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日本人が苦手な議論。あるいは、いかにして民主主義は死に至るか。
日本人は議論が苦手だと言われている。が、これは「自分の意見をはっきり言わない」ぐらいに理解されている場合が多いようだ。議論の種類や方法について語られることは滅多になく、無遠慮な恫喝で他人を黙らせるのが「議論の上手い人」と見なされてしまう。
■マイケル・サンデル:失われた民主的議論の技術
マイケル・サンデルのこの講演によれば、民主主義とは物事の「本質」について議論し、合意を形成していくことをいう。この社会の何が大切で、何がそうでな
いのか、物事の「本質」に立ち返って議論しなければ判断を下せない。民主主義とはただの多数決ではなく、社会の構成員すべてが納得できる価値観を探り出す
プロセスのことだ。
そして日本人は、この「本質について議論する」のが苦手なのだろう。
たとえば「秘密保護法反対デモの
参加者は顔をマスクで隠すな!
自分の秘密は大事なのかよww」という言葉を2chで見かけた。この書き込みをした人物は、個人の秘密と国家の秘密を同列のものと見なしている。では、それらは本質的に同じものだろうか。本当に、同列のものとして扱うことができるだろうか。
◆
----日本の国会での議論---------
学生運動取締に関する質問
山本宣治
昭和四年(1929年)二月二十一日予算委員会
私の質問は文部省所管の歳出に関して、いわゆる思想善導費の諸項目に関しての質問であります。
(当ブログのコメント:「思想善導」の言葉の意味は、戦後にとなえられている「青少年健全育成」とほぼ同じ意味です。)
これに関しては既に川崎氏、原氏、又椎尾博士これらの諸委員からお尋ねに依りまして、
これに当局がお答えになっておりまするから、
それは詳細すでに熟読いたしまして、重複の点を全部省きまして、
私はついこのほどまで京都帝国大学に職を奉じておった関係上、こうした問題の内容に関して、具体的事実を得る便宜があった。
そうした関係上事実をあげて、それに対する文部当局の所見或いは対策を承りたいと思うのであります。
それで一月二十五日の本会議でありましたが、それに文部大臣は浅原健三君の質問に答えるに、こういう言葉をもってしておられておる。
そのまま読みますると
「浅原君より文部大臣に向いまして、警官が神聖なる教場に乱入をいたして制服制帽のままで学生を拉致《らっち》したというような事があるが、
それに対して文部大臣の権威を冒涜するようなことはないかというような、
きわめて私に対してはご深切なる御質問でありました。
しかし私の受けておりまする所によりますると、さようなことについては何らの報告がございませぬ。
又私はさような事のないことを信じておりまするから、どうかさようにご承知を顧います」
かようにお答えになっておるのでありまするが、
質問当時におきましてはそれより遡りまして以前に東京帝国大学の校内において、教室において、聴講中の帝大生が教室の中から警察へ引致された。
或いは正門の前において構内に入ろうとする学生があった。
それを正門の傍で警官が検束したという風な事実を浅原君は指しておったものであります。
一月二十五日以前の事件は私は申しませぬ。
その後において今申したような事実があったのであります。
去る二月一日の事であります。
金沢の第四高等学校文科三年生宮島隅夫および野田薪三、滋賀政夫の三名は授業中突如広阪警察署に引致されて、一応取調べの上に帰宅せしめられたという事実があります。
この三名の人の引張られたのは昨年軍事教練反対運動の急先鋒となり、又最近は軍事教練の費用の内容を明らかにせよと当局に迫った為に、常に不穏分子として当局から睨まれたからであるという風なことなのでありますが、
こういう風なことで文部省の直轄学校の校内に、しかも授業中に警察官が闖入して学生を引致するという風なことはこれは当局は常態であるとお考えになりますか、
まずその辺の御所見を伺いたい。
◇勝田国務大臣
山本君のお尋ねでありまするが、その件については未だどういう実際の状況であったかという報告は得ておりませぬが、
しかし私はさような事はないと思います。
これは教場で授業しおる所へそこに警官が闖入して、それをすぐ拉致するというような事柄でなくして、
或いは教場において授業を受けつつあったのかも知れませぬが、
これをその外に呼んで、そうしてそれを拉致したというようなことと私は信じておる。
又私などの報告を得ておる所によりましても、学校の講堂だとか、教室だとか、そういう中に警官が闖入して生徒を拉致して行くということはどうもないようであります。
それだけお答えしておきます。
・・・・・
・・・・・
