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農地改革の裏事情
Copy:(48)松江藩ゆかりの松平農場
北の大地に輝く足跡
かつて北海道に、松江藩ゆかりの「松平農場」が存在したことをご存じだろうか? 場所は現在の旭川市東鷹栖町と隣町の鷹栖町を結んだ一帯。関秀志著「松平農場史」(旭川振興公社刊)によると、広さは1752ヘクタールに及び、小作農約340戸(約1900人)を抱えていたという。北海道開拓記念館(札幌市)には、往時の貴重な写真が保存されている。
島根大学名誉教授の吉野蕃人さん=松江市雑賀町=は平成14(2002)年9月、その松平農場があった旭川盆地を訪れ、稲がたわわに実った広大な田園を見た。「先人が汗と涙の苦闘によって築きあげた農場の延長であると思うと、目頭が熱くなった」と話す。
明治政府は、廃藩置県で失業した士族の救済も目的に、北海道移住の農兵を奨励した。いわゆる屯田兵である。しかし、新天地を求めたのは下級武士や貧農だ
けではなく、徳川慶勝(名古屋藩)、毛利元徳(山口藩)、鍋島直大(佐賀藩)、前田利嗣(金沢藩)ら旧藩主もこぞって開拓に乗り出した。これらは「華族大
農場」と呼ばれ、政府から国有未開地の貸し付けを受け、開墾を通じて広大な農地を取得した。
明治27(1894)年、松平家13代当主・直亮(なおあき)が開いた松平農場もその一つで、時代を先取りした先進的な経営で北海道開拓史に輝く足跡を残している。
(当ブログの特筆事項)
「クラーク博士の教え子(クリスチャン)内田瀞(きよし)」が、41歳(明治31・1898年)から54歳(明治44・1911年)まで、この松平農場の経営を担当した。
内田瀞は、61歳(1918年)まで、農場の「農場管理」職を務めた。彼の功績が認められて、70才(1927年)まで「顧問」として働いた。
(この間の1922年に有島武郎による農場開放があった)
特筆されるのは、小作争議のない模範農場としての名声だろう。第1次世界大戦の後、農村は不況や水害、凶作に見舞われ、大正末から昭和初期にかけて各地で小作争議が多発。全国的な労働運動・農民運動の影響を受け、階級闘争へ発展していく。松平農場は当時、いち早く農地を小作農民らに解放したという。
-------松平直亮 (2/2)---------------------------
大正期に入ると農村不況による小作争議が全国に広がりを見せ、政府は大正15(1926)年に自作農創設政策を推進。当時上川郡でも小作争議が発生していた背景もあり、直亮もこの政府案に理解を示して昭和8(1933)年に松平農場の農地開放の準備に取り掛かっている。10年10月、直亮は正式に農地開放を承認するとともに11月に東鷹栖村(旧鷹栖村)へ回答書を送付した。12年6月、農場主であった直亮は高齢の身にありながら8 -
12日の4日間を東鷹栖村の松平農場に滞在し、分譲完了式、頌徳碑除幕式に参列している。直亮は過去にも明治41年8月、大正5年8月、大正10年に松平農場を訪れているが、これが最後の訪問となり農場閉鎖を直接見届ける事となった。
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このため、昭和12(1937)年に松平農場が幕を閉じた際、地元新聞は「本道(北海道)開拓史に不滅の光輝、刻苦経営42年間の功績」(昭和10年
10月31日・小樽新聞)、「松平農場全部解放」(昭和12年6月10日・北海タイムス)と大々的に報じた。今も旭川では「争議の蜂須賀、平和の松平」と
語り伝えられている。
一般的に「農地解放」という用語は、戦後日本の改革として使われる。それに先立つこと十数年。松江藩ゆかりの松平農場は、北の大地に自由と進取の歴史を刻んだ。
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