2015年12月13日日曜日

安倍晋三は負ける戦争を始めた東条英機に似ている

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第39回 戦時下の言論 中野正剛代議士自殺と横浜事件

 太平洋戦争の代表的な言論弾圧、思想弾圧事件と云えば、これからお話する中野正剛代議士の自殺と横浜事件です。
中野の場合は新聞がすぐ「中野正剛氏自殺、昨夜日本刀で割腹」。
二段見出しで速報しましたし、現職代議士の突然で、しかも自刃という死に方の異常さもあって、政界、言論界に大きな衝撃を与えましたが、これは憲兵の圧力によるものでした。
横浜事件の方は昨年の四月、横浜地方裁判所で元被告の遺族による再審請求が認められ、新聞、テレビでも大きく取り上げられましたから、皆さんもよくご存じだと思います。
しかし、戦争中は全く報道されず、もう少し戦争が続いていたら、あるいは闇から闇に葬られていたかも知れないのです。
こちらは悪名高い特高警察が、それもでっち上げ調書を作るため、言語を絶する拷問により四人が獄中で死亡、四人が保釈後に死ぬと云う凄惨な事件でした。
きょうはこの二つの事件を中心に、昭和十七、十八年頃の国民生活がどんなものだったのか、そんな中で時の東条英機内閣打倒、さらには戦争終結へ向けての動きがどのように進められていたのか。
「戦時下の言論」というテーマで話してみたいと思います。

 戦争中の思い出と云うと、戦争に行かれた方、戦争で肉親を失われた方、あるいは私のように勤労動員にとられて空襲で焼け出された者など、その時の境遇、年代によっても様々だと思います。
食い物の恨みは恐ろしいと云いますが、何が一番辛かったかと聞かれれば、私の場合は情けないことに空腹です。
とにかく満足に食べるものがなく、「ああ腹いっぱい、ご飯を食べたい」、戦争末期には甘いものに飢えて「お汁粉を食べたいな」と、どのくらい思ったでしょうか。

 お米はすでに開戦前、昭和十六年四月から割当通帳制による配給になっていました。
支那事変が長引き、農家の働き手はほとんどが戦場です。そこへ朝鮮、西日本一帯が凶作に見舞われ、米不足が心配になってきたためですが、配給量は大人一人一日あたり二合三勺、三百三十グラムでした。
普通の大人の消費量を二割ほど下回るものでしたが、国民が食糧難を実感するようになったのは、十八年六月に米の代用としてジャガ芋が配給され、その分米が差し引かれるようになってからでしょう。
九月からは都市近郊での野菜の買い出し制限も始まり、一人2貫目まで7.5kgとされました。それでも埼玉県では平日で五千人、休日には一万人もの買い出しが殺到したそうです。
取り縮まりも厳しくなり、十月十七日の日曜には栃木県の一斉取り締まりで、千五百三十人が検挙されたという記録か残っています。
私の母なんかも米やジャガ芋に換えてもらおうと、高価な着物を抱えては買い出しに出かけたものでした。
当然のことながら、米の値段は3倍から4倍、一升四円ほどの闇値に釣り上がったのです。


 配給米はそれより早く、十八年一月には五分づきになっていました。
新聞の見出しが「逞しく噛みしめよう」です。
やがて二分づきになり、皆さんもやられたでしょうが、少しでも消化をよくしようと、一升瓶にお米を入れては棒でせっせと突っついたものでした。
しかもコウリャン、豆カス、トウモロコシが混ぜられ、主食の質・低の低下は、国民生活を著しく窮乏化させることになったのです。
当時の婦人雑誌『主婦の友』を見ますと、
『米は洗わずに湯炊きして、これを国策炊きと云うんだそうですが、三割増しにする』、
「少い量で口を満足させるには、ご飯は最初に汁物を 二杯ほど飲んでから食べる」、
「ニンジン、大根、カボチャの葉っぱ、防葉も食べ、
卵の殼はすりつぶして粉にし味噌汁に。
雑草も工夫して食べよう」。
こんな記事か出ています。政府の方も決戦下の食糧戦を勝ち抜くため、空き地を利用した家庭菜園など、国民に自給自足態勢を整えるよう呼び掛けています。


 切符配給制は、それこそ生活必需品のあらゆる分野に及びました。
何をおいても、弾丸用の火薬ということでしょう。
マッチはもう十五年六月から六人家族の場合、二か月で小型のマッテ箱がたった一個、まさに貴重品でした。
調味料は十七年に入ってからですが、月に一人あたり塩200g、味噌百八十三匁、醤油3合7勺です。
衣料品も二月から点数制になり、お金があっても買えなくなりました。
年間一人百点で背広50点、政府奨励のカーキ色の国民服は52点でしたが、買おうにも肝心の品物かありません。
現物の裏付けのない、有名無実なものになったのです。
戦争中の母と云うと、すぐモンペ姿を思い浮かべるのですが、名占屋では十八年四月から市電、市バスの女の車掌さん六百人の服装をモンペに統一しています。
八月のことですが、大日本婦人会のご婦人たちが銀座などの盛り場に出て、長袖の和服姿の女性を見つけては、
『決戦です!すぐお袖を切って下さい』。 こんなお節介なカードを手渡したと云うのですが、この頃から女性はどこを見てもモンペ姿になっていったようです。
石鹸の配給も4人家族で都市部が月二個、地方は一個。
それも原料となる油脂、アルカリ類の不足で、粘土分が七十%。
使うとドロドロに溶けてしまう代物でした。
物不足の深刻化と共に行列買いが日常化し、情実売り、闇取引、抱き合わせ販売、横流しが横行することになったのです。


 政府は十八年一月、間接税増税を閣議決定しています。
酒税、砂糖消費税のほかに、新たに写真撮影とか整髪美容、印刷製本から洋服の仕立て、こんなものにまで「特別行為税」というものを新設したのです。
この戦時増税を『奢侈浪費を国民生活から一掃し、決戦生活態勢を確立するためだ』と説明していますが、
増え続ける軍事費捻出以外の何物でもありません。

そして増税に先立って一月十七日から、たぱこ値上げを実施したのです。
軍隊専用の「ほまれ」を除いて、「金鴎」十銭が十五銭、「光」十八銭が三十銭。
最高15割、平均6割1分もの値上げです。
古川ロッパは日記に、
「新聞を見て びっくり、タバコ値上げ、今度のは吃驚するほどにて、光が一八銭が三十銭はむごい」
と書いています。


 それにしても私が驚くのは、あんな戦時下であっても、庶民の此判精神は鋭くまた旺盛だったことです。
内務省警保局の「特高月報」、これは各都道府県の特高警察が集めた巷の時報ですが、
埼玉県北葛飾郡の国民学校六年生が友達と遊んでいて「金鶏あがって十五銭」と歌ったと云うのです。
昭和十五年は、日本中か紀元2600年に沸いた年でした。
この時の奉祝歌『金鶏輝く日本の 栄ある光 身に受けて』をもじって、うまいことを歌うものですが
「金鶏あがって15せん 栄ある光30せん 遥かに仰ぐ鵬翼は25せんになりました ああ1億はみな困る」。
こんな替え歌が流行り、値上げの世相を皮肉ったのです。


 いつの世もそうですが、「ないない尽くし」の庶民とは無縁の特権階級もいました。
「特高月報」には、東京・南千住の工場従業員の間で、
「今の社会で幅きくものは星に錨に桜に闇よどうせ俺等は捨小舟」。
こんな歌が流行っているとか、
『世の中に星に錨に闇に顔、バカ者のみが行列に立つ』と云った、落書が報告されています。
星が陸軍、錨が海軍で、闇は闇商人、顔が官庁や大企業のことですが、
私の中学の同級生の父親にも赤羽の陸軍造兵廠の主計少佐がいました。
ここは別世界で、チョコレートでもキャンデーでも何でもあるのです。
私は批判よりはご馳走にありつく方が先で、
何日は誰それの誕生日だから誕生会を開こうとか、口実をつりてはよくその家に集まったものでした。