今申しておりまするのは、現在の「ブルジョア」教育の最も徹底した最高学府における問題であります、
そうしてそこに学ぶ人は、この「ブルジョア」の子弟の中で最も優秀なる人のみであります。
そこへ来るまでに小学中学において修身と倫理の話はうんと聴いて来て、
思想善導に関しては最も完全なる条件を持ち、最も恵まれた環境の中に育って来て、
なおこうした形式の訓育を必要とするという点に、
文部当局は何か自信の欠乏をお感じにはならないか、
この点に関して、大学内においても事実思想善導の完全に行われておるというのは
――これは地方の高等学校と大都市の高等学校を比べて見ますというと、
文部当局から見れば、
大都市においては「ルーズ」になっておる。
地方の高等学校の方が中央政府の指令が行き届いて行われておる
という風にお考えになるか知れませぬが、
帝国大学の進歩的な職員の中には決して地方高等学校の「ゲートル」を穿かせて訓練を盛んに行い、
そうして横文字の本は精々読ませないように、
新刊雑誌はまるきり読ませないというような風にした教育を決して歓迎するのではない。
それは現に中央の大学の中には、学校は指して申しませぬが、
僻遠の地方の学校の出身者は一高とか三高のような高等学校の出身者と、その素養においては二年三年の差異を見ておるというような実情であります。
この思想善導というものは何を目標としておるかといえば、
即ち危険思想にかぶれないで、そうしてできるだけ学校当局者の統治の容易いような、毒にもならなければ薬にもならぬものを目標として立っておるように見受けらるるのでありますが、
これに関して弘前高等学校の最近の「ストライキ」の状勢に関して今お話になった以外に、
只今「ストライキ」が起きておるという実情が目の前にある。
学校の当事者が生徒に委ねられたその金を横領して何か使途不明の所に使い果した。
こういう事態の前に学生はその校長のやった非違を糺弾してはいけないという風にお考えになるのでありますか。
「ストライキ」に関する所見を伺いたい。
〔「答弁の必要なし」
「大臣の発言を抑圧する必要はない」
と叫びその他発言するもの多し〕
(当ブログのコメント:この議会の質の悪い「やじ」体質は2014年の東京都議会のセクハラやじに引き継がれていますね。
日本のデモクラシーは今に至っても脆弱だと思います。
こういう日本では、とてもスウェーデンのような良い国にはなれない。日本では、今後もデモクラシーを自らのものにする思想作りを、少しづつ体でおぼえて身に付ける地道な努力が必要だと思います。
少なくとも、日本の庶民は、戦後にアメリカから与えられたデモクラシーに大変満足しているように思いますので。)
◇工藤委員 議事進行です
――これはお答えになった方がよろしいかと考えるのですが、
この思想善導に最も影響のあるのは、やはり「ストライキ」などの問題と思います。
即ち師弟の間の問題がわが国の道徳の一の根底をなすのですから、
これに対して文教の重任にある当局大臣は、
あなたがたはどうか知らぬが、
政府はこう考えておるというてしたがってこれに善処する方法をかような席で発表するということは、もっとも適当なる機会を得たのではないかと思いますから、
議事進行の上に置いて文部大臣の所見を発表することを要求いたします。
只今の質問の要点が確かにお分りにならないと思いますから、簡単に反復いたします。
学校当事者が非違を行うたという実跡がある場合に、学生生徒はそれを糺弾してはいけないものであるか、
これをお伺いいたします。
◇勝田国務大臣
学校の当局者が非違を行うた場合に、これを匡正する途は種々備っております。
しかして学生といたしましてこれを直接に糺弾するが如きはこれを認むることは出来ませぬ。
・・・
・・・
細かい問題であるという風な政府委員のお答えでありましたが、
思想善導に関しては既に貴族院において二荒伯が田中首相に思想善導の善とは何ぞやということを聞かれた時に、
きわめて簡単に正しく導くという風な御話でありました。
その正しくとか、善くとかいうことを申しましても、
校長の言う意味と、或いは文部省当局の言う意味と、青年学生の言う意味とは、そこに盛られる内容が違うのであります。
思想善導というのは具体的にお答えするならば、
学生には「ストライキ」をするな、
又工場労働者に対しても同じく「ストライキ」をやってはいかぬ。
小作人は小作争議などをやってはいかぬ。
こういう風に解してよろしいのでありますか。
◇安藤政府委員
簡単にお答えいたしますが、工場の労働者に対する「ストライキ」という事と、
学校の生徒が校長や学校に対して「ストライキ」をやるという事とは、
非常なる根柢において意味の相違があるのではなかろうかと思うのであります。
