師団長が、軍司令官との意思の疎通を欠いたままインパール作戦に突入するという、致命的な欠陥になるのです。
それでも南方軍では、稲田総参謀副長が「作戦計画が修正されない限り、認可は出来ない」。こう言って、牟田口の暴走を押さえていたのですが、その稲田が昭和十八年十月中旬、ニューギニア戦線に転出してからは、南方軍も次第にインパール作戦に傾いていきます。そして第十五軍に、インパールヘの道を開かせる決定的な流れを作ったのが、実はインド独立運動の闘士チャンドラ・ポースだったのです。イギリス官憲の監禁下に置かれていたポースは、第二次大戦が勃発すると国外に脱出、まず頬ったのがドイツでした。「敵の敵は味方」。の論理です。しかしドイツでは祖国は余りに遠く、日本の参戦で今度は日本を頼ろうと十八年二月、ベルリンを出発したのです。そして四月二十八日、インド洋マダガスカル沖で、ポースを乗せたドイツ潜水艦と日本の伊号第二十九潜水艦が合流、スマトラから日本の軍用機で東京入りをしたのが六月十六日でした。朝日新聞は夕刊一面トップに、「チャンドラ・ポース氏来る忽然として東京へ」。この横トッバンで「印度独立に新降火東条首相ら要路と会談」と伝えています。
東条首相は、このポースに大きな期待をかけたのです。秘書官に「あの愛国者に報いるのも、日本の使命だろう」と語っています。七月四日、シンガポールでインド独立連盟の大会が開かれ、ポースが「対英武力闘争」を叫ぶと、大勢のインド人聴衆は涙を流して競って献金したそうです。翌日、市庁舎前で一万人のインド国民軍を閲兵したのですが、これはマレー作戦で日本車の捕虜になったインド兵で編成されたものです。東南アジア歴訪中の東条首相も閲兵に加わりましたが、ポースは満足そうな東条を見て囁きました。「閣下、三倍、いや五倍にわが軍を増やしたいと思います」。この時東条の心にも「ポースを押し立てて、インドの一角に自由インドの旗を掲げたい」。そんなパラ色の夢がふくらんだのではないでしょうか。インド国民軍は最終的には二万人の大部隊になり、軍司令官に就任したポースも、インパール作戦を熱望するようになるのです。
もう一人、ポースの激しい戦意、祖国愛に惚れ込んだのが、方面軍司令官の河辺でした。日記に「この人を得た上は、インド進攻作戦は必ず政略的にも有効な成果をおさむべし」と、自信を新たにしています。インパール作戦は勿論、牟田口が軍司令官でなければ始まらなかったでしょう。しかしそれは、河辺の支持があって初めて可能なものでした。そして南方軍総司令官の寺内もまた、インド国民軍との連合作戦で戦局を打開したい。そうすれば政治的効果も大きいと、インパール作戦決行の方向に動いていくことになるのです。
十一月五日には、東京で大東亜会議が開かれました。八月一日のビルマ、十月十四日のフィリピン独立に続いて、二十一日にはポースの自由インド仮政府がシンガポールで樹立され、大東亜各国の首脳を集めて政治的結集を図ろうとしたのです。東条首相にとっては、戦局の厳しさも忘れさせてくれる晴舞台であり、得意の絶頂の時だったのでしょう。東京・用賀の私邸応接間には、敗戦まで貴族院一号委員会室で開かれた会議の写真が誇らしげに掲げてあったそうです。コの宇型の机の中央には軍服姿の東条が陣取り、両脇には六人の大東亜首脳、南京政府主席汪兆銘、満州国総理張景息、タイ国首相代理ワンワイ、フィリピン大統領ラウレル、ビルマ首相パー・モウ、そしてオブザーバーのポースが座っています。翌日には、大東亜戦争完遂の決意と大東亜共栄圖確立を鴎った共同宣言が発表されましたが、各国の間にはすでにきしみが表われつつあったのです。’
「顕著な欠席者がいる」と、タイのピプン首相の名前を挙げて、鋭く指摘したのがオーストラリア放送です。日本の傀儡政権の代表ばかりの中にあって、唯一の正統政府はタイでしたが、ピブンは国内の反日気分に配慮し、[自分が出れば日本に屈伏したことになる]と、距離を置きました。病気を理由に欠席し、政治的には無難な王族のワンワイ殿下を代理i席させたのです。占領地の資源は日本の物資動員計画の中に組み込まれ、「現地調達」という名前の日本軍の容赦ない収奪も始まっていました。それは、バー・モウ首相が「日本軍の物資強要は、ビルマの民生を虐げつつある」とこぽすほど、ひどいものでした。そんな中でただ一人、日本に協力し、戦争にも積極的な態度を見せたのがポースだったのです。東条首相にも、「何とかポースの期待に応えたい」という気持ちが強くなっていくわけです。
連合国陣営もこの時期、相次いで首脳会談を開いています。まず十一月二十二日、カイロにルーズペルト、チャーチル、蒋介石が集まり、「カイロ宣言」で日本が第一次大戦後に獲得した南洋陳島の剥脱、満州、台湾の中国への返還、朝鮮独立を明らかにしました。二十八日のテヘラン会談には、蒋介石に代わってスターリンが出席し、ドイツ降伏後の対日参戦を約束、その代償として千島列島と南樺太領有、旅順、大運での優越的地位を要求しています。連合国の方は、この時すでに勝利を確但し、戦後断面を着々と立案しつつあったのです。