 政府は日米開戦必至の情勢になってくると、特高警察を増員すると共に十六年九月、内閣情報局に「流言蛮語対策協議会」を設置して、こうした噂話の取り締まりを強化していました。
開戦当初こそ国民は連戦連勝に沸き立ち、動揺は見られませんでしたが、
戦線が膠着化して生活物資が欠乏し、長期戦の様相かはっきりしてくると、
民心に変化が現われ始めたのです。
ことに十八年に入って、[転進]と発表されたガダルカナルからの撤退、
連合艦隊司令長官山本五十六の戦死、
アッツ島玉砕と暗いニュースが続くようになると、
国民は疲れ、日常生活の困窮に不安や不満を募らせるようになっていきました。
それでも憲兵、特高警察の厳重な監視下ですから、表向きは「見ざる、言わざる、関かざる」です。
しかし「特高月報」には、
神田の公衆便所に「戦争ヤメロ」、
和歌山では五十銭紙幣に「天皇陛下のばか」。
こう云った落書がありましたし、
大阪では
「我々はもう戦争にはあきあきしました。一日も早く平和の来るよう神様に御祈り致しましょう。此の葉書を受り取った方は此の通りに書いて、あなたの知人2人にお出し下さい。早く平和の日か来ます」。
こんな葉書が摘発されています。
そして取り締まりを強化すればするほど、人々のロ伝てに流布される噂や世間話は真実みを帯び、数少ない貴重な情報と なっていったのです。


 そんな中で東条内閣が国民の戦意高揚に考え出したのが、排外熱を煽るための敵性音楽と敵性語の追放です。
芸名や駅の表示からカタカナ語をなくす動きは十五年頃からありましたが、内務省と情報局は十八年一月、『ダイナ』、「スザンナ」など、演奏を禁止する米英音楽一千曲のリストを発表し、追放に釆り出したのです。
中でもジャズ、軽音楽は「軽佻浮薄、頽廃的、扇情的、喧騒だ」として、ラジオの音楽番組から締め出され、レコード盤も回収されました。
もっともダンスホールはとっくに閉鎖されていましたし、ジャズメンはバーやカフェーでも職場を失っていましたから、
本当に影響かあったのは、家庭で密かにジャズを楽しんでいた人たちだったかも知れません。
そして残ったのは、同盟国ドイツ、イタリアの音楽だけでした。


 追放の対象は、雑誌名、職業名からスポーツ用語など、日常人々になじまれてきた米英語にも向けられたのです。
「エコノミスト」は『経済毎日』、雑誌「キング」は「富士」になりましたし、ニュースは報道、アナウンサーが放送員、レコード盤が音盤で、「ド・レ・ミ」は『ハ・二・ホ』と云った具合です。
サッカーは蹴るから蹴球はわかるとして、ラグビーは闘志激しくぶつかり合うからでしょうか、闘球と云ったんだそうです。
ホッケーは杖を使うから杖球です。
徳川夢声は散歩の途中、「英霊の家」と書いてあるのを見て「英国人の霊が英霊みたいだ」。
また『独機がマルタ島を空襲して英機を撃砕した』の新聞記事に、「英機は東条首相の名ではないか、首相が撃砕されては困る」と、皮肉たっぷりに日記に書いています。


 スポーツの中でも「敵性スポーツ」として目の敵にされたのが、アメリカの国技である野球です。中等学校野球大会、現在の高校野球はすでに十六年七月、『神宮国民大会以外の全国的競技大会は中止する』との厚生省通途で中止になっていました。東京六大学野球も十八年四月、文部省の『リーグ戦形式の試合をやめるように』との通達で、大正十四年から十九年間続いてきたりーグ戦を中止したのです。プロ野球は当時は職業野球と云っていましたが、チーム名「タイガース」を「阪神」、「イーグルス」を「黒鷲」に変えたり、戦争目的に沿うよう「産業戦士慰問野球大会」とか『飛行機献納野球大会』と銘打ったりして、何とか試合を続けてきました。十八年に入ってからはユニフォームをカーキ色、帽子も戦闘帽と戦時色にしましたが、圧力は強まる一方です。ルールから審判用語に至るまで、日本語にせざるを得なくなったのです。ストライクを『よし一本』、三振が「それまで」でセーフは「よし」、アウトか「ひけ」。まるで柔道みたいですが、観客は笑ってからフッとため息をついたと云います。

 しかも、こうした動きはそれだけでは収まりませんでした。陸軍は、選手交替や引き分けは「日本精神に反する、最後まで戦うべきだ」と、注文をつけてきたのです。十七年五月には後楽園球場で熱闘二十八回、球史に残る延長戦が行なわれています。今みたいにナイター施設がありませんから、午後六時二十七分の日没で、やっと四対四の引き分けになったのです。今のプロ野球ではピッチャーは大体百球がメドだと云うのに、大洋の西沢道夫投手、戦後のホームラン・バッターですが三百十一球、名古屋の野口二郎投手に至っては実に三百五十一球も投げています。「鉄人野口」と云われたわけです。大相撲もそのトバッチリを受けて、翌年五月の夏場所で青葉山・龍王山の引き分けに、相撲協会は「敢闘晴神なし」として、両力士を無期限出場呼止にする騒ぎです。そしてブロ野球も選手が次々と戦場にとられ、十九年九月、甲子園と後楽園で「総進軍優勝大会」を開いたのを最後に試合を打ち切ったのです。


 自由主義的な外交評論で知られた清沢冽は、日記に「小児病的な現代思想」と嘆いていますが、
アメリカでは対照的にこの時期、敵国研究のための日本語習得が盛んになっていました。
そして政府か先頭に立っての排外キャンペーンも、それが及ばない、おかしな現象か随所に見られたのです。
イギリス民限「庭の千草」や「埴生の宿」は、「国民生活の中に融け入っている」との理由で演奏禁止の対象外になりましたし、
ラジオやピアノ、プロペラ、エンジンといった言葉は、変えようにも変えようがなかったのでしょう。敗戦まで使われ続けました。


 大雑把に昭和十七、八年頃の日本国内を見てきましたが、
戦争中の東条英機内閣で特徴的なことは、統制、統制で上から締め付け、法的権限を強化して、独裁色を強めていったことです。
そして、その東条体制を支えたのが、官製国民団体である大政翼賛会、その政治組織の翼賛政治会、末端では隣組組織であり、
憲兵・特高警察による監視・抑圧体制だったのです。
ラジオから流れてくる「とんとんとんからりと隣組」、
漫画家岡本一平作詞の明るいメロディでおなじみの隣組ですが、
内務省は十五年九月、「部落会町内会等整備要領」という訓令を出しています。
国策を隅々まで浸透させる上意下遠の機関にするため、部落面、町内会、さらにはその下部組織として十戸内外を単位とする隣組を整備、強化しようと云うのです。


 隣組体制が確立すると、出征兵士の見送りや食糧増産、貯蓄推進の呼び掛け、国債割り当て。
こういった任務が新たに加えられましたし、地域消防、灯火管制や警報伝達など、防空でも重要な役割を果たすことになりました。
しかし隣組の機能を最大限に発揮させたのは、何といっても国民にとっては命綱である生活必需品の配給です。
通帳に判を捺すのは町内会長であり、配るのは隣組長です。
協力的でない住民には、配給をストップすることも出来ましたから、隣組は配給という消費経済の末端機能を受け持ったことで、個人生活の領域まで拘束することが出来るようになったのです。

 部落会、町内会は全国で二十万七千、隣組は百三十三万三千を数えていましたが、東条首相の統制欲は、それだけでは止まりまセんでした。
十七年五月十五日の閣議で、婦人会や青年団などの国民運動は全て大政翼賛会の傘下に収める、町内会や隣組も翼賛会の指導下に置く。
こう云う方針を決めたのです。
町内会長は翼賛会の世話役、隣組長は世話人として翼賛会の正式構成員です。
国民の自発的な運動は一切許さないと云う、「統制派」と呼ぱれた東条らしい、いかにも軍人的思考の一元的支配でした。
こうして国民は、網の目のように張り巡らされた統制組織の下で、相互に監視干渉され、戦争協力へと駆り立てられていったのです。


