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日本の戦前には、共謀を罪に定める「共謀罪」がありました。共謀罪はどの様に猛威をふるったかの歴史を見ます。
-日本の、「科学を論じないしきたり」の歴史的背景-
戦時体制下における教育思潮
から引用。
1917年(大正6年)から1918年(大正7年):
第一次大戦(~1918年)の好況に社会の一部は潤いながらも、
米をはじ めとした物価は高騰を続けた。
米騒動(1918年)、小作争議(1922年~)、労働争議(1921年3万人の争議)(1922年~)
など、
社会全体が大きな動揺をしていた。
また、河上肇の個人雑誌『社会問題研究』や山川 均等の『社会主義研究』等により社会主義運動が活発化した。
(当ブログのコメント)江戸時代では、百姓一揆を弾圧し首謀者を見せしめに処刑していたが、大正時代の政府は小作争議に対しては、問題を根本的に改善する農地改革の知恵を出した。
しかし、労働争議に対処する知恵は出さなかったように思います。
1923年に、日本共産党の大検挙。
1924年、全国高校で、社旗禁圧・暴圧反対運動。
1925年、一高・三高の研究会解散命令に対する学連の抗議運動。
1925(大正14)年、政府は大正中期以降の反体制運動の高揚に対して,普通選挙法と治安維持法(≒共謀罪)を制定した。
(治安維持法制定当時、政府は「慎重に運用」「一般国民とは関係ない」と説明した。)
1925年末から1926年初め、京大生を中心とする治安維持法・出版法違反事件がおきた。
1927年:日本での「金融恐慌」
1928年6月には,治安椎持法が改正された。
---------補足-----------
・1928年の治安維持法の改正の趣旨
この時の改正は2つの目的を持っていました。
①一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*2、
②もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。
この改正(改悪)は、政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を治安維持法違反にしたという意味を持つ。
---------補足おわり------
第1の思想弾圧事件(3.15事件)
1928年3月15日:第一回普選(1928年2月)での無産政党(共産党)の進出に脅威を持った政府は,選挙直後の3月15日,全国いっせいに日本共産党・労農党・労働組合評議会・無産青年同盟の関係者を多数検挙し,さらに労農党以下3団体の解散を命じた。(3.15事件)
(逮捕者の中に学生150名が含まれていた)
★治安維持法違反被疑者の弁護人も逮捕される
3・15事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された。
さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された。
《日本労農弁護士団事件》1933年9月~11月,日本労農弁護士団に属する左派系弁護士30人が検挙された。
その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。
1928年7月には,内務省に保安課が新設され,思想取締まりにあたる特別高等警察を全国に設置し,憲兵隊に思想係を設置するなど,その権力は思想にまで介入することになり,反体制運動への弾圧が強化されたのであった。
1928(昭和3)年12月1日,政府は教学振興・国体観念養成を声明して,「思想善導(青少年健全育成)」への方向で,翌29年8月に,文部省は教化総動員の運動を企画し,これを全国的規模で推進した。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。)
この教化総動員を打ち出すにあたって,文部官僚の危機感は,思想国難,経済困難として表現されている。
教化総動員は,田中内閣に変わって,1929(昭和4)年7月に成立した浜口民政党内閣の施政方針にしたがうことになった。
それは、
一方で,共産党以下反体制運動を抑圧し,
他方で,金融恐慌後の経済危機を克服しようとする,
資本の産業合理化を支援する経済緊縮政策を援助するために,
政府(権力)の支配下にある全官僚・団体の機構を総動員して展開した一大教化運動であった。
★1928年に、文部省内に学生課(後の1934年の「思想局」の前身)を設置し、組織的に学生の思想を取り締まった。
その業務は:
「一 内外における社会思想の調査研究に関すること」
「二 学生生徒の思想の調査研究に関すること」
「三 学生生徒の思想的運動に関すること」
「四 その他、思想問題に関する調査研究に関すること」
であった。
1929年3月:国会議員の山本宣治(死後に共産党員に加えられる)が、国会で思想善導(「青少年健全育成」に対応する)について質問した後の3月5日に暗殺された。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。
また、戦後の日本政府は、(弾圧した国民の復讐を恐れ)、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした。
(1945年10月4日、GHQから治安維持法の廃止を要求された東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した)
しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。)
第2の思想弾圧事件(4.16事件)
★1929 S(4)4.16事件
・3.15の思想弾圧後に再度、全国規模で全国一斉検挙 700名検挙
報道禁止されていた
・知識階級の子弟が多く支配者層はショック
・共産党にとっては壊滅的な打撃 活動は以後地下にもぐる
・日本軍の山東出兵反対運動主流派逮捕される
・1929.11.5 新聞報道を解除し「共産党事件」と発表
・幹部党員には無期懲役などの重い刑
1929年に、文部省内の学生課を学生部に昇格させ(後の1934年の「思想局」の前身)、学生の思想の取り締まりを強化した。
1930年:世界恐慌(1929)の影響により、日本が「昭和恐慌」に入り経済が危機的状況に陥る。
1931(昭和6)年:満州事変
第3の思想弾圧事件(司法官赤化事件)
1932年:司法官赤化事件:
1932年11月12日、東京地方裁判所の判事・尾崎陞が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁の書記4人とともに逮捕された。
翌1933年2月から3月にかけては
長崎地方裁判所の判事と雇員各1人、
札幌地方裁判所の判事1人、
山形地方裁判所鶴岡支部の判事と書記各1人
も相次いで逮捕された。
逮捕された9人の容疑内容はいずれも
「研究会を開いた」
「カンパに応じた」
「連絡を取り合った」
などの行為だったが、
日本共産党の目的遂行のためにおこなった行為とみなされ、全員が有罪判決を受けた。
(これらの行為は、政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を罰する治安維持法の逮捕要件を満足する)
これらは、共謀罪の逮捕要件 を、満足する。
第4の思想弾圧事件((長野県と)全国教員赤化事件)
1933年 2月4日:
長野県で教員が思想問題で多数(66校、230名)検挙される(長野県教員赤化事件)。
この事件を契機に、全国各地で同様の弾圧が行なわれ、1933年12月までに岩手県、福島県、香川県、群馬県、茨城県、福岡県、青森県、兵庫県、熊本県、沖縄県で多数の教員が検挙された。
第5の思想弾圧事件(滝川事件)
1933年:滝川事件
1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こった。
この事件をきっかけに、5月26日、文部省は文官分限令により京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の休職処分を強行した。
滝川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示した。
この様に、日本の戦前には、共謀を罪に定める共謀罪が猛威を振るっていました。
以上の共謀罪の猛威の例はほんの一部の抜粋です。詳しくは、日本の治安維持法の歴史を自分で調べて学んでください。
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