第十五軍がインパール作戦実施に向けて、最後の詰めともいうべき兵棋演習を実施したのが、昭和十八年も暮れようとする十二月二十二日でした。南方軍からは、稲田に代わって総参謀副長になった綾部橘樹少将が出席しましたが、作戦決行の可否を判断し、寺内総司令官に復命するたです。牟田口は「インパールは天長節までに、きっと占領してご覧にいれる」と意気軒高、綾部にも「是非断行するよう、大本営に具申されたい」と強調します。実は綾部に同行した南方軍の参謀は、第十五軍や作戦参加師団の参謀たちが作戦断面に心から同意していない実情を知り、また補給の観点からも、綾部に強く作戦中止を進言していたのです。綾部自身も、直前まで参謀本部作戦部長をしていて作戦に反対していた一人でした。それが結局、河辺方面軍司令官の確信も確認した上で、「作戦決行」の判定を下し、二十八日に寺内の決裁を受けたのですが、なぜだったのか。綾部は「第一線軍司令官の攻勢意欲をそぐことは好ましくない。また中止の場合、軍内に生ずる混乱を懸念した」。こう言っていますが、軍事的合理性よりも組織の融和を重視したあたり、すでに作戦決行に傾いている寺内総司令官の意向に沿いたい。その気持ちが、強かったのではないでしょうか。
綾部は昭和十九年一月四日、上京して杉山元参謀総長に作戦の認可を求めました。「インパール作戦は本年二月頃開始し、長くてIカ月、または五週間以内に終了する。その頃からビルマは雨季に入り、今が好機だ」。こう言うのですが、綾部に代わり作戦部長になっていた真田穣一郎少将は、「ビルマ防衛は持久戦によるべきで、そんな危険な賭けに出るべきではない」と反対です。作戦課も一貫して「今や太平洋の対米決戦に全力を結集すべき時だ。ビルマに兵力分散は許されない。インパールの地形を考えると、補給が困難なのは明瞭で、第十五軍にその準備や確信があるとは思えない。断じて中止させるべきだ」との意見でした。
真田は綾部に、四つの疑間点について質しました。ビルマ南部にイギリス軍が上陸して来た時、インパール作戦中にその対応がとれるか。兵力増加を必要とすることにならないか。劣勢な航空兵力で地上作戦に支障はないか。後方補給の心配はないか。しかし綾部は、「南方軍はいずれも確信を持っている」と答え、「この作戦は寺内総司令官の強い要望によるものだ」。結局は、この一言がインパール作戦を決行に踏み切らせることになります。杉山参謀総長は「寺内のたっての希望であるならば、南方軍の出来る範囲でやらせてもよいではないか」。真田に翻意を促し、一月七日付で大本営の認可となったのです。
こうしてインパール作戦は正式に動き出したわけですが、陸軍大臣を兼務している東条首相も、真田と同じような質問をしたといいます。しかし、すでに作戦決行を決めてしまった参謀本部の答えも、南方軍同様「問題なし」でした。厳密に検討すれば、どれ一つをとっても、とても決行どころではなかったでしょう。インパール作戦決定に至る経過を見ると、ビルマ方面軍、南方軍、参謀本部にしても、作戦部門は一貫して反対していました。ところが首脳部の方は、作戦計画を綿密に検討することもなく、情に動かされたり、作戦がうまくいけばと、淡い期待をかけての決定になってしまったのです。ここに、最大の問題がありました。
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南方軍がインパール作戦の実施命令をiしたのは、昭和十九年一月十五日でした。牟田口軍司令官はこれを受けて二十七日、第十五軍の作戦会議を開いて作戦計画を提示したのですが、まず三月八日、柳田中将の第三十三師団が南から攻撃を開始し、インパールのイギリス第四軍を牽制する。次いで十五日、山内中将の第十五師団が中央から、佐藤中将の第三十一師団は北方から急襲的にチンドウィン河を渡河する。第三十一師団はインパール北方のコヒマを占領して、敵の増援を遮断し、その間に第十五師団と第三十一師団がインパールの敵を包囲殲滅する。
こういうもので、初期作戦期間は二十日間とされました。
しかし、牟田口の最初の計画では、作戦開始は二月、作戦期間もIカ月の予定だったのです。それが三月にずれ込み、作戦期間も短縮されたのは、中央突破を図る第十五師団の前線到着が遅れたためでした。中国戦線で戦っていた十五師団は、タイに着いたところで自動車道路建設に使われましたが、これは当時南方軍総参謀副長だった稲田少将が、牟田口に余計な兵力を与えれば暴走しかねない。それを押さえるための措置だったとも、戦局悪化によるタイ国内の動揺を心配した南方軍が、意図的に第十五師団の出発を遅らせたためだとも曾われています。しかもタイから前線に駆け付けるには千二百・。、東京から福岡あたりまで徒歩行軍しなければならないのです。十五師団主力の到着は、早くても三月十五日とされました。五月の中・下旬から始まるアッサムの雨季を考えれば、逆算してこの日が作戦開始のぎりぎりで、たとえ師団の三分の一が到着しなくても攻撃決行となったのです。しかし、長途の行軍に疲れ、作戦準備も乏しい部隊です。中央突破を図る第十五師団の戦力は、どんなにひいき目に見ても半個師団にも炭たなかったと言われ、この戦力欠如と作戦開始の遅れが最初の誤算となりました。