 しかし、その東条内閣も議会に基盤を持たないという弱点を抱えていました。
戦局が有利なうちは力で抑え込めますが、議会でひとたび批判か噴き出せば政治体制にヒビが入りかねません。
東条内閣が十七年四月三十日に『翼賛選挙』を実施したのも、緒戦の勝利を背景に、帝国議会を政府に協力させる、政府に「イエス」と云うだけの議会を作るのが目的だったのです。
東条は「いわゆる政治力の結集は、総選挙直後に終わるものと思う」と語り、自信満々でしたが、結果は思ったほどのものではありませんでした。
政府が候補者を推薦出来ませんから、「翼賛政治体制協議会」という隠れ簑を作り、政府に協力的な候補を推薦させて三百八十一人を当選させましたが、
非推薦候補も、弾圧、選挙妨害にもかかわらず、中野正則をはじめ、「憲政の神様」と云われた尾崎行雄、反軍演説をした斎藤隆夫、戦後首相になる鳩山一郎など八十五人が当選してしまいました。


 そこで東条内閣は五月二十日、元首相の阿部信行陸軍大将に「翼賛政治会」を結成させ、「政治結社は翼賛政治会一本とする」方針を決定したのです。
開戦直後、反戦的な言論や活動を禁ずるため、「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」を制定し、集会・結社を許可制にしていましたから、
この法律に基づいて衆議院の各会派、中野正剛の主宰する『東方同志会』など、全ての右翼団体を強制的に解散させたのです。
翼賛政治会には、非推薦議員も尾崎行雄ら8人を除いて参加しましたし、
中野も一応東条の軍門に下る形で常任総務に就任しています。
しかし、いわぱ東条独裁のための『一国一党主義』に押し潰された諸勢力は、中野をはじめ激しい忿懣を抱きました。
戦局の転換と共に、そのエネルギーを「反東条」に向けることになったのです。
開戦以来、東条内閣に拍手・激励を送ってきた国家主義者の弁護士、「勤王まことむすびの会」の天野辰夫でさえ、機関誌『維新公論』で毎号、東条批判を展開するようになりました。


 中野は平生「一切を天皇と祖国に捧げん」。こういっていたように、反東条ではあったが、決して反戦でも反軍でもありませんでした。
福岡の修猷館中学から早稲田を出て朝日新聞に入り、大正九年福岡から衆議院議員に当選して当選ハ回。
革新倶楽部、憲政会、民政党と転じましたが、国粋主義的傾向を強め、昭和十一年に全体主義政党「東方会」、後の「東方同志会」を結成し総裁になっています。
翌年ドイツ、イタリアを訪問してからは、急激にファッショ的傾向に傾斜し、東方会の制服もナチスばりのものにするほどです。
十六年五月の党大会では「国難打開の唯一の道は南進である」と、反米英・日独伊枢軸路線を鼓吹していましたから、日米開戦への道に拍車をかけた一人だったと云ってもいいでしょう。

 中野と中学以来の親友で、早稲田、朝日、政界人と全く同じ道を歩んだ緒方竹虎は、当時朝日新聞の主筆でしたが、中野について『多感なる彼は一念発起するごとに、到底周辺のことを功利的に考えておれないのだ』。そして「その現状に満足し得ない気持ちが、中野を枢軸論、ナチス礼賛に脱線させたとしか考えられない。全て憑きものがしたとしか思えなかった」と云っています。中野の自殺に「大東亜戦争勃発に続いてのショックを受けた」と日記に書いたのは、やはり朝日にいたことのある清沢冽です。清沢は「僕は彼を憎んだ。彼の思想が戦争を起こしたのである。だが彼の自殺を見て、僕はその罪を許してやる気持ちになった。けだし僕も日本的伝統を心深く持っているのである」。こう書いていますが、ヒットラーのような東条独裁が日本の伝統にはなじまないと思っていた清沢は、中野が東条に言論で堂々と対抗し、憤死とも云えるその自殺に感銘を受け、評価したのです。

 ところで、翼賛政治会は日本でただ一つの政治結社とされながら、支部組織を持っていないため政治活動がほとんど出来ません。中野は「このままでは、日本の政治は東条の言いなりになってしまう」と、十七年十二月二十日、日比谷公会堂で「時局批判大演説会」を開いたのです。東条独裁に対する宣戦布告でした。中野は名文家であると共に、雄弁家でも鳴らしていました。「奴隷体制を打破せよ」、この演題もすごいものですが、統制の重圧に不満を強めていた聴衆は、四時間にもわたる中野たちの演説に惜しみない拍手を送ったと云います。

 中野はさらに十八年元日付朝日新聞に『戦時宰相論』を書いて、追い打ちをかけたのです。新年企画として立案した朝日の担当者は、「戦局は次第に逆転し、勝った勝ったの大本営発表に浮かれている時ではない。国内の政治体制をもう一度検討して見る必要はないか、戦時体制はいかにあるべきか、という考えから提案した」と云っています。執筆の依頼を受けた中野は、「諸葛孔明の『出師の表』を思い浮かべ、四十分にして書く。一文の趣旨は、東条に謹慎を求むるにあるのだ」と云ったそうです。出師とは出兵することですが、中国三国時代の二百七十七年、蜀の宰相諸葛孔明が出陣に際して君主劉禅に辛った上表文で、先の君主劉備の遺徳を高めるように説いた、誠忠の情あふれる名文として有名です。

 中野はまず「国は経済によりて滅びず、敗戦によりてすら滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷ふことにより滅びる」。こう書いて戦時宰相はいかにあるべきか、古今東西の宰相を例に引いて、東条を痛烈に批判したのです。中野は[非常時宰相]の典型として孔明を挙げ、「彼は虚名を求めず、英雄を気取らず、専ら君主の為に人材を推挽し、寧ろ己れの盛名を厭うて、本質的に国家の全責任を担ってゐる。彼は敗戦の際には、国民の前に包まず其の始末を公表し、自らを責めて、天下の諒解と忠言とを求めた」。孔明がそれが出来たのは、誠忠で謹慎であったからだと云うのです。さらに「日露戦争の時の首相桂太郎は貫禄のない首相だったが、心の奥底に誠忠と謹慎とを待っていたから、それがあの大幅にして剰す所なき人材動員となって現はれたのではないか」と、天下の人材の活用を訴えました。そして「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ、強からんが為には、誠忠に謹慎に、而して気宇壮大でなければならぬ」と格調高く結んだのです。まさに東条政治の欠点をついて、余すところのないものでした。

 この論文は情報局の事前検閲では、一字一句も削除されずに通っています。検閲当局は執筆者といいテーマといい、神経を尖らせましたが、東条という言葉はどこにも出てきません。どうも東条を激励する意味に解釈したようです。しかし東条は、すぐ「自分のことだ」と激怒しました。朝食の卓上、これを一見するなり怒気満面、傍らの電話機を取り上げ、東条自ら情報局に朝日新聞の発売禁止を命じたと云うのです。もっとも新聞の方はとっくに配達ずみで、ほとんど効果はありませんでしたが、東条は中野の口を封ずることを考えるようになります。十八年一月に再開された第81帝国議会に、治安強化の名目で戦時刑事特別法の改正を提案したのです。新たに『戦時に際し国政を紊乱(びんらん)することを目的として宣伝をした者も、七年以下の懲役または禁細に処す」。宣伝の罪を付け加えたのです。中野や斎藤隆夫は、宣伝、つまり言論活動まで処罰の対象としたことに、「これでは何も反対出来なくなる」、「東条独裁になる」と強硬に反対し、議会は紛糾しました。結局は多勢に無勢、三月十三日に改正公布されましたが、それは従来の翼賛議会では見られなかった変化でした。

 「ワンマン」と云えば、私たちがすぐ連想するのは戦後の首相吉田茂ですが、面白いなと思うのは、帝国議会誌が禁じられているこの英語を使って、東条体制を批判していることです。東条内閣はこの時、戦時生産行政の面で首相の権限を強化するため、『戦時行政職権特例法』と云うものも公布施行したのですが、帝国議会誌は「世間デハ之ヲ目シテ首相ノ{ワンマン・コントロール」ダトモ解釈シ、又ハ総理統裁主義ナドト云ッテ居ル」と記録しています。明治憲法は「国務各大臣が天皇ヲ輔弼スル」とだけ定めて、総理大臣の規定はなく、首相はいわぱ「同輩中の首位」に過ぎません。それを各大臣の権限を首相に一元化しようというのですから、この特例法には「東条ワンマンだ」と、刑事特別法の改正と共に議会の反発は強かったのです。

