1918年に起きた米騒動
とりあえず流れを全体的に説明してみます。
まず、米騒動が起きた根本的な原因は、第一次世界大戦中の1917年に起きた「ロシア革命」です。
ロシア革命は労働者や兵士の反対から起こりました。
何故革命が起きてしまったのかというと、ロシアの独裁的な帝政や長く続く大戦継続に反対しているものが多かったからです。
「レーニン」率いる「ポリシェヴィキ党」が中心となって起こされたこの革命の結果、ソビエト政権が誕生し、ロシアは「ソビエト連邦」に改名、いわゆる「ソ連」へと変わりました。
この「ソビエト連邦」は「世界ではじめての社会主義国家」として全世界を仰天させました。
ロシア革命後、ソ連はそれまで敵であった、ドイツ・オーストリアと「ブレスト=リトフスク条約」という単独講和を結んで、大戦から離脱しました。
さて、このロシア革命が起きたときの日本の首相は誰だったのかというと、それは「超然内閣」を組織した「寺内正毅」でした。
寺内正毅はこの「ソ連」に対して非常に危機感を抱いていました。
というのは、当時社会主義者というのは国家を転覆するテロリストのような認識があったのです。
だから、日本もこれまで社会主義を徹底的に弾圧をしてきました。
このような社会主義国家が誕生してしまったら日本にいる社会主義者の勢力も高まってしまうと恐れたのです。
そこで、寺内はそのロシア革命を干渉するために列国(アメリカ・イギリス・フランスなどが中心)と共に1918年に「シベリア出兵」を行いました。
日本や列国が兵を送ることで、革命を邪魔しようと考えたのです。
ところが、そんなことを表向きにしたら当然レーニン率いるロシア国民が大激怒してしまいます。
そのため、「チェコスロヴァキア」軍の救出ということを名目にシベリアに兵を送ったのです。
さて、ここからが米騒動の大きな原因となります。
日本では「シベリア出兵」を行った結果、米価が急増しました。
なぜかというと、出兵した兵たちの食糧を目的に国が大量の米を買い上げようとしたからです。
では、米を大量に買うと分かっている商人たちは何を考えるでしょうか?
「政府は兵士のために大量に米を買おうとしている。
ならばちょっとくらい値上げをしても買い上げてくれるだろう」と考えたはずです。
そのため、商人たちが米の値段を上げて、米価が急増したのです。
(参考:米価高騰の影響)
江戸幕府が滅ぶ原因になった日米修好通商条約によって、日本が輸出する生糸、茶、蚕卵紙の生産が追いつかず(輸出超過で良く売れ経済が良くなったと思われた)、
一方で、国内向けが品不足になり、米の値段を含む物価が高騰し貧困層が増加しました。
(このグラフは「米一俵(60kg)の価格の推移」のページのデータをグラフ化しました)
もちろん、その影響は普通の一般市民にも及びます。
特に主婦のみなさんにとってはいい迷惑ですよね。
「昨日まで3000円だったのに、今日になった途端6000円に上がってる!どないやねーん!」と思ったはずです。
そこで、富山県の漁村の女性が起こした「越中女一揆」というのが起こりました。
「米騒動」は、この漁村の「越中女一揆」がきっかけで運動が全国規模に広がったという説があった。
しかし、その後の研究が進んだ結果、米騒動は、少なくとも「富山湾沿岸地帯」から始まったものであり、
「漁村から始まったのではない」、
米騒動の主体は「海運・荷役労働者の家族、
「都市漁民」の前期プロレタリアである等と、
従来の「漁村から開始説」が改められた。
そして、全国の都市民衆・貧農・被差別民が、商人たちを襲うようになりました。
そして、寺内内閣はこの騒動を「軍隊」を使って鎮圧したのです。
で・す・が、ここで「あれ?」と思いませんか?どうして寺内は軍隊を使って鎮圧をした。
これはあまりにも理不尽だと思いませんでしょうか?
そもそも何故、米騒動が起こったのかというとその原因は先ほども説明したとおり商人たちが利益を目先に米価を上げたから、もっと深い原因まで行けば、政府が大量に米を買い占めようとしたからではないでしょうか?