(当ブログのコメント:この反論は論理的な反論とも思えます。もっと丁寧に論点を説明すれば、ディベートに勝てたかもしれない。以下の流れを見ると、ディベートに負けていますが、、、)
これを同一に混同して「ストライキ」はどこでも行われてよろしいというような事になっては
――そういう思想を抱いて居る者がだんだん多くなっては、
これこそ実に国民思想振作の為の大問題ではなかろうかと思うのでありまして、
私共はこういう質問がしばしばこういう席上に出るのをすこぶる遺憾とする次第である。
(当ブログのコメント:この発言は民主主義に反する立場の表明だと思います。山本宣治のような共産主義者(治安警察法違反)を弾圧するのが政府の仕事だと意思表明したものと解釈できます。)
〔「ヒヤヒヤ」「ノウノウ」と叫びその他発言する者多し〕
◇堀切委員長
諸君に注意致します。
静粛に顧いますが、しかし質問者のご質問或いはその言葉などによってなかなか委員長が努力しても静粛になりかねる事がありますから、ご注意を願いたい。
たとえば、昨日の横山君のご質問の如く、本議場ではだいぶ横山君は紛擾も起された事もありますが、
昨日は静粛に謹聴しておった(ヒヤヒヤ)というような訳ですから、
どうぞご質問なさる方においても静粛になるようにご注意を願いたい。
弘前の高等学校におきまして校長の非違を発見した生徒が大会を開いてこれを糺弾した所が、
その決議文を生徒主事がすぐ受取って焼払った。
そうして
その時に二十五日以後の学年試験に応じない生徒は二年三年以上は全部落第とし、
一年は全部放校するに決するという訓示があった
ということであります。
こういうような事実に徴しますると、
今政府委員の申された如く、温情主義的の教育がその学校の内に行われておらぬ。
今日における教育は「ブルジョア」資本主義の大量教育でありまして、職業教育である。
おのおの職業を得て立身出世をしよう、或いはとにかく一つの位地を得ようという為に、努力する、
その間に最小時間において最大の効果を挙げようとしてやる場合に、
学校というものは人格の陶冶をする機関ではなくして、
知識或いは職業的訓練を最も能率よく授ける機関であるとして学生は今日行っておる。
だから校長先生から人格的陶冶を加えて戴こうとは思っておらぬ。
その点において学校が学生の要求を満してくれないならば、
ここに種々の要求が起って来るのは当然の事である。
その要求を完全に満し得ないような学校がある。
ために学生主事という風ないわば一種の思想警察という風な制度を学校内に輸入して、
そうして何事ぞといえば放校に処するとか或いは落第をさせるとかいう風な事を言って、
学生をその圧迫の下に押しつけようとしておる。
これでは決して真の教育とは言えない……
〔此時発言する者多し〕
◇堀切委員長 静粛に。
殊に学生主事という風なこの「スパイ」の如きものを学校内に輸入したというのは、
もはや今の学校教育が情操とか或いは温情主義とか、そういう風なものには、立ち得ない
ということを自ら告白し来ったものである
とこう解釈して、
私はもはやこれ以上社会観或いは世界観の相違に基づく所の質問を打切ります。
(当ブログのコメント:この議論は山本宣治の勝ち逃げに終わったようです。民主主義国家ならば、もっとしっかり議論されただろうと思いますが、、、)
底本:
「現代日本記録全集12 社会と事件」
筑摩書房 1970(昭和45)年4月25日初版第1刷
底本の親本:
「山本宣治全集第八巻」
ロゴス書院 1930(昭和5)年
この質問の2週間後の3月5日に山本宣治は暗殺された。
死後に、 共産党員に加えられた。
-----------------引用おわり---------------------
◆
ところで競技ディベートには、大きく分けて2つの議論の方向性がある。
「プラクティカルな議論」と「フィロソフィカルな議論」だ。
プラクティカルな議論とは、具体的で方法論的な議論を指す。一方、フィロソフィカルな議論とは、物事の価値観を問うような抽象的で哲学的な議論を指す。
そして、たぶん日本人は後者が苦手だ。
学生時代のディベート大会で印象的だったのは、「Japanese Gov. should encourage Otaku
culture.」という議題。
和訳すれば「日本政府はオタク文化を振興すべきか?」だ。
当時はゼロ年代の半ば、ニコニコ動画以前の世界では、大学生はこんなのを議論のタネにしていたのだ。
私は観戦席に座って、反対派についた同級生を応援していた。
このとき賛成派のチームは、ひたすら「オタク文化がいかにすばらしいか」を述べた。
乗り換え検索サービスを鉄道オタクが開発したこと。
ジャパニメーショ
ンが国際的に評価されていること等々。
これに対して私の同級生は「How encourage?」の一言で反論した。
「振興するって具体的に何をするの?