それもこれも、牟田口の急襲突破一辺倒の作戦構想、そして飛行機、戦車、重砲と、近代装備のイギリス軍を甘く見たことが原因だったのです。牟田口は口さえ開けば、「なあに、イギリス・インド軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回作戦を行えば必ず退却する。補給を重視して、とやかく心配するのは誤りである。マレー作戦の経験に照らしても、果敢な突進こそ戦勝の近道である」。装備の貧弱な植民地軍に勝った経験をひけらかしていましたが、瞬間的な突破力だけを重視し、敵を撃滅するのに必要な戦力を、どうやって機場の要点に集めるのか。その配慮が全く欠けていました。
しかも急襲突破の成功、この一点に成否をかけた作戦構想は、そのシワ寄せが攻撃力と補給に集中することになったのです。各師団にとって問題は、攻撃部隊を「突進隊」、[猛進隊]と名付けたことでも分かるように、どうやって二十日間、後方補給に頼らずに進撃を続けられるかどうかでした。険しいアラカン山系を登ったり下りたりして攻撃するのですから、重いものは持って行けません。まず重砲など重火器が制限されました。分解して、兵隊たちが背負って運べる運べる高地攻撃用の山砲程度です。第三十一師団が「九四式」と首って、皇紀二千五百九十四年、昭和九年採用の山砲十七門、砲弾は一門当たり百五十発。第三十三師団は『九四式』九門と大砲が少ない代わり、砲弾は一門八百発でした。第十五師団に至っては、威力の小さい連隊砲が六門、砲弾各二百発。四門の山砲は「三一式」、明治三十一年採用という旧式なもので、まあ太平洋戦争を日清戦争で戦うようなものです。もっと深刻なのは、砲弾の不足でした。こっちが一日一門三発ぐらいしか撃てないのに、イギリス軍の方は数千発も撃ち込んできます。結局は、この圧倒的な火力の差が、インパール作戦失敗の大きな原因になったのです。
兵隊の装備は小銃弾二百四十発、手榴弾六発に、食糧は一日六合として二十日分一斗二升でした。これだけでも三十七、八・。の盧さになります。そこで牟田口がとったのが、ジンギスカンが遠征の軍を起こすに当たって、常に多くの家畜を遵れていった戦法でした。一睨には牛三万瞑、馬二千韻、さらに数百韻の象を動員したと言われますが、これで兵器、弾薬、食糧、資材を運び、食糧が不足すれば、その牛馬を殺して食べる。作戦期間を二十日間としたのも、兵隊が自分で持って行ける範囲内でインパールを攻略すれば、ここは敵の補給基地だから食糧は同咽ないと考えたからでした。牟田口は「蒙古人は野菜はほとんどとらないが、生肉を常食としているから大丈夫なんだ」。こんなことを言っていたそうですが、野菜不足は多くの脚気患者を生むことになります。
そして「ジンギスカン戦法」は、あくまで机上の計算に過ぎなかったのです。ビルマの牛はほとんどが農耕用に使われていて、日本の牛のように荷物を運んだ経験がありません。まあ、これだけ日水軍に徴発されれば、バー・モウ首相が「民生を虐げている」と嘆くのも分かりますが、口本の兵隊の方も農村出身者以外はほとんど牛に触ったことさえありません。各連隊は二百五十人ほどの「駄牛中隊」を編成し、まず牛に慣れることから始め、次に鞍をつけることに牛を馴らし、その鞍に荷物を積んで進むことを教えなければならなかったのです。牛の世話に追われて、その分戦闘要員が不足することになりました。
どうにかチンドウィン河を渡っても、アラカン山系の険しい山には、牛や馬の食べる牧草が生えていません。牛両用の飼料は携行していませんから、見る見る痩せ細り、途中で倒れるものが続出したのです。積んでいた弾薬や食糧の大半はそのまま放置され、歩兵用の弾薬などは最初の携行量の半分以上も戦場に届かなかったと言われます。象はジャングルに入る前に引き返し、生きて再び阿を渡って帰ってきた牛はなく、馬も半分ほどに減っていたそうです。
その上、万一作戦が長引いた場合の後方補給が用意されていなかったのです。タイからビルマヘの軍事鉄道としては、映画『戦場にかける橋』で有名になった奉緬鉄道が、前年の昭和十八年十月に完成していました。
全長四百二十五km。
険しい国境山岳地帯とクワイ河沿いのジャングルを切り開いた難工事で、栄養失調やコレラ、マラリアなどで連合軍捕虜一万人余り、現地の労務者三万人が死亡し、
戦後、日本車の残虐行為として、工事関係者111人が戦犯の罪に問われています。
インパール作戦の場合、問題は、奉緬鉄道の駅からチンドウィン河まで130kmから160kmもあったことです。
当然自動車輸送に頼らなければならず、第十五軍は自動車中隊百五十、輜重兵(しちょうへい:兵站を主に担当する日本陸軍の後方支援兵科の一種)中隊60を要求したのですが、日本にはもうそんな力はありません。
南方軍の内示は、自動車中隊二十六、輜重兵中隊14と大幅に減らされました。
それも遠くシンガポールや太平洋戦線から転用するというのですから、インパール作戦にはとても問に合わず、実際は「紙に書いた数字」に過ぎません。
第十五軍司令部にも、前線へ送る食糧、弾薬どころか、その手段さえなかったわけです。
さらに開題なのは、牟田口が作戦会議に集めたのは各師団の参謀長だけで、三人の師団長は呼ばなかったことです。牟田口はかねがね「作戦不成功の場合を考えるのは、作戦に疑念を持つことであり、必勝の信念と矛盾する」。こう言っていましたから、階級が同じ中将で、何かと理屈を並べる師団長の反論など聞きたくもなかったし、一気に作戦を押しつける積もりだったのでしょう。