 こうして筆も口も封じられた中野ですが、それで引き下がるような中野ではありません。ガダルカナル撤退以来、一連の戦局逆転の兆候を見て、「このままでは戦争は負ける。万一、勝ったところで、軍閥、官僚の暴政はますます募って、日本はきっと滅亡する。テロで東条を倒すことはやさしい。しかしテロを行なっても、必ず第二、第三の東条が出てくる。戒厳令や軍政を誘発するようなことになれば、軍閥の思う壷であり、それで日本は終わりだ。言論を禁圧されて、国民に呼び掛ける手段を封殺された今、日本を救う道はただ一つ、重臣を動かして東条内閣を打倒するより外に手はない」。こう考えて、前首相の近衛文麿など重臣工作に動き出したのです。

 中野の構想では、重臣会議を開いて東条に引導を渡す。総辞戦後は、大正十四年の陸軍大臣時代に同朋師団廃止の陸軍軍縮をやった宇垣一成を後継内閣の首班に推す。この際、徹底的な軍縮を断行する。政治軍人の政治面からの一掃、各官庁、軍需会社からの軍人の追放、東条以下軍閥の主流をなす現役軍人を予傭役にする。こう云う内容で、「陸軍は建軍の本義に帰れ」と云うものでした。

 ところが、この中野の動きはたちまち憲兵にキャッチされてしまったのです。近衛はもともとこの戦争には悲観的でしたし、軽井沢の近衛の別邸には戦争に批判的な人がよく集まっていました。当然、憲兵の厳重な監視下です。ある日、東京憲兵隊長の四方諒二大佐が近衛の所へやって来て、「あなたは中野と会われたでしょう。あなた方が中野なぞと倒閣の陰謀をされていると云う、専らの噂ですから、ご注意に上がったんです」と云います。気位の高い近衛はカッとなって。「内閣を倒そうと思えば、中野なぞの力なんか借りなくても、参内して上奏することも出来るんだ」。近衛は「こう云ったところ、スゴスゴ帰っていった」と話していますが、四方はそんなことで引き下がるタマではありませんから、まあ本当かどうかはわかりません。


 東条は憲兵司令部に反東条派の取り締まりを指示しました。
すると、美座という警務課長の大佐だったそうですが、こう云って反対したと云うのです。
「憲兵が陸軍大臣の指示に従うのは当然だが、首相の政治問題に関与することは誤りであり、
軍事警察の面を徒に拡大して、憲兵本来の使命を逸脱し、憲兵が国民怨嗟の的になる恐れがある」。
正論でしたが、美座は直ちに左遷されたと云います。
結局東条は、内務大臣に中野検挙を命じたのです。
罪状は戦時刑事特別法違反、東条内閣倒閣を策したのが国政紊乱(びんらん)に当たるというわけです。
九月六日に三田村武夫代議士を逮捕したのを皮切りに、東方同志会や『勤王まことむすびの会』など右翼関係者百七十人を一斉検挙し、中野も十月二十一日、警視庁に留置されました。
ところがいくら調べても、決め手となるような証拠が出てきません。


 第八十三帝国議会は十月二十五日召集、二十六日に開院式が行なわれることになっていました。
国会議員には憲法五十三条で「不逮捕特権」がありますから、その前に罪状を決定し、「勾留」と云って判決確定前の身柄拘束をしなければなりません。
議会側からも「議会が始まろうとしているのに、中野を行政検束するのはけしからん」。
こう云った声が出てきて、東条は二十四日夜、首相官邸に異例の緊急会議を招集したのです。
集まったのは内務大臣、警視総監に検事総長の松阪広政と四方東京憲兵隊長です。
しかし警視庁の報告では、証拠不十分でとても起訴出来そうにありません。
東条は「起訴しろ」とか『裁判所の勾留状をとれ』とか弛要しましたが、松阪は「憲法違反になる」と反対です。
激論が交わされ、最後は松阪が「新事実が出れぱ考えましょう」と折れたのです。


 すると東条の腹心と云われた四方憲兵隊長が、『警視庁でダメなら私の方で調ぺてみましょう』と言い出し、中野の身柄は二十五日早朝、東京憲兵隊に移されました。
正午頃、四方から松阪検事総長に電話があり、
「中野が『ガダルカナルで負けたのは陸海軍の間に不一致があったためだと、語ったことがある』。こう自白しているから、勾留請求をしてくれ」と云うのです。
検事たちからは「この程度のことで代議士は勾留できない」と反対が出ましたが、
松阪は東条に「新事実が出れば考える」と約束した手前、総長命令を出したと云われます。
こうして二十五日夜、東京地方裁判所予審判事小林健治の所に、検事局思想部長中村登音夫検事の名前で強制処分による勾留請求かされたのです。
罪状は中野のガダルカナル発言が「軍事に関して造言飛語」をしたと云う、陸軍刑法ならびに海軍刑法違反に切り替えられました。
しかし中野か話した相手の洲崎義郎、この人は戦後柏崎市長をした人だそうですが、身内の東方同窓会会員であり、こんな内輪の座談でさえ検挙の対象になったということは、いかに言論の自由が奪われていたか、また匙加減でどうにでもなったことかわかります。


 小林判事の話だと、午後四時ごろ上席判事から『きょう中にやってほしい』と云う電話があり、とっさに「おかしい」と思ったそうです。きょう召集、あす間院式だというのに、国会議員を今晩中に逮捕するというのは、どうにも解せない。召集というのは、議会に集まれという天皇の命令だ。天皇が集めた者を引っ括る、こんなことでいいのか。召集日は嫌長の選出など、院の成立を図る日であり、これも庸員の不逮捕特権として保護しなければならない唯務ではないのか。これが小林の素朴な憲法感竟であり、率直な疑問でした。大急ぎで図書館から憲法の木を借りてきて調べましたが、どの本も「議会は開院の詔書を以て始まる。」こうは書いてあっても、会期の説明はありません。最後に明治憲法を作った伊藤博文の『憲法義解』、義解と云うのは「憲法の意義を明らかにする」と云うことですが、その薄っぺらな本の五十Ξ条を見たら『『会期中とは召集の後、閉会の前を云う』とあったのです。つまり『召集日も会期の中に入ると云うことだ』と、小林は飛び上がる思いだったと云います。『これが帝国憲法の精神だ』と、請求を拒絶することに決めたのです。

 夜九時半頃、検事局から勾留請求書を持ってきましたが、
小林は
『中野を勾留するには院の許諾を要する。
許諾を求めた事跡なき本件強制処分の請求は憲法に違反し、刑事訴訟法の形式的要件を欠如する不適法なものと考えられ、請求には応じかたい」。
こう云う決定を下したのです。
検事局は普通なら、主張が通らなかったのですから怒って当然なのですが、みんな喜色満面、一説には万歳三唱をしたと汲う斯さえあります。
中野検事は、松阪が強制処分の総長決済をした時、検事たちはみんな書類を叩きつけて悔しがり、憤慨したと云っています。
そして裁判官か、法の命ずるところに従って判断するのは当然のこととはいえ、あの戦時下、断乎所信を貫いた小林の態度は立派だったと思います。


 中野はこうして釈放されたのですが、実はすぐ帰宅か許されたわけではなかったのです。
その夜は警視庁に泊められ、二十六日早朝、四方が再び東京憲兵隊に連行、中野が憲兵二人に付き添われて氏々木の自宅に帰ってきたのは午後二時頃でした。
この間に、憲兵隊で何があったのか?
私はそこに、中野自殺のナゾを解くカギがあるように思います。
中野は極めて朗らかで、夕食後家族揃って団らんの時間を過ごしてから髭を剃り、紋付羽織袴に身を正して書斎に入ったと云います。
翌朝、女中さんか書斎の障子に血が飛び敵っているのに驚き、障子を間けると、中野は腹を真一文字に掻き切り、返す刀で頸動脈を切断していました。
隣室にいた監視の憲兵か全く気付かないほど、静けさの中で行なわれたのです。
遺書には躍るような宇で、
「束向九拝、東に向かって九回拝み、平静、余裕棹々、自笑、断十二時」
とありますから、深夜午前零時に決行したのでしょう。
『魂ぱく躍動、皇国を護る』と結んでありました。
中野57歳でした。