具体案がないじゃん!」とツッコミを入れて、勝利をもぎ取った。
あのとき、賛成派のチームはたぶんフィロソフィカルな議論をしようとしていたのだ。
当時はニコニコ動画の誕生前夜で、オタク文化と"一般人"との距離は今よりも遠かった。
その時代に「オタク文化は政府が振興する"価値"があるかどうか」を議論しようとしたのだろう。
一方、私の同級生はプラクティカルな議論に持ち込むことで、相手をねじ伏せた。
あのとき、賛成派は「価値観について議論しているのだから具体案は必要ない」と反論すべきだった。
具体的な振興案を議論するためには、それ以前に、振興する価値があるかどうかを議論しなければならない。
この点を上手く説明できれば、賛成派にも勝機はあった。
私が学生のころは、プラクティカルな議論のほうがジャッジの心証が良かった。
しかし最近では、フィロソフィカルな議論が重視されるようになってきているらしい。
なぜなら、そうしないと国際大会で通用しないからだそうだ。
海外の大会ではフィロソフィカルな議論のほうが好印象なのだという。
日本では、プラクティカルな議論が偏重されがちだ。
新聞もテレビも、インターネットでも、フィロソフィカルな議論をしようとすると「現実的でない」「夢想的だ」という烙印を押される。
こうして日本人は、物事の「本質」について議論する機会を失うのだ。
プラクティカルな議論をするためには、土台となる価値観を固めなければいけない。
価値観を固めるには、フィロソフィカルな議論が欠かせない。
しかし日本では、国の政策でも、企業の事業計画でも、フィロソフィカルな議論は滅多にされず、いつの間にか"空気"で決まっている場合が多いのではないだろうか。
国家の借金と個人の借金は本質的に同じものだろうか。
個人の秘密と国家の秘密は、本質的に同じものだろうか。
「同じだ」と主張することはもちろん可能だろう。
大切なのは、その主張に説得力があるかどうかだ。
それが、物事の本質について議論するということだ。
◆
ここまで、民主主義の議論について考えてきた。
続いて、民主主義の具体的な実現方法について考えたい。
世界の近代史を見れば分かるとおり、デモや集会は民主主義を実現する方法の1つだ。
政治を変えるには、大きく2つの方法がある。
1つは権力者と個人的な
つながりを作り、取引と交渉によって行動を変えさせる方法。
もう1つは大衆の賛同者を増やして、数の圧力で権力者を動かす方法だ。
歴史上、民主主義は後者の方法で実現されてきた。
しかし今の日本では、デモや集会に強烈な嫌悪感を抱く人が珍しくないようだ。
ネット上では、とくにそれを感じる。
2chにせよtwitterにせよ、デモや集会は基本的に反社会的で犯罪的な行為として糾弾されているのをよく見かける。
これは、たぶん日本独自の歴史的な経緯が大きな影響を与えているのだろう。
日本は歴史上、デモや集会で政治が変わった経験に乏しい。
日本史の教科書では、一揆はテロ行為として描かれる。
明治維新は市民革命ではなくクーデターだった。
現代に入ってからも同じだ。
70年代の日本赤軍にせよ、90年代のオウムにせよ、「日本を変える!」という題目のもとにテロを働いていた。
ゼロ年代のイスラム過激派によるテロは「野蛮人による秩序の破壊」という文脈で語られた。
「アラブの春」の後の混迷を見て、やっぱりイスラムは野蛮人じゃん......みたいな見方が生まれた。
こうした歴史的経緯から、多くの日本人にデモや集会に対する生理的嫌悪感が植え付けられた。
世界の近代史を見れば分かるとおり、デモや集会は政治を変える効果的な手段の1つだ。
が、日本人は自らその手段を封じた。
それが日本人の美徳──冷静で穏やかな気質──の表れなのか、それとも自縄自縛にすぎないのか、今の私には分からない。
◆