つまり、米騒動の根本的な原因は「政府自身」にあったのにも関わらず、政府はそんなことを省みず暴力で無理矢理鎮圧したのです。
超然主義ならでのやり方ですね。
当然これには民衆は大激怒します。
この結果、寺内内閣は民衆からの信用を一気に失い、寺内内閣は総辞職という形を取らざるえなくなったのです。
-日本の、「科学を論じないしきたり」の歴史的背景-
戦時体制下における教育思潮
から引用。
1917年(大正6年)から1918年(大正7年):
第一次大戦(~1918年)の好況に社会の一部は潤いながらも、
米をはじ めとした物価は高騰を続けた。
米騒動(1918年)、小作争議(1922年~)、労働争議(1921年3万人の争議)(1922年~)
など、
社会全体が大きな動揺をしていた。
また、河上肇の個人雑誌『社会問題研究』や山川 均等の『社会主義研究』等により社会主義運動が活発化した。
(当ブログのコメント)江戸時代では、百姓一揆を弾圧し首謀者を見せしめに処刑していたが、大正時代の政府は小作争議に対しては、問題を根本的に改善する農地改革の知恵を出した。
しかし、労働争議に対処する知恵は出さなかったように思います。
1923年に、日本共産党の大検挙。
1924年、全国高校で、社旗禁圧・暴圧反対運動。
1925年、一高・三高の研究会解散命令に対する学連の抗議運動。
1925(大正14)年、政府は大正中期以降の反体制運動の高揚に対して,普通選挙法と治安維持法(≒共謀罪)を制定した。
(治安維持法制定当時、政府は「慎重に運用」「一般国民とは関係ない」と説明した。)
1925年末から1926年初め、京大生を中心とする治安維持法・出版法違反事件がおきた。
1927年:日本での「金融恐慌」
1928年6月には,治安椎持法が改正された。
---------補足-----------
・1928年の治安維持法の改正の趣旨
この時の改正は2つの目的を持っていました。
①一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*2、
②もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。
この改正(改悪)は、政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を治安維持法違反にしたという意味を持つ。
---------補足おわり------
第1の思想弾圧事件(3.15事件)
1928年3月15日:第一回普選(1928年2月)での無産政党(共産党)の進出に脅威を持った政府は,選挙直後の3月15日,全国いっせいに日本共産党・労農党・労働組合評議会・無産青年同盟の関係者を多数検挙し,さらに労農党以下3団体の解散を命じた。(3.15事件)
(逮捕者の中に学生150名が含まれていた)
★治安維持法違反被疑者の弁護人も逮捕される
3・15事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された。
さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された。
《日本労農弁護士団事件》1933年9月~11月,日本労農弁護士団に属する左派系弁護士30人が検挙された。
その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。
1928年7月には,内務省に保安課が新設され,思想取締まりにあたる特別高等警察を全国に設置し,憲兵隊に思想係を設置するなど,その権力は思想にまで介入することになり,反体制運動への弾圧が強化されたのであった。
1928(昭和3)年12月1日,政府は教学振興・国体観念養成を声明して,「思想善導(青少年健全育成)」への方向で,翌29年8月に,文部省は教化総動員の運動を企画し,これを全国的規模で推進した。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。)
この教化総動員を打ち出すにあたって,文部官僚の危機感は,思想国難,経済困難として表現されている。 教化総動員は,田中内閣に変わって,1929(昭和4)年7月に成立した浜口民政党内閣の施政方針にしたがうことになった。 それは、 一方で,共産党以下反体制運動を抑圧し, 他方で,金融恐慌後の経済危機を克服しようとする, 資本の産業合理化を支援する経済緊縮政策を援助するために, 政府(権力)の支配下にある全官僚・団体の機構を総動員して展開した一大教化運動であった。
★1928年に、文部省内に学生課(後の1934年の「思想局」の前身)を設置し、組織的に学生の思想を取り締まった。
その業務は:
「一 内外における社会思想の調査研究に関すること」
「二 学生生徒の思想の調査研究に関すること」
「三 学生生徒の思想的運動に関すること」
「四 その他、思想問題に関する調査研究に関すること」
であった。
1929年3月:国会議員の山本宣治(死後に共産党員に加えられる)が、国会で思想善導(「青少年健全育成」に対応する)について質問した後の3月5日に暗殺された。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。