しかし、戦闘責任者の師団長が軍司令官の意図も作戦内容も十分納得しないまま戦うことになり、作戦の円滑を損なう結果になっていきます。第三十三師団長の柳田は、幕僚に「大変な戦になるぞ」と洩らしていましたし、第十五師団長の山内も重火器制限を聞いて、手記に「対支那戦法脱せざる感あり」。近代装備のイギリス軍相手の戦闘に不安を書いていますが、本当にその通りになるのです。
山内は、自分の部隊が長途の行軍に疲れ切っていることを知っていました。せめて食糧だけは、少しでも余計に持たせてやりたいと思ったのでしょう。「糧食二五日分の携行法」として、「七日分は各自携帯、中隊は二人一級で二十五々。担ぐもの三十組を作り、これで八日半分携行する。駄馬で四日半分持って行き、連隊に牛二百五十頭を支給、これで二口分を携行し、牛を食うことによって三日分に代用する」。どうやって二十五日分にするか、苦心のほどを書いていますが、兵隊たちも軽業師的な作戦に、一様に不安を感じなから戦場に向かいます。
実は、インパール作戦がまさに始まろうとしている時、その三日前の三月五日夜、重大な警報が出ていたのです。ウィングート少将率いる空挺部隊がビルマ北部、第十五軍の背後に降下して来たのです。ビルマ防空を担当する罫五飛行師団長の田副登中将は、すぐ牟田口の所に駆け付け、「インパール作戦を中止し、この敢に当たるべきだ」。こう進言したのですが、牟田口は聞きません。「単なる後方撹乱だろう」と言うのです。田副は空からの偵察で、集城資材を空輸していることを掴んでいました。しかも第五飛行師団は、一月に爆撃機五十四機が南方戦線に転用され、実働可能機数は百機ほどに減っています。「敵は飛行場を建設するでしょう。そうなればビルマは内側から混乱し、インパール部隊への補給も中絶することになります」。第十五軍の援嘆が出来なくなると訴えたのですが、牟田口の作戦計画には最初から航空支援は入っていません。飛行師団に求めたのはチンドウィン河渡河の際の戦闘機による援護だけで、飛行機の力というものを全く軽視していました。『敵は自ら求めて袋の鼠になった。虎の子の空挺を降ろしてきたことは、これ以上の幸いはない。空挺作戦に注意を奪われている虚に乗じて、インパール攻略を断行する」と言うのです。田副はラングーンにも飛んで、河辺方面軍司令官にも作戦中止を求めたのですが、河辺は「インパール作戦は始まったばかりだ。たとえ方面軍がやめると言っても、もはや大本営はお許しにならないだろう」と、受け付けません。
ところが、この空挺部隊はそんな生易しいものではなかったのです。イギリス軍はまず百機のグライダーに二個旅団、九千人を乗せ、グライダーは使い捨てにして、兵器、弾薬と共に大量の築城資材を空輸していました。強固なコンクリート陣地を作り上げると、飛行場建設にかかり、さらに二個旅団を送り込んで来たのです。イギリス第四軍司令官のスリム中将は、空からの偵察で日沸軍のインパール作戦の動きを的確に掴んでいました。手薄になった第十五軍の背後に空挺部隊を送り、ビルマ北部、中部一帯から日水軍の一掃を狙った作戦だったのです。
深刻な影響は、二週間後には早くも出てきました。高松宮海軍大佐は三月十九日の日記に、北部ビルマに五箇所の飛行場が出来、この方面の第十八師団は完全に補給路を断たれ、インパール作戦の袖給路も脅威を受けるようになった。「作戦ノ成否ニモ疑問ヲ懐カルルコトトナレリ」と書いています。高松宮は海軍の参謀ですから、当然陸軍の参謀から聞いた情報なのでしょうが、参謀本部がそこまで分かっていながら、なぜすぐ方面軍に適切な指示をしなかったのか。インパール作戦に増援予定の一個師団半は、空挺部隊との戦闘にかかりっきりになり、ただでさえ劣勢の航空部隊も、この攻撃に手いっぱいになりました。そしてインパール作戦の部隊は、「上空を飛び回っているのはイギリス機だけ」と嘆くことになり、空からの攻撃で大きな打撃を受けることになるのです。
私が「高松宮日記」を貌んでいつも感心するのは、高松宮が実によく情報を集め、しかも的確な分析をしていることです。陸海軍首脳部がこれくらい情報を大切にしていたら、ずいぶん違っていたのではないでしょうか。
それでも三月八日から始まったインパール作戦は、最初だけは順調に進みました。南から攻撃を開始した第三十三師団は、十三日夕刻にはトンザン、シングルを占領してインパール街道を遮断し、イギリス第十七師団を狭い谷の中に包囲したのです。十五日には第十五、第三十一師団のチンドウィン河渡河も無事に成功し、それぞれインパール北方とコヒマを目指して進撃していきました。
しかし、攻撃力の差は歴然でした。第三十三師団は包囲はしたものの、戦車を先頭に立てたイギリス軍の反撃に死傷者が続出したのです。第二百十五連隊長は三月二十五日、「暗号書ヲ焼キ、軍旗ヲ処理シテ、全員玉砕の覚悟ニテ奮闘ス」と電報してきました。連隊長の気持ちは最後の「奮闘ス」にあったと言われますが、柳田師団長は連隊全滅の危機ととり、二・。西方に撤退して、退路を開放するよう命じたのです。イギリス軍はそこから撤退していきましたが、柳田が牟田口に宛てて「我編成装備は極めて劣弱にして、敵に比し総合戦力不十分。徒に人的消耗を来し、今やインパール攻略は不可能に近く、仮令、之が攻略なるも爾後の防御困難なり」。こういう電報を打って「作戦中止」を具申したものですから、牟田口はカンカンです。柳田とすれば「敵に戦車があるのに、こちらは徒手空拳」の思いだったのでしょうが、「戦意不足」と見倣され、五月十六日に解任されます。