民主主義とはただの多数決ではなく、物事の「本質」について議論を深めて、社会の構成員の合意を形成していくプロセスのことをいう。
しかし日本人はプラクティカルな議論に終始しがちで、フィロソフィカルな議論をあまりしない。
プラクティカルな議論を偏重すると、「専門家以外は口をつぐめ」という論理がまかり通るようになる。
議論から社会の構成員を排除してしまうので、この論理は民主主義とは相容れない。
秘密保護法案を巡るネット上の議論は、この日本人の弱点が端的に表れていたと思う。
「国家の安全保障に秘密は必要か否か?」というレベルの議論が中心に
なっており、さらに深いレベルでの議論──そもそも国家とは何か、秘密とは何か──には、あまり踏み込んでいない印象がある。
国家の安全保障に秘密が必要なのは当然だ。
したがって、秘密保護法の反対派もこの点はあまり議論の的にしていない。
問題は、この"秘密"が誰のもので、誰の手によって管理されるかだ。
民主主義の国家とは、国民が国家を統治する政治形態のことをいう。
そのため国家の秘密は、同時に国民の財産でもある。
国民の財産であるなら、国民の手に
よってコントローラブルにしておくのが筋だろう。
少なくとも、選挙によって選ばれた国民の代表者の手が届くようにしておくべきだ。
◆
余談だが、「普通の人は逮捕されない」という言葉では私は安心できない。
冤罪事件の事例を調べれば、任意同行からの自白強制、別件逮捕が黄金パターンだと分かる。
たった一週間の勾留でも、仕事をクビになりうるし、婚約は破棄されうる。
たとえ起訴されなくても、私たちの生活はかんたんに破壊される。
「罪のない人が捕まることはないし、理不尽な目に遭うこともない」という信念は、そのまま「捕まる人は何か悪いことをしているはずだし、理不尽な目に遭うのはその人に原因がある」という発想につながる。
しかし現実には、権力はいともたやすく暴走する。
それが20世紀の教訓ではないか。
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■落合弁護士による「特定秘密保護法案の刑事手続上の論点」─ジャーナリスト・江川紹子
■うんざりするほど当たり前のこと─小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」
■特定秘密保護法案 チェック機能は─NHKニュース
■佐々木俊尚さんのツイートまとめ/特定秘密保護法案への反対報道に思う
(2013年12月7日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)
アベノミクス失敗すれば2016年に政権交代あり得る? 米誌指摘(2014年8月18日)
(日本は、今後の経済の閉塞的事態への対応として、戦前の日本の言論統制を再び実施する構えを見せている)
(自民党がヘイトスピーチと国会周辺のデモを同列にして規制(非合法化)しようとしている(2014年8月29日))これは、戦前に普通選挙法に抱き合わせて治安維持法を成立させた旧日本の政治戦略を連想させます。
1919年から27年まで,日本の工業生産の増加率は欧米諸国を越えていたのであるが,
このような工業発展は,中国市場を中心とする国際的進出と,国内における労働条件の低水準維持策とによって,一応支えられていたのであった。
それに対して,中国人民の反日闘争と,国内では社会主義・民主主義運動・労働運動の高揚によって大きな制約を受けることになった。
日本資本主義の進展をはかる官僚・軍閥は,中国への武力による帝国主義的侵略と,国内の反体制運動に対する弾圧によって,この危機を克服しようとした。
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