また、戦後の日本政府は、(弾圧した国民の復讐を恐れ)、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした。
(1945年10月4日、GHQから治安維持法の廃止を要求された東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した)
しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。)
第2の思想弾圧事件(4.16事件)
★1929 S(4)4.16事件
・3.15の思想弾圧後に再度、全国規模で全国一斉検挙 700名検挙
報道禁止されていた
・知識階級の子弟が多く支配者層はショック
・共産党にとっては壊滅的な打撃 活動は以後地下にもぐる
・日本軍の山東出兵反対運動主流派逮捕される
・1929.11.5 新聞報道を解除し「共産党事件」と発表
・幹部党員には無期懲役などの重い刑
1929年に、文部省内の学生課を学生部に昇格させ(後の1934年の「思想局」の前身)、学生の思想の取り締まりを強化した。
1930年:世界恐慌(1929)の影響により、日本が「昭和恐慌」に入り経済が危機的状況に陥る。
1931(昭和6)年:満州事変
第3の思想弾圧事件(司法官赤化事件)
1932年:司法官赤化事件:
1932年11月12日、東京地方裁判所の判事・尾崎陞が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁の書記4人とともに逮捕された。
翌1933年2月から3月にかけては
長崎地方裁判所の判事と雇員各1人、
札幌地方裁判所の判事1人、
山形地方裁判所鶴岡支部の判事と書記各1人
も相次いで逮捕された。
逮捕された9人の容疑内容はいずれも
「研究会を開いた」
「カンパに応じた」
「連絡を取り合った」
などの行為だったが、
日本共産党の目的遂行のためにおこなった行為とみなされ、全員が有罪判決を受けた。
(これらの行為は、政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を罰する治安維持法の逮捕要件を満足する)
これらは、共謀罪の逮捕要件 を、満足する。
第4の思想弾圧事件((長野県と)全国教員赤化事件)
1933年 2月4日:
長野県で教員が思想問題で多数(66校、230名)検挙される(長野県教員赤化事件)。
この事件を契機に、全国各地で同様の弾圧が行なわれ、1933年12月までに岩手県、福島県、香川県、群馬県、茨城県、福岡県、青森県、兵庫県、熊本県、沖縄県で多数の教員が検挙された。
第5の思想弾圧事件(滝川事件)
1933年:滝川事件
1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こった。
この事件をきっかけに、5月26日、文部省は文官分限令により京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の休職処分を強行した。
滝川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示した。
この様に、日本の戦前には、共謀を罪に定める共謀罪が猛威を振るっていました。
以上の共謀罪の猛威の例はほんの一部の抜粋です。詳しくは、日本の治安維持法の歴史を自分で調べて学んでください。
(当ブログのコメント)
母子家庭の原因の離婚の原因は貧困
を参照。
厚生労働省の毎月勤労統計調査の統計表一覧、季節調整済指数及び増減率11(実質賃金 季節調整済指数及び増減率、現金給与総額(5人以上))から(1月-3月)データを抽出
総務省統計局家計消費指数 結果表(平成22年基準)の、総世帯の家計消費指数のデータから、実質家計消費指数を抽出
(貧困家庭が離婚し母子家庭になると考えられる。離婚しなかったらもっと貧困。)
先進国の北欧をはじめとするヨーロッパでは、大学の授業料が無料というだけでなく、大学生に生活費が支給されます。つまり、大学に行きたい人は誰でも生活が保障されて通学することができるのです。
それに対して、最近の日本では:
(1)安倍晋三政権は2013年から、貧困層への生活保護基準引き下げ(保護費削減)を実施。
(2)来年度(2015年)は子育て給付金中止、低所得者向けも圧縮ですって。
(3)「無料塾」継続困難に 来年度(2015年)から国の補助減
琉球新報 9月5日(金)配信
(4)生活保護世帯の学習支援事業 2015年度から国庫補助半減
(5)生活保護のうち家賃として支払う「住宅扶助」について2015年度から引き下げ、2017年度には2014年度と比べ約190億円減額する。
(2015年度予算で食費など生活費に充てる「生活扶助」の約260億円減額も決まっている。そのため、2015年度は実質では計約320億円の減額となる。)
(6)東京都渋谷区が,年末年始の貧困者への炊き出し(食事の提供)をさせないことを目的に宮下公園など3公園を閉鎖
(7)防衛費、補正予算倍に 「経済対策」名目に拡充(2015年1月8日)
アメリカでは、「徴兵制はいらない。貧困があるから」と言われていて、まさに国家規模の「貧困ビジネス」が戦争になっているわけです。
(コメント終わり)
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