失敗の連続だったインパール戦の中で、見事な戦いで「名将」と言われたのが第三十一師団宮崎支隊の宮崎繁三郎少将です。日本陸軍の伝統といえば「白兵突撃」ですが、宮崎はそんな画一的な戦闘法はとらず、兵隊たちの特技で戦わせたのです。手榴弾投擲の得意な兵隊には手榴弾だけ、射撃が得意なら弾丸をたっぷり持たせ、銃剣術に優れていればその長所を生かす配置をして、四月六日にはコヒマを占領しました。コヒマは、鉄道が通っているディマブールと、インパールとを結ぶ唯一の陸路の中間にある要衝です。第十五、第三十三師団によるインパール包囲態勢も出来、大本営は『もうすぐ攻略だ』と鳴り物入りで発表しましたが、日本車の進撃もそこまでだったのです。四月半ばを遜ぎると制空権は完全に奪われ、猛烈な砲爆撃に曝されて攻撃力は急速に低下していきました。
しかも、一見順調に見えた日本軍の進撃は、イギリス軍にとっては予定の行動だったのです。スリム中将は、第十五軍の後方に空挺部隊を送ると共に、十五軍正面の部隊には後退作戦をとらせました。日本軍に険しい山越えをさせて疲れさせ、インパール盆地に誘い込んで、補給路が延び切ったところで叩こうというのです。形の上では日本軍が包囲していても、イギリス軍の抵抗は円筒陣地を構築して頑強でした。砲兵を真ん中に置いて、その周りを円を描くように戦車、重火器で固め、こうした防御陣地が蜂の巣のように配置されています。陣地同士は無線で連絡を取り合い、上空には飛行機がひっきりなしに飛んできて、攻撃、補給に当たります。まあ、どっちが包囲しているのか、分からないようなものでしたが、戦線が膠着してくれば、補給無視がまず糧食欠乏となって、じわじわやって来ました。
コヒマでは、一面のテニスコートを挾んで、わずか40m~50mの間に日英両軍が対峙していたんだそうです。
話し声も聞こえるし、朝には朝食の匂いがプーンとして、すきっ腹にこたえました。
わずかにありついたのが、空からの『敵さん給与』です。
イギリス軍輸送機が色とりどりのパラシュートで補給物資を投下したのですが、お互いの第一線が余りにも近過ぎたため、かなりの量が日本軍の方に落下しました。
茶色の麻袋を開けると一斗缶が四個。
その一つずつにバン、ミルク、煙草に缶詰、チョコレートからブランデーまでぎっしり詰まっています。
それに引き替えわが兵糧といえば、焼き米に岩塩。
それさえなくなって、兵隊たちは
牟田口が「食欠乏せぱ、敵を蹴散らしてこれを取れ」。こう言っていたのを知っていましたから、
「冗談じゃねえ。てめえがここまでやって来て、蹴散らしてみろってんだ。無駄口ばかり叩きやがって…」と、怒ったそうです。
牟田口も焦りを感じて、四月二十一日にインパール総攻撃を決行することにして、十七日、佐藤第三十一師団長に宮崎支隊を第十五師団に増強するよう命じたのです。しかし、コヒマ攻防戦が激化している時で、佐藤とすればとんでもない話です。「兵力抽出不可能」と返電し、拒否をしました。命令違反でしたが、牟田口も統率力がないと思われるのがいやだったのでしょう。表沙汰にせず、二十九日に「抽出中止命令」を出しましたが、この日は牟田口が「インパールは天長節までに必ず占領してご覧にいれる」。こう豪語していた、まさにその日でした。そして日が経てば経つほど、敵はどんどん増強されていくのに、日本軍の戦力は四〇%前後に低下、弾薬の補給もほとんどなく、ただ消耗を重ねるだ肘になっていったのです。
それにしても驚くのは、ビルマ方面軍、南方軍の上級司令部が、この日までインパールの戦場に一人の参謀も派遣していなかったことです。実情を知らないままに楽観していましたが、それが愕然とすることになったのは、五月三日に前線を視察してきた方面軍補給担当参謀後勝少佐の報告でした。泰彦三郎参謀次長が南方各地を視察中で、そのため初めて参謀を出したのですが、その報告は「彼我の戦力、補給能力、敵軍の抗戦意欲などを考えると、敵軍の自主的降伏、または退却という奇蹟が起こらぬ限り、攻略は不可能である」。さらに「補給と雨季の状況を考えれば、作戦遂行の限度は五月末までである。故に、一応全力をあげて攻撃を続行するが、事の成否に拘らず、五月来には作戦を終了することが肝要である」と言うのです。
この報告には、秦参謀次長に随行した参謀本部作戦扉作戦班長の杉田一次大佐か立ち合っていました。この人は戦後、自衛隊陸将になり統合幕僚会議の議長を務めた人ですが、四月に作戦班長になったばかりで、代々作戦里で占めてきたこのポストに中学出の英語組、情報畑の杉田を持ってきたのは、戦局の悪化でやっと情報の大切さに気が付いたのでしょう。杉田には意外な報告でした。方面軍司令官の河辺から「インパールは牟田口に任せておいて大丈夫です」と、聞いたぱかりだったからです。杉田は後少佐に細かく質問した後、自分の目で見て来た後の報告は正しいと見て、参謀本部に「インパール作戦危機」を打電したのです。この情報はすぐ高松宮の耳に入ったとみえ、五月五日の「高松宮日記」には「陸軍デハ『インパール』作戦ノ報導ヲ薄クシ、支那河南作戦ノ報導ヲ以テ打消スベク方針ヲ決ス」とあります。太平洋戦線の玉砕続きを打ち消すため、連日新聞紙面を派手に飾ってきたインパール報道は、こうして次第に姿を消していくのです。