 小林判事は戦後、「中野に『裁判所は憲法に従って、議員たるあなたを勾留しませんよ。あすから議会で活躍して下さい』とでも云っていたら、あるいは中野は死ななかったのではないか」。
ふと、そう思うことがあったそうです。
中野の自殺の原因は阿だったのか?
中野は、議会が終われば再び憲兵隊に引っ張られることを覚悟していたでしょう。
厳しい取り調べで重臣工作の関係者の名前が出て、その中には東久邇宮などもいましたから、迷惑かかかるのを恐れたのではないか。
また長男の達彦伍長が東部第十部隊に入営中でした。
四方が「南方戦線へ送ってしまうぞ」と脅し、達彦の「安全」と引き咎えに自決を迫ったのではないか。
いろいろな説がありますが、はっきりしません。
ただ東条独裁に対する、壮絶な抵抗であったことだけは確かです。
葬儀は緒方竹虎が葬儀委員長になり、青山斎場で行なわれましたが、二万人と云う大勢の人がか参列したそうです。


 そして、この第八十三帝国議会からは、迅速審議という名目で、首相の施政方針演説に対する阻喪質問も、本会議での賛同も一切取り止めになりました。議会は名前だけのものになっていったのです。

        X     X
 東条首相を取り巻く削近連中を評して、「三好四愚」と云ったんだそうです。
三人の奸物、悪知恵にたけているとされたのは、企両院総裁の鈴木貞一、陸軍憲兵司令官の加藤泊治郎、内閣書記官長の星野直樹、または東京憲兵隊長の四方諒二。
四人の愚か者とは、陸軍次官の木村兵太郎、軍務局長の佐藤賢了、作戦部長の真田穣一郎、首相秘書官の赤松貞雄のことなんだと。
これか定説になっていますが、この中に憲兵が二人もいたと云うことは、東条政治がとりも直さず「憲兵政治」であったことを物話っています。


 東条か憲兵を使う味を覚えたのは、昭和十年に関東軍憲兵司令官になってからだと云われます。
その時の高級副官が四方で、陸軍将校としては異色の軍人でした。
士官学校を出た後、東京外語でドイツ語を学び、普通なら陸軍将校の登龍門である陸軍大学校を受験するのに、四方は憲兵学校に進みました。
憲兵の襟章は黒色です。
そのカラーが象徴しているように、職務から云っても暗いイメージかあり、優秀な将校は敬遠します。
ところが憲兵学校を首席で卒業した四方は、今度は東京帝国大学法学部に陸軍派遣学生として三年間通い、法律をみっちり勉強したのです。
皇道派全盛時代、統制派の東条は予備役寸前にまでいっていましたが、2・2・6事件による皇道派の没落で運が開けました。
陸相軍大臣から首相の座を掴んだ東条によって、満州時代に東条の信頼を得ていた四方は、お膝元・東京憲兵隊長に抜擢されたのです。
警察力を時つ憲兵をうまく使えば、情報をとること、工作をすること、法律に捉われずに人を脅し、強権を揮うことさえ可能です。
政治的な敵対者を攻撃、弾圧するのに、これほど役立つ組織はありません。
東条は四方を東京憲兵隊長に据えることで、首都憲兵の第一線部隊を自分の手で握り、意のままに動かす態勢を整えようとしたのです。


 東条と云う人は、自分についてくる者の面倒は実によく見た反面、楯突く者を徹底的に嫌いました。
当然、東条の周りには『三好四愚』のように、東条の云うことを唯々諾々と拝聴するイエスーマンが集まることになります。
東条に嫌われた人に軍事参議官の西尾寄辺大将がいます。
関西視察中に記営団につかまり、
「何も話すことはないよ。話が聞きたかったら、よくステッキの先でゴミ箱を漁る男かいるだろう。あれに聞いたらいいよ」。
東条は首相になってから国民生活の実態を知ろうと、毎朝散歩の際にゴミ箱をのぞいたりして、
新聞に『電撃宰相』などともてはやされていました。
末梢神経を尖らせた、そのやり方を暗に皮肉ったのですか、早速憲兵がご注進です。
西尾は陸士十四期で東条の三年先輩。
何でもズケズケ直言するので、東条には煙たい存在でしたから、予備役にして陸軍から追い出したのです。西尾は東条失脚後、東京都の第二代長官に返り咲いています。


 東条の評判を悪くしたのは、民間人にまで権力を使って報復人事、懲罰人事をしたことです。実は中野事序の中村登育夫検亭も、四十三歳で召集されているのです。東条は中野正剛を勾留出来なかりたことに、検事局の不手際だと怒りました。「思組部長検事なのに、自由主義の牙城である裁判。所の言いなりになってけしからん。こんな手根い検事は国策上許せない』と、東条の命令だったと云われます。四十三歳と云う老兵の中村が召集されたのは、十八年十一月に兵役法が改正され、それまで四十歳までだった兵役服務年限か四十五歳に延長され、中村検事はその適用第一号だったのです。

 東海大学の総長をされた松前重義さんは当時運輸逓信省の通信院防衛施設局長でしたが、東条内閣倒閣運動をやってにらまれ、やはり懲罰召集されています。
私には技術的なことはよくわかりませんが、松前さんは電話通信の無装荷ケーブル方式と云うものを発明して、国宝的な技術者なんだそうです。
その勲三等、勅任官、四十二歳の二等兵が、熊本の工兵隊で防空壕の穴掘りをやらされたと云うのです。
松前さんは戦前、アメリカの生産工場を視察した時、その生産力が桁外れに大きいのにびっくりしました。
しかもアメリカが発表する兵器、軍需物資の生産量は膨大なものです。
軍部は『デタラメだ』と云いますが、松前さんにはそうは思えません。
日本の生産力の現状を厳密に調査、分析し、この戦争の無謀さを立証して、早く戦争を終わらなければダメだ。
松前さんは各省から信頼する中堅の第一線技術者を集めて、鉄鋼、石炭、アルミの生産から、電力、輸送力など、それぞれ生のデータを持ち寄り検討したのです。
その結果、企両院が発表している軍需生産の実績は、実際とは全くかけ離れた、水増し数字であることがわかりました。


 松前さんはこのままの体制では、東条がいくら『必勝の信念』と云う念仏を唱えていても、惨憺たる滅亡あるのみだ。
そう思って、海軍軍令部の課長以上の会合に出て調査結果を詳細に説明しましたし、
軽井沢にも出掛けて行って、近衛や鳩山一郎にも東条内閣打倒を働きかけたのです。
中野正剛にも会っていましたから、東条は放っておきません。
松前さんは十九年七月十八日、指名召集と云って名指しで召集されたのです。
この日は東条内閣総辞職の日でした。
部下の篠原登さん、この人は戦後科学技術庁の初代次官になった人ですが、
一縷の望みを持って陸軍省に召集解除を頼みに行ったところ、
陸軍次官の富永恭次は直立不動の姿勢で、
『これは東条閣下直接のご命令だから、絶対に解除出来ぬ』
と言い放ったそうです。
それでも内閣も陸軍大臣も代わり、
『戦争遂行には絶対必要な入物だから』と何度も頼み込んで、松前さんは十か月後、台湾の高雄まで送られたところで召集解除になりました。


 前にもお話しましたが、毎日新聞の海軍担当キャッブ新名丈夫記者は、戦局が悪化した十九年二月、
『勝利か滅亡か戦局はここまできた竹槍では間に合はぬ飛行機だ海洋航空機だ』。
こう云う記事を書いて東条の怒りを買い、やはり二等兵で指名召集されています。
陸軍か家庭の主婦まで動員して、竹槍訓練をさせている時でした。
敵が飛行機で攻めてくるのに、竹槍では戦えない。
誰が考えても当然至極のことを書いたのですが、
中野正剛が「戦時宰相論」で東条に『謹慎』を求めたのは、まさに東条のこうしたやり方だったのです。


 言論弾圧か強まる中で、陸軍報道部から特ににらまれたのが自由主義的色彩の強かった雑誌の「中央公論」と「改造」です。
中央公論では18年の新年号から、谷崎潤一郎の「細雪」の連載を始めていました。
四人姉味の人間模様を描いた谷崎の代表作ですが、出版界が戦時色一色に染まっている時だけに、読者からも歓迎され大変な評判でした。
これか報道部のカンに障ったのです。
「緊迫した戦時下、極めて個人主義的な有閑マダムの生活をめんめんと書き連ねたこの小説は、到底許しがたい。こうした小説を掲載する雑誌は不謹偵であり、戦争傍観の態度だ』
と云うのです。
そこへ報道部を怒らせることが重なりました。
陸軍は三月十日の陸軍記念日に向けた決戦標語として、神武東征の歌「撃ちてし止まぬ」を決め、この言葉を各雑誌の表紙に掲載するよう要請していました。
ところが中央公論だけが載せなかったのです。
日劇正面では、朝日新聞が宮本三郎画伯描く「撃ちてし止まむ」を百畳敷きの写真にして、デカデカと飾っている時です。
報道部はカンカンになり、中央公論に「軍に対する挑戦であり、何らかの措置を以て臨む」と通告してきました。
中央公論は六月号に「お断り」の社告を載せ、「細雪」の連載を中止したのです。


