2014年8月25日月曜日

農地改革法案(第2次)の経緯

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その他の重要法案(農地改革法案)
 第九〇回帝国議会

 極東委員会と対日理事会

 日本で第89回議会の幕が閉じられようとしていた1945(昭和20)年12月16日、モスクワでは米英ソ三国外相会談が開始され、 イタリア、ルーマニ ア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドなどとの平和条約をめぐる問題と同時に、

日木の占領管理方式に関する問題も、主要な議題の1つに数えられてい た。
日本占領に関しては、日本降伏以後つづけられているアメリカの単独占領に対して、ソ連、イギリスなどから不満が出されており、日本占領にこれら連合諸国を どのような方式で参加させるかが問題とされていたのであった。
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第九〇回帝国議会

  この議会では、政府提出法案55件、衆議院提出1件、計56件の法律案が成立しているが、そのなかで憲法につぐ重要法案としては、いわゆる第2次農地改 革法として一括される自作農創設維持特別措置法案・農地調整法改正案をあげることができる。

 すでに第89回議会で第1次農地改革法案が審議されているさなかの45年12月9日、総司令部は4項目にわたる農地制度改革計画を46年3月15日までに提出することを命じたが
(「第八九回議会解説」参照)。
それは日本側が自主的に作成した農地改革案に強い不満が持たれていることを意味していた。
3月15日の期限に日本政府から第1次改革案を骨子とした回答がもたらされるや、
総司令部は農林当局との間に第2次改革に関する協議を開始し、
またマッカーサーはこの問題を対日理事会に付託して、農地改革に関する国際的論議 をうけながした。

この間、3月に予定されていた市町村農地委員の選挙は無期延期され、第1次農地改革法は主要な部分が実施されないままに、第2次改革法の 登場によって消滅することになるのであった。

  対日理事会では、5月29日の第5回理事会で(共産主義国)ソ連代表デレヴイヤンコ中将が第1次改革法を批判してソ連試案を提出、
ついで6月12日の第6回理事会では英連邦代表マクマホン・ボールがイギリス案を発表するなど、活発な論議が展開された。

総司令部は結局このイギリス案を骨子として、6月下旬、
第2次農地改革に関する「勧告」を行い、
ここから第2次改革が具体化することとなった。

総司令部側がこの案を「指令」とせずに「勧告」としたのは、こうした重要な社会的改革は日本の自主性という形式をとることが望ましいとしたからであったが、実際には日本側はこの「勧告」に若干の修正と調整を加えただけでそのまま法案 化したのであった。

  第2次改革法案は第1次改革法とくらべると次のような特徴をもっていた。

まず形式面でみると、前回の場合には農地調整法の改正だけで問題を処理しようとしたのに対して、
今回は自作農創設には「自作農創設特別措置法」という特別の単行法を用意し、
農地調整法には農地委員会の民主化、農地移動の統制強化などの改正を加えるというやり方がとられた。
このことは、この時期にはすでに農地改革に原則的には反対しえないような社会的な雰囲気が生まれており、前回の場合のように反対論者の気勢の緩和をはかる必要がなくなったことを意味するものであった。

  法案の内容では

(一)地主の保有面積を第1次案の全国平均5町歩から、内地平均1町歩、北海道4町歩と思い切って縮少した、

(二)第1次案では小作人の農 地の取得は地主との間の当事者間協議を原則とし、それが整わない場合に、農地委員会の裁定による強制譲渡の方法をとりうることとしたのに対して、
今度は、 国家が所有権移転を仲介する、つまり一定面積以上の小作地は国が機械的に買収して小作人に売り渡すこととしたのであり、
この点は農地改革を徹底させるためのキー ・ポイントをなしていた。
例えば旧案では、小作人が地主の圧力に屈して農地の買取を申し出ない場合には、折角の強制力も使いようがなくなるという欠点をもっていた。
買収代金は一部現金で他は年利3分6厘30年以内の年賦支払の農地証券で支払われることとなった。

(三)前項と関連して、市町村農地委員会が 買収すべ き農地を決定するという新しい制度が立てられたことも第2次案の大きな特徴であった。
つまり買収は、市町村農地委員会が作成し、都道府県農地委員会が承認 した農地買収計画に従って、都道府県知事が買収令書を交付し、それによって政府が農地の所有権を取得する、という手続きで行われるわけであった。

その他 
(四) 農地買収計画の作成権を握る市町村農地委員会の構成を、第1次案の地主・自作・小作各5から、地主3、 自作2、小作5と改めた、

(五)第1次案よりも農地の移動統制・耕作権保護の規定を強化し、最高小作料の規定を新設したこと

などが、第2次農地改革法案の 特徴をなすものであった。

この法案をめぐっては活発な討論がなされたが、結局両院を無修正で通過、10月21日公布され、これによって農地改革が現実に着手されることとなった。


(農地改革の実施)
  農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

 しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

 譲渡された小作地は、
1948年3月では、1945年(昭和20年)11月の小作地(236万町歩)の14%、

1950年には、80%に達し
 農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、
 耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

 この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。
 このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

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