秦参謀次長の南方視察報告は五月十五日、東条参謀総長以下陸軍首脳部出席の席で行われました。東条はトラック島の連合艦隊根拠地が壊滅的な打撃を受けた直後の二月二十一日、「国務と統帥を一体化させる必要がある」として参謀総長になり、海軍大臣の嶋田繁太郎にも軍令部総長を兼任させていました。軍の作戦については、陸軍大臣を兼務している東条といえども口出し出来ず、戦局の悪化で 「これでは戦争遂行も覚束ない(おぼつかない)」と思ったのですが、異常ともいうぺき権力の集中は、陸軍部内でさえ「東条幕府だ」、「権力亡者だ」と、大変評判の悪いものでした。
それはともかくとして、奉は「インパール作戦成功の公算、低下しあり」と報告したのです。杉田大佐の実感は「もうとてもダメだ」でしたが、突然ショック与えてはというので、婉曲な表現に『作戦中止』の含みを持たせたのだそうです。ところが、東条は激怒しました。『どこが不成功なのか、何か悲観すべきことがあるのか』。居丈高に秦に詰め寄り、「若年の一参謀の報告を僑じて啼って来るとは何事か」と、満座の中で叱り付けたのです。種村大佐は『大本営機密日誌』に、「総長としては、この作戦の成功には政治的にもかけていた期待が大きかっただけに、気に入らなかったのであろうが、すぐ前の三笠宮にいっているようでもあった。一座はすっかり白けきって解散した」と書いています。つまり、参謀木部参謀として出席していた三笠宮少佐の口から天皇の耳に入り、ますますの戦局の悪化で天皇の信頼を失い、政権維持が難しくなるのを恐れたというのです。
確かに東条にとっては、この時期、インパール作戦の成功は唯一と言っていいほどの光明だったのでしょう。河辺方面軍司令官に「インパール作戦は今や世界的問題なり。ビルマ方面軍はインパールを攻略すべし」と命令したのです。東条の「インパール作戦継続」の命令は、「インパールの悲劇」を最小限に食い止める最初のチャンスをつぷしただけではなく、かえって第十五軍を督励し、苛酷な戦闘を強いる結果になっていきます。
インパールの雨季は、例年より早くやって来ました。前線への補給は絶たれ、田副第五飛行師団長のもとには、空中補給を依頼する佐藤第三十一師団長の悲痛な電報が届きました。「弾一発、米一粒モ補給ナシ、敵ノ弾、敵ノ糧食ヲ奪ッテ攻撃ヲ続行中。イマ頼ミトスルハ空中ヨリノ補給ノミ。敵ハ糧食弾薬ハモトヨリ武装兵員マデ空中輸送スルヲ眼前二見テ只々慨嘆ス」。結核で病床に倒れていた山内第十五師団長からも、緊急電が入ってきました。「第一線ハ撃ッニ弾ナク今ヤ豪雨ト泥淳ノナカニ傷病ト飢餓ノ為二戦闘カヲ失ウニ至レリ。第一線部隊ヲシテ此二立チ至ラシメタルモノハ実二軍ト牟田ロノ無能ノ為ナリ」。しかし第五飛行師団の実働可能複数は百機にも満たず、それも交通線を守るために、ウィングート兵団の攻撃にかかりっきりになっていたのです。
第三十一師団の兵隊たちは、『コヒマ戦記』と名付けた、こんな即席の歌を歌っていたそうです。「昼は飛行機夜は迫これは迫撃砲のことですが雨と降りくる弾の中今日も出て行く肉攻班お国のためとはいいながらほんとにほんとにご苦労ね』。そして「雨のアラカンどこまでも担架かついでさまよえど米の補給はさらになし糧を求めて移動するほんとにほんとにご苦労ね」と続きます。第三十一師団には、四月下旬にジープ十五台で山砲弾が五百発、五月に入ってジープ三台でわずかな「陣中見舞」が届いただけでした。佐藤師団長は痩せ衰え、破れた軍服で雨に打たれなから歌う兵隊を見て、胸ふさかれる思いだったのでしょう。このままでは師団が壊滅すると、五月二十五日、第十五軍に「師団ハ今ヤ糧食絶工山砲及歩兵重火器弾薬モ悉ク消耗スルニ至レルヲ以テ遅クモ六月一日迄ニハ『コヒマ』ヲ撤退シ補給ヲ受ケ得ル地点迄移動セントス」と打電したのです。
これには、さすがの牟田口も驚いたようです。三十一日、軍参謀長に「貴師団が補給困難ヲ理由ニ『コヒマ』ヲ放棄セントスルハ諒解二答シムトコロナリ、尚十日間現態勢ヲ保持サレタシ・・・断シテ行ヘハ鬼神モ避ク」。こう打電させたのですが、佐藤はもう聞きません。「コノ重要方面二軍参謀モ派遣シアラサルヲ以テ補給皆無、傷病者続Iノ実情把握シ居ラサルモノノ如シ、状況ニョリテハ師団長独断処置スル場合アルヲ承知セラレタシ」。こう返電して、宮崎少将に殴を任せ、六月一日から独断撤退を開始したのです。
これまで個人の戦線離脱はありましたし、小人数の部隊がはぐれて任地を離れたこともありました。しかし戦略単位の一個師団が、一体となっ戦線を離脱したケースはありません。陸軍刑法では「死刑」に当たる罪です。佐藤は「補給無視を責める」という名のもとに、覚悟の行動だったのでしょう。「命令拒否」の決意を示すため、撤退と同時に無線を封止して第十五軍との連絡を断ってしまったのです。牟田口としては、軍司令官の体面にも関わる不名誉な問題です。六月二日。