 この間、横浜事件の摘発が進められていました。
この事件が横浜事件と呼ばれるのは、関係者の取り調べが『カナトク』と云って、拷問の激しいことで恐れられた神奈川県特高警察により、横浜市内の警察署で行なわれたからです。
発端は、「改造」の十七年ハ・九月号に掲載された評論家細川嘉六の論文でした。
「世界史の動向と日本」と題する論文は、情報局の事前検閲をパスしていましたが、
陸軍報道部は「共産主義の宣伝」と断定し、改造は発禁処分になり、細川も九月十四日、出版法違反で警視庁に逮捕されたのです。
「カナトクは」その二日前の九月十二日、日米交換船「浅間丸」でアメリカから帰国したばかりの労働問題研売家川田寿夫妻を逮捕していました。
アメリカ共産党の指導の下に、日本共産党再建の活動をしたと云う治安維持法違反(共謀罪)容疑です。
関係先を捜索するうちに、一枚の写真が見つかりました。
それは細川が本の印税が入ったので、日頃世話になっている中央公論や改造の社員を郷里の富山県迫町に招いて、大いに浩然の気を養おうと、旅館の前で撮った記念写真でした。
ところが「これこそ、細川を中心とする共産党再建謀議の動かぬ証拠だ」と云うのです。
十八年五月二十六日のことですが、写真に写っていた全員を手始めに芋蔓式の検挙が始まり、細川も「カナトク」に身柄を移されて治安維持法違反
(共謀罪)に切り替えられました。

 戦後、出所直後に激しい拷問で亡くなった改造編集者の相川博は、手記にこう害いています。
『八名の警察官か取調室にずらりと並び、竹刀を折って作った三尺くらいの竹を持ち、直ちに私の両手を後ろ手に縛り上げ
『共産党の組織を云え、細川がスターリンで貴様は秘書か。
下部組織を云え、泊で共産党再建の協議会を開いたろう』。
私の頭髪をつかんでコンクリートの上を引き回し、
頭、両頬、両肩、同郷両腕を実に約一時間にわたり、数人か入れ替り立ち替りカー杯に打ち、
靴でけり、顔、頭を踏み付けた」。
特高の描いた筋書きは、こうでした。
雑誌編集者や知識人が、雑誌や地位を利用して共産党再建の運動を行い、人民戦線を形成して知識階級の反戦気運を煽ろうとしたのだ。
十九年一月には、検挙者は朝日新聞、岩波書店などにも広がり、六十人に連しましたが、こうした激しい拷問が敗戦まで、連日のように続けられたのです。
そして中央公論と改造は十九年七月十日、情報局により『自発的廃業』の形で解散させられました。



 横浜事件こそは、典型的な「作られた権力犯罪」でした。
しかも問題なのは、もう戦争が終わったと云うのに、横浜地裁が二十年八月三十日から九月にかけて、三十三人にバタバタと懲役二年、執行猶予付きの判決を下したことです。
それもたった一回、非公開の公判を開き、意見陳述の機会も与えないままでした。
事件の端緒となった細川の方は、公訴事実を否定して徹底抗戦を貫いたため、まだ裁判が続いていて、十月十五日に治安維持法
(共謀罪)そのものが廃止され、免訴になっています。
同じ事件の被告たちの、わずか一か月の差の明暗でしたが、
横浜地裁の態度は法の精神を忘れた、『やつっけ公判』と非難されても仕方ないでしょう。
『カナトク』の拷問警官は、昭和二十二年に三十人余りが人権蹂躙、傷害で告訴されましたが、証拠いん滅されていて、ほとんどが証拠不十分で不起訴です。
わずかに三人だけか、被害者の体に残っていた拷問の傷跡が決め手となり、二十七年四月に有罪判決を受けましたが、それも控訴、上告して争っているうちに、講和恩赦により刑を受けずに終わったのです。


 何とも理不尽な話ですが、元被告や遺族たちは昭和六十一年七月、『特高の拷問や虚偽の自白に基づく判決は無効だ』と、再審請求を申し立てました。
ところが横浜地裁は、「当時の裁判記録かなくなってしまって、事実が確認出来ない」と云う理由で棄却したのです。
最高裁まで争われましたが、第二次請求も同じ理由で棄却されました。
そこで第三次請求は平成十年八月、全く違う切り口で「ポツダム宣言受諾の時点で、治安維時法
(共謀罪)は効力を決っている」と、法令適用の誤りを理由としたのです。
その結果、横浜地裁か昨年の四月十五日、再審開始を認める決定を下したことは、皆さんご承知の通りです。
第1次再審請求以来十七年ぶりのことで、再審が始まれば免訴になる公算か極めて大きいと云われます。


 この決定が「せめて一か月半早く出ていたら」。
この思いが強くするのは、元被告の最後の生存者、板井庄作さんが昨年三月三十一日、八十六歳で亡くなったことです。
板井さんは昭和十四年に東京帝人電気工学科を出て、逓信省の電気庁に入りましたが、仲間と作った「政治経済研究会」が共産主義の宣伝活動と見倣され十八年九月に逮捕されたのです。
懲役二年執行猶予三年の判決を受けましたが、再審請求の時、
「過去の過ちが正さなければ、これからも同じ過ちが繰り返される。
裁判では一度も言い分を聞いて貰えなかった。
生き残りは僕だけになった。
犯罪者として一生を終えたくない。
死ぬに死ねない」
と語っていたそうです。


 ところで、少しでも日米間の国力の差を知っている人なら、松前さんのように「勝てるはすがない」と考えるのは当然のことでしたが、当時は口にすることはタブーでした。
すぐ「非国民」の非難を浴びせられましたし、憲兵や特高も目を光らせています。
ですから、中野正剛や松前さんの行動は、まさに命懸けのものでした。
開戦直後の十二月二十九日、東条にいち早く和平交渉を提案したのは東久邇宮陸軍大将です。
「緒戦の情勢が有利なので、シンガポールが陥落した時点で米英に対して和平工作を始めるべきだ」。
しかし東条は、連戦連勝に舞い上がっている時です。
「この調子ならジャワ、スマトラは勿論、オーストラリアまでも容易に占領出来ると思う。
今この時機に和平など考えるべきではない」
と一蹴されてしまいましたが、
これは宮様だから云えたことであり、また宮様だから無事ですんだのです。


 外務大臣の東郷茂徳が十七年二月の衆議院の質疑で、「戦争を終結して平和に導くことは、当然かつ必要であり、十分の準備と覚悟を持っている」。
こう答弁したところ、たちまち議員から
「敵を撃滅するのが戦争目的なのに、講和について準備するのは失言だ。取り消せ」
と、抗議が出る始末です。
外務省の中にも「戦争中、外交は無用」。
こんな声が出るほどで、
東郷は十七年元日の年頭訓示で。
「力及ばずしてついに戦争になってしまったが、我々はこの戦争を日本に最も有利な機会に切り上げなければならない。
外務省員は他の任務は放擲しても、このことの研究と準備に力を尽くしてもらいたい」。
職員に戦時外交の重要さを強調しましたが、
「押せ押せムード」の中では、妥協による講和の動きはなかなか生まれてきませんでした。


 東郷の手記「時代の一面」を読んでいて、「ヘー、そんなことがあったのか」と、ちょっとびっくりしたのは、
陸軍軍務局長の武藤章が年始の挨拶に来て、東郷にこう云っていることです。
「戦争はなるたけ急速に終結するのが、日本にとり得策であるので、是非その方向に動かさるることを願望するが、
それには東条大将に総理をやめて貰う必要がある」。
武藤はその足で2・2・6事件の時の首相岡田啓介も肪ねて、同様のことを云ったと云うのですが、
東郷は「この種のことが東条の耳に入って、同人の南方転出に至ったとの噂があった」と書いています。
武藤は十四年九月に軍務局長になり、それから二年七か月、いわぱ陸軍の政治意思決定の中心にいた人物です。
それが十七年四月、突然スマトラの近衛第二師団長として中央を追われたのも、あるいはそうだったのかも知れません。
それにしても武藤のこの言葉は、先の見えることでは定評のあった武藤が、東条の限界を知り、すでに見限っていたことになります。


 武藤は、昭和陸軍の代表的な「政治軍人」でした。昭和十一年の2・2.6事件の直後、広田弘毅首相の組閣本部に乗り込んで、外相候補にあがっていた吉田茂などの人事を撤回させたのは武藤です。蘆溝禍事此‥が勃発すると、参謀本部作戦課長だった武藤は石原莞爾作戦部長の不拡大方針に反対して、支那事変へと拡大させた一人でした。もっとも武藤は、拡大剛と云うよりは「対支贋懇願」、武力解決こそ早期解決の道だと信じていたのですか、中支と北支の派遊軍参謀副長として二年間、戦地を自分の目で見て考えか変わりました。中国民衆の民族戦争になっていることを実感し、「支那事変に早くケリをつけなければ」の決意を持って帰国したのです。軍務局長になった武藤は、中国からの撤兵案を作り、蒋介石との和平解決の準備を進めましたが、これが実現していたら、あるいは太平洋戦争は避けられていたかも知れません。

 ところか、ドイツ軍の破竹のヨーロッバ進撃が始まってしまいました。武藤だけでなく、多くの軍人、政治家が「バスに乗り遅れるな」と、中国との和平など忘れてしまって、東南アジアの英仏閣の植民地を取ろうと、南進紬に傾いてしまったのです。日独伊三国同盟に反対していた米内光政内閣を鴎し、首相に近衛を持ってきて三国同盟、大政翼箕面をを強力に推進したのも武藤です。そうかと思えば、日米交渉の土壇場で、吉田茂が交渉を軌道に乗せるため、南部仏印からの撤兵を桂とした対米交渉案を時も込んだ時、強硬に反対する参謀本部を説得したのが武藤でした。陸軍には珍しい現実主義の軍人でしたが、部内で「カメレオン」とあだ名されたように、余りにも権謀術数に走り過ぎて、理想に撤する強さかなかった。そこに、戦後戦犯として死刑になる武藤の悲劇があったように思います。

 東部憲兵司令官をした大谷敬二郎少将は、スマトラに武藤を訪ねた時、こう述懐したのか忘れられないと云っています。「僕は軍務局長としてはダラ幹と云われ、卑怯者とののしられなから、何とかして日米妥結に努力した。時に強いことを云ってみたり、時には軟弱論を吐いたり、僕がここ数か月歩いてきた道はまことにジグザグだった。そしてついに戦争になった。軍の強硬連中は緒戦の成功に酔って、もはや英帝国は滅亡すると儒じているようだか、僕はそうは思わない。老大英帝国が滅亡するなどと考えたら、大変な間違いだ」。戦局が転換した時、この武藤が陸軍中央に残っていたら、どうだったかと云う気かします。

 開戦後、和平に向けて最も早く具体的な行動を起こしたのは、恐らく吉田茂だったでしょう。十七年六月十一日、ミッドウェー敗戦の直後ですが、内大臣の木戸幸一を訪ねて、「近衛を中立国スイスに派遣し、早く和平のチャンスを捉えるよう」申し入れているのです。近衛にも直接ヨーロッパ行きを説得しましたが、近衛の態度ははっきりせす、木戸も乗り気を示さなかったため、そのままお流れになってしまいました。早期和平の障害か東条体制にあると見た吉田もまた、和平政権樹立に向けて密かに重臣工作など、東条内閣倒閣運動を進めるようになります。

 前首相であり、五摂家筆頭の公爵として皇室に最も近い存在である近衛は、稀に見る情報通でした。当時の政治家で、軍から官界、政財界、そして左右両翼に至るまで、近衛ほど広範囲の情報網を持っていた人はいなかったでしょう。しかも、よく人の話を聞く『聞き上手』でしたから、近衛の元にはあらゆる情報か集まりました。近衛は日米開戦の日、娘婿で首相秘書官をした細川誰貞さんに、この人は肥後熊本五十四万石の当主、元首相細川護煕さんのお父さんで、九十歳を超えて今もお元気なようですが、こう云ったそうです。「この戦争は負ける。どうやって負けるか、お前はこれから研究をしろ。それを研究するのが政治家の務めだ」と。しかし近衛の欠点は、人を動かすことには熱心であっても、自分自身はなかなか腰を上げなかったことです。いざ実行となると、まことに頼りない存在だったのです。

 近衛は四方東京憲兵隊長に、「参内して上奏することも出来るんだ」。こうタンカを切っていますが、実は重臣の拝謁は開戦以末長い間行なわれていませんでした。内大臣の木戸は、重臣圈に拝謁の希望があることは知っていましたし、何とか取り次ぎたい気持ちも山々でした。しかし、拝謁はすぐ外に洩れます。重臣たちが平和論者であることは通説になっていましたし、重臣か拝謁したとなれば、陛下に和平を進貢したと疑われます。木戸は、それが和平思想の弾圧につながることを恐れたと云われます。

 そんな中で重臣たちを東条内閣打倒に向けて結束させたのが、元首相の岡田啓介です。退役海軍大将の岡田もまた、近衛に負けない強力な情報源を持っていました。長男貞外茂は十九牛二月に戦死しますが、軍令孫作戦陣の中佐参謀。娘婿の迫水久常は、戦後経企庁長官、郵政大臣をしましたが、当時は企画院の課長を務めるエリート大蔵官僚です。そして伊藤忠の会長をされた瀬島龍三さんは、2・2・6事件で岡田の身代わりになって殺害された岡田の義弟、松尾辰蔵大佐の娘婿で参謀本節作戦課の少佐参謀でした。岡田はこの三人と毎月一回会食をして、情報交換していましたから、国力や戦力の実情、ミッドウェーやガダルカナルの敗戦など、厳しい戦況もよく把握していたのです。

 岡田は考えました。このまま戦争を続けていけば、日本は国力の最後まで使い果たし、徹底的に破壊されて、無残な滅び方をしなければならない。勝負がはっきりついたからには、一刻も早く戦争を終結させる道を考えた方がよい。今のうちに救えるものなら、何らかの手を打たなくてはいけない。しかし終戦と云うことは、戦争を始めた内閣には出来ないことだ。しかも、東条のやり方を見ていると、戦争一本槍で突っ走っているばかりだ。岡田はまず、東条内閣を倒して和平内閣を作る。いきなり和平内閣が無理なら、そのための橋渡しとして中間内閣を作り、ついで和平内閣に持って行く。これか岡田の構想でした。

 岡田は当時七十五歳でしたが、連合艦隊司令長官をしたこともあり、動き出すと軍人らしく果敢でした。吉田茂は岡田を評して「狸も狸、大狸だが、それも国を思う大浬だ」と云ったそうですか、そう云った老諭さも身につけていました。内大臣として、天皇の側近中の回近である木戸を動かすことか先決だと見たのです。十八年八月七日のことですか、岡田の指示で木戸を肪ねた迫永久常は、東条を参謀総長にして戦争指導に専念させ、首相は別の人間にやらせる案を切り出しました。木戸はこう云います。「内大臣と云うものは鏡のようなものであって、つまり世間の情勢を映して、そのまま陛下にお目にかける役割をするようなものだ。もし世論が東条内閣に反対だと云うことになったら、その時は陛下にお取り次ぎをする」。遠水か『新聞は検閲制度で口を封じられているし、議会も翼賛政治だ。内心、東条に反対している者がいても、表に出せる状態ではない」。治水か「世論か表に出てくる状態ではない」と云うと、木戸は「世論と云うのは、そう云う形の上のものばかりでもあるまい。たとえば重臣たちが、一致してあることを考えたとする。それも一つの世論ではないか」。