「師団主カハ補給ヲ受ケタ後、第十五師団ト連携シ、インパール攻撃ノ準備ヲセョ」。こう命令して、コヒマから七十・。ほど離れたウクルルまでの後退を追認したのですが、命令違反を回避させる措置でした。
インパールの戦いで、「作戦決定」以上に無責任だったのが、「作戦中止」の決断だったと言ってもいいでしょう。方面軍司令官の河辺が、前線視察に出たのは五月二十五日でした。自分の目で見て判断するためでしたが、どの師団もひどい状況なのはすぐ分かったはずなのです。ですから六月五日、頬がこけ、目を血走らせている牟田口を見て、「もし牟田口が作戦中止を進言するなら、それを承認する気持ちでいた」と言います。とろが牟田口は、何度かロまで出かかって躊躇する様子は見せたものの、結局は結核の山内第十五師団長の更迭と、遠慮がちに兵力増加の要望を申し出ただけでした。
牟田口は後で「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すぺく、脈をとりに来たことを十分承知したが、どうしても将軍に吐露することが出来なかった。私はただ、私の風貌によって察知して賃いたかったのである」。こう言っていますが、阿辺は確かめることもせずに帰途につき、「中止決断」の最後のチャンスは失われたのです。河辺には、前線で握手したインド国民軍将兵の顔が焼き付いていました。「若し冷静にこの戦況を客観することが許されるならば、この時既に予は作戦中止の決心に出たであろう。しかし、この作戦には私の視野以外にさらに大きな性格があった。なんらか打つべき手の一つでも残っている限り、最後まで戦わねばならぬ。そしてチャンドラ・ポースと心中するのだ、と予は自分に言い聞かせた」。二人とも「もうダメだ」と分かっていながら、腹の探り合いに終始し、『敗戦』を口に出す勇気がなかったのです。
第三十一師団の退却は続いていました。佐藤師団長はウクルルにも糧食がないと分かると、軍の補給点になっているフミネに向けて後退を続けたのです。六月二十二日には、遮断していたコヒマ・インパール街道が突破され、戴戦車が続々とインパール盆地に進入して来ました。牟田口も堪忍袋の緒を切らして、翌日、河辺方面軍司令官に「情状酌量ノ余地ナシ、佐藤ヲ召喚シ、軍法会議ニカケテ厳重二処断セヨ」。こう電報を打ちましたが、破滅的な状況になっていることは牟田口にもよく分かっていました。第十五軍参謀長が牟田口の意中を察して、二十六日、方面軍に対する「作戦中止」具申の文案を作成すると、牟田口は何も言わずに決裁し、すぐ打電させたのです。大本営にも三十日、南方軍から「インパール作戦ハ逐次コレヲ抑制スルノ要アルヤモ知レズ」。及び腰ながらも「作戦中止」の許可を求める電報が届き、さすがの束条参謀総長もあきらめたのでしょう。翌日の七月一日、天皇に上奏して裁可を得ると、インパール作戦中止命令は五日、牟田口に伝達されたのです。佐藤師団長の罷免もこの日発令されましたが、佐藤は「牟田口と、河辺と、南方軍と、大本営と、バカの四乗なり」と言ったそうです。
この決定までに、何と時間のかかったことか。しかし作戦は中止されても、悲惨な撤退はまだまだ続いていたのです。マラリアに赤痢、そして飢えに喘ぐ兵隊たちは、猛烈な豪雨の中、三々五々と長蛇の列を作り、泥濘(でいねい:ぬかるみ)の道をよろめきながら、ひたすら歩きました。イギリス軍の爆撃、戦車に追われ、山道にハシゴをかけ、木の根を伝って逃げましたが、小銃は捨てても飯倉だけは放さなかったそうです。道端には、行き倒れの兵隊が増えていきました。虚ろな目を間いたまま、願中に群がる蝿を追い払う気力もなく、忍び寄る死を待つだけ。ボロボロの軍服の兵隊が夢遊病者のように寄ってきて、「兵隊さん、お願いです。米を…」とすがります。兵隊が兵隊を見て「兵隊さん」と言う。まさに「兵隊乞食」でした。
朝日新聞記者として従軍した丸山静雄は、爆音が聞こえて、橋桁の下に駆け込むと、兵隊が一人寝ています。敵機が去ってホッとしてその兵隊を見ると、白骨の兵隊でした。頭蓋骨が戦闘帽をかぷり、白骨の手が手袋をはめ、白骨の足が靴を履いていると言うのです。丸山は「インパール作戦従軍記」に、書いています。
「死体はポツンと、ただ一体だけ横たわっているようなことはなく、一体の死体のあるところには数十の死体が続いていた。人間は孤独であるとか、孤独を愛するなどというが、やはり一人ぽっちでは死ねないのであろう。よく見ると、死体の横たわっている側はやや高く、山径に面して勾配があり、あたりにはあまり木がなく、比較的明るくひらけていた。濃密なジャングル内の薄暗く、ジメジメした地域や湿地帯にはあまり死体はなかった。やはり、こざっぱりした少しでも美しいところで最後は息を引きとりたかったのであろう」。悲しい話です。
大本営は八月十二日、インパール戦の敗北を「インパール戦線整理」と発表しました。「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし我部隊は八月上旬印緬国境付近に戦線を整理し、次期作戦準備中なり』。こう発表したのですが、河辺と牟田口は責任を問われて三十日付で参謀本部付となり、六月十日に第十五師団長を解任された山内中将は八月五日に病死していました。佐藤中将については、牟田口が軍法会議を主張し、佐藤も「望むところ」の態度を見せていましたが、河辺は軍医に『急性精神過労症』と診断させ、不起訴にしたい意向をとり続けたのです。大本営は最終的に「苛烈な戦局下における精神錯乱」として不起訴にし、十一月二十四日付で予備役編入、即日召集してスマトラの軍政顧問にしています。