 これを間いた岡田は「味のある発言だ、いい暗示」と見て、「重臣の世論づくり」に動き出したのです。岡田は日頃から、近衛や元首相の若胤礼次郎、平沼駄一郎と電話でよく連絡を取り合っていましたから、相談の結果、月一回重臣が集まって意見交換をし、その席に東条首相を呼んで戦局の情勢など聞かせて貰う。表向きはそう云うことにして、実際は東条をいびり、終局的には東条退陣に待って行くのが狙いでした。他の重臣に諮ると、みんな賛成です。八月三十日に華族会館で第一回会合を開くことになり、岡田、近衛、平沼の三人が幹事役となって東条に招待状を出したのです。口上は「重臣はしばしば総理の招待に預かり、ご馳走になっているから、今度は重臣一同の方で総理を把持して、いろいろご意見を承りたい」。こう云うもので、重臣削は東条一人だけを呼ぶ積もりでしたか、東条の方は「自分一人では困る。閣僚を同伴したい」と譲りません。

 結局、会合は四閣僚同伴で開かれましたが、イタリアでは七月二十五日にムッソリーニが失脚、逮捕され、バドリオ政権が誕生していました。話か戦局に及ぶと、東条は「戦争は自分の責任であるから、重臣はとやかく口を出しちやいかん」と開き直り、『万一自分が辞めたら、後にパドリオか出現する可能性か多いから、断じて退くわけにはいかぬ』と怒号したと云います。東条の一喝で腰砕けに終わった第一回重臣会議でしたが、これが慣例となって交互に招待し、こうした会合を毎月一回持つことになりました。東条も心を許したのか、十九年二月からは一人で出てくるようになります。そして何より大きかったのが、東条内閣打倒に向けて重臣の聞に一体感か生まれたことです。この後一年近くかかりますが、この重臣の結束か十九年七月十八日の東条内閣総辞職につながることになるのです。

 この問、近衛の心配は「陸海軍大臣や参謀総長、軍令弟総長か天皇に悪い面は極力隠し、真実を申し上げていないのではないか。陛下は極めて素直に車の上奏を聞かれるから、事態をそれほど悲観されていないようだ」。この点でした。その中で天皇に直接言上出来るのは、県官の高松宮海軍大佐だけです。近衛は天皇に真相を医えるため、高松宮に期待し、接近を図ったのです。「高松宮日記」の十八年七月十五日には、『近衛公来談。時局困難二倅ヒ国内態勢ノ問題ニツキ訓話』とあります。早くから戦争の早期終結の考えを持っていた高松宮も、この頃から各方面の要人に会って話を聞くようになります。皇国史観の中心人物と云われた平泉澄東大教授は、『どうも東条では、国民の心を敗勢を挽回することに一致させることは出来ない』と、皇族の出馬を促しました。これか引き金になったのでしょう。当時三十八歳の高松宮は七月三十一日、日記帳第十四冊の巻末に、最悪の場合、つまり敗戦の場合を考えて、悲壮な決意を書いているのです。

 「直ちに迷う問題は、やはり生か死かの分かれ道に立つことだ」と、一つは陛下の側近にあって陛下を助けること、一つは戦場に赴いて敵中に突撃することだとしています。そして「いずれも国体変革の暴動に際し皇位を守るためだ。敗戦による国民の怨みが天皇に直接向けられるとするなら、自分が戦死することによって、感情的に慰撫するとともに、国民に発奮再起を誓わせることが出来るだろう」と云うのです。私が『高松宮日記』を読んで一番感勤したのは、「高松宮はそこまで考えていたのか」と、この個所です。


 高松宮は「生きて随近にあっても、その重責を思えば自らの識量の足りないのを憂え、生死の迷いに立てば死を選ぶのみか」。
こう書きながらも、兄の秩父宮が結核に倒れ、弟の三笠宮は睦軍少佐になってはいましたが、当時二十七歳。
年令的に若くて、今直ちに役に立つとは思えず、政治に関しては東久圖宮を推すとしても、
他の皇族には「頼ムルニ足ルモノナキ観アリ」と、人材不足を嘆いています。
さらに
「天皇親政とは如何。
天皇一人で何が出来るだろうか。
総理と天皇との間に隔たるものありとの不安も。
結局は国民の生活苦、ないしは戦争遂行の不安によるものだ。
要は、総理を信頼すべく国民を指導するにあるのだ」。
こう書いていますが、
まずは東条内閣の実態を見ようと、文部大臣の岡部長景を呼んでいますし、
八月十八日には東条首相にも直接会って話を聞いています。


 岡部の話から出てきた東条内閣の姿は、無気力そのものでした。閣議は事務的で、東条だけはよく意見を述べるか、他の閣僚はほとんど云わない。東条は最近は廃液を起こすようなことはないが、ステーツマンとしての人格は足らない。閣僚かスクラムを組んで、東条内閣を発展させようとする努力は盛んでない。無任所大臣は発言せず、戦争指導については閣議で触れることもないし、閣僚が会食や懇談することもないと云うのです。東条もそうした欠陥は、よく知っていたのでしょう。出てくるのは嘆き節ばかりです。政府大本営連絡会議が形式的になってきていること。今後の作戦をどうするのか、参謀総長に尋ねているか、未だに返事がない。総理大臣と両総長で戦争作戦指導を決めていきたいが、両総長は何でも部下に相談しなくては決められないので、話にならない。国務では属官かやっていくような現状は、速やかに改めるぺきだと思って閣議で云っているが、なかなか各大臣の命令が徹底しない。残念ながら、これが十八年当時の日本の最高指導部の実態であり、またここから浮かんでくるのは、一見独裁者と見られていた東条の意外に孤独な姿です。

 高松宮は日記には書いていませんが、この時から「東条内閣ではダメだ」と、終戦の機会を求めるようになったのではないでしょうか。元外相の幣淳吉重郎、さらには吉田茂、岡田啓介、米内光政に次々と会って、意見を求めています。十月二十五日には近衛が高松宮を訪ね、「陛下にはまずいことかお耳に入っているのだろうか」と、こう云います。内閣顧問の大河内正敏、この人は理化学研究所を創立して理研コンツェルンを作った人ですが、陛下にお話する時もその原稿を検閲して、心配されないよう直したと云うのです。近衛は「陛下にいろいろなことを申し上げてほしい」と、高松宮接近の「番の狙いを切り出しました。そして高松宮の7刀々駆け回って、各方面の意見を聞いてくる者がほしい」。この希望で、近衛は『高松宮の目となり耳となる人物』として、当時三十二歳の細川護貞さんを選んだのです。

 高松宮は十一月八日、初めて訪ねてきた細川さんに「目立たないよう、正確な情報を伝えてほしい」と、こう云われたそうです。「このように時局が切迫してきて、いかなる事態か発生しないとも限らない。その時、正確な判断を下し得るだけの予備知識を得ておきたいために、人を探した次第だ」。これから敗戦まで一年九か月、近衛と高松宮との間に秘密の情報ルートが設定され、細川さんは毎月一、二回、高松宮を訪ねて、集めてきた情報を伝えることになります。


 こうして厳しい言論弾圧下、ゆるやかな形ながら『東条包囲網』が形成されていくのですが、この話の続きは次に「学徒出陣と勤労動員」と云うテーマで話したいと思います。 


日弁連は共謀罪に反対します(共謀罪法案対策本部)

1945年
 占領軍の指揮官のマッカーサーは、日本の徹底改革&天皇制維持の姿勢を決めていた。ワシントン政府は、日本の改革・天皇制いずれにもフラフラしてた。結局はマッカーサーが独断専行で決めていく。

 そのマッカーサーを、日本国民は熱烈歓迎する。
ここで労働基準法を作り組合活動を合法化し、戦前・戦中に拘束されていた社会主義者・共産主義者が釈放される

1945年10月4日、
 マッカーサーから治安維持法(共謀罪)の廃止を要求された日本の東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した。
 すなわち、日本の支配層は、敗戦後に、弾圧した国民の復讐を恐れ、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした

 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法(共謀罪)も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。

「児童を保護するため」と言った児童ポルノ規制法は、実際は、
「児童ポルノ単純所持罪は児童を逮捕するための法律かも」
でした。
http://sightfree.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html
(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計のうち、「平成25年中の少年非行情勢について」の報告による)

同様に、「国民をテロから保護するため」と言うテロ準備罪は、
「国民を逮捕するための法律」のようです。

また自民党は、テロ準備罪(治安維持法)の成立に向けて、以下の憲法改悪案で運用したいと考えているようです。
(憲法36条)公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
自民党案では:「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁ずる。」に変えます。
テロ準備罪(治安維持法)の運用等で止むお得ないと総理大臣(安倍)が判断した場合は、拷問を許可するようです。 





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