しかし、どうでしょう。佐藤の独断退却は、どんな理由があったにせよ明らかな命令違反であり、当然軍法会議にかけてきちんと究明すべきだったのです。自分の部下の命は救ったかも知れませんが、その退路に布陣していた友軍将兵を恐慌状態に巻き込みました。防衛庁の記録によると、佐藤の第三十一師団の残存兵力約五千、損耗率六七%に対し、第十五師団は約三千三百人、七八%、第三十三師団が約二千二百人で八四%。この数字は、他の二師団が側背から攻撃を受けることになって、犠牲を多くさせる結果になったことを物語っています。そして一見、温情的ともとれる措置は、陸軍史上でも例のない不祥事を表沙汰にしたくなかった。「陸軍全体の名誉」を重んじたものだったのです。
インパールの日水軍将兵は、圧倒的な戦力の違いの中で実によく戦いました。悲惨な敗戦の責任は、全て牡損な作戦計画を強行した牟田口にありましたが、当の本人は最後まで自己弁護に終始したのです。昭和四十年代、新聞社やテレピ局、雑誌社を訪ねては、『わが作戦に誤りなし』と吹聴して回る牟田口の姿が見られました。そして丸山記者の「インパール作戦従軍記」を読むと、「牟田口の下に、この将軍あり」といった感じの、ひどい将軍の話が出てきます。
第三十三師団の北側からバレルを目指した山本支隊は、戦車三十台、重砲四十門を持つ、第十五軍の中では唯一の「火力突進隊」でした。インパールヘの進攻ルートのうち、ここだけが舗装道路になっていて、火力と機動力を集中して強行突破を図ろうとしたのです。ところが支隊長の山本募少将は、尾根の陰に石で何重にも囲った横穴式の壕を司令部にして、そこに閉じ催もったまま。丸山記者は山本が外に出たのを見たのは、上級の将軍が視察に来た時、恐らく河辺だったのでしょうが、その一回だけだったと言います。理由として「将というものは、血を目にすべきではない。それによって憐慾の俯を起こし、指揮統率にためらいが出るようなことがあってはならない』。こんなことを言っていたそうですが、将兵は飢えているというのに、自分には四人もの食事係をつけていました。
それでいて、部下に対する命令は峻烈で、一度攻撃を命じると、目標の陣地を奪うまで同じ何度も部隊に攻撃を命じたというのです。失敗した指揮官は司令部に呼び付けられ、兵隊たちが「反省のテント」と呼ぶようになった、小さな薄暗いテントで何日も正座して反省させられます。そして「最後の突撃」を命じられ、悄然として前線に戻って行ったといいます。本人は「安全第一」なのですから、無事日本に戻り、上には覚えがよかったのか、昭和二十年四月に中将に昇進、第二百十四師団長になっています。
インパール作戦の失敗は、ビルマ防衛全体の破綻を招きました。フーコン渓谷でも雲南でも反撃が始まり、日水軍は敗走を重ねなければなりませんでした。ビルマ独立で国防相になっていたアウン。サンは、これを見て秘かに抗日勢力を集めて「反ファシスト人民自由連盟‘を結成したのです。日本の都合のいいように使われている傀儡政権の実態に、『亡霊のようで猿芝居みたいな独立。幻想に過ぎない』と言っていたそうです。真の独立への最短距離のためには、誰とでも組む戦略でしたが、敗北が決定的になってきた日本とは心中するわけにはいかなかったのでしょう。昭和二十年三月七日、ラングーンでイギリス軍攻撃に向かうビルマ国軍の出陣式が行われた時、アウン・サンは来賓の日本車幹部の前で、演説の最後をこう締め括りました。『最も近くの敵と戦え』。照準は日本軍でした。十日後の十七日、国軍と地下組織は抗日のため、ビルマ全土で一斉蜂起したのです。日本の敗戦後も、独立に向けてイギリスと交渉していましたが、悲願達成が半年後に迫った昭和二十二年七月十九日、政敵に暗殺されました。三十二歳でしたが、今もこの日は「殉国者の日」としてミャンマー国民の休日になっています。
一方、インパール作戦に参加したインド国民軍も、大きな打撃を受けました。ビルマまで辿り着いた兵士は、約二千人だったと言われます、日本の敗戦で夢破れたポースは、今度はソ連に援助を求めようと、ラングーンから台湾経由で日本に向かおうとしましたが、昭和二十年八月十八日、搭乗換が台北飛行場を離陸直後に墜落して亡くなりました。四十八歳でした。
そして日本では、インパール作戦中止二日後の昭和十九年七月七日、サイパン島が陥落し、さしもの権勢を跨った東条も内閣総辞職に追い込まれるのですが、一月は「サイパン陥落と東条内閣総辞職」というテーマでお話します。
(当ブログのコメント)本当の強さとは暴力以前に全ての情報に真剣に向き合って、隙の無い作戦が立てられる者が持つものであって、東条英機にはその強さは全く無かった。最後には、やさしい拳銃自殺にさえも失敗した弱い人間だったと思う。
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