2015年12月27日日曜日

沖縄は日本本土では唯一戦場となった(沖縄以外は空襲のみ)

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第46回 沖縄戦と和平へ向けて

 三年九か月余りにわたった太平洋戦争で、沖縄は日本本土では唯一戦場となった島でした。
それは、海軍部隊の指揮官大田実少将が打った有名な電報、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。
この言葉に象徴されているように、
沖縄戦の特徴は、
第一に、島民が軍の指揮下に置かれて戦闘に組み込まれ、軍民一致で行なわれたこと。
第二に、軍と島民が混在している沖縄南部が戦場になったため、多くの住民を巻き添えにした「悲劇の島」となったことでした。

 日本国内で住民を共にした最初で最後の戦闘は、昭和二十年六月下旬、三か月間の攻防で終わりましたが、日本側の戦死者は沖縄県教育委員会編纂の「沖縄県史」によると、約十八万八千人となっています。そのうち本来の日本軍は六万六 千人弱。兵力不足を補うため、満十七歳から四十五歳までの県民男子を防衛召集 しましたが、この島民義勇兵と弾丸や糧秣運搬などに当たった戦闘協力者が二万八千人余り。さらに一般島民にも九万四千人の死者を出したのですから、島民の犠牲者は実に六五%を占めたことになります。

 とにかく、戦える者は全て軍に所属させられたのです。最年少は十三歳、中学の一年生です。沖縄師範や県立一中など中学上級生の「鉄血勤王隊」は、 ある者は兵士として敵陣に斬り込みましたし、ある者は伝令、通信の任務に当たりました。「ひめゆり部隊」の名前で知られる女学生も、看護婦として従軍しました。そして「鉄血勤王隊」で千五十一人、「ひめゆり部隊」などに三百六十八人の戦死者を出したのです。まさに、島ぐるみで軍と共に戦った島、それが沖縄でした。

 南の平和な島だった沖縄が、「戦場の島」へと模様替えしていったのは、戦局が悪化した昭和十九年に入ってからです。三月二十二日、南西諸島防衛のため新たに第三十二軍を編成して、独立混成二個旅団を配置することにしましたが、九州から輸送途中に潜水艦攻撃を受け、主力が水没してしまいました。そこへ六月十五日、米軍のサイパン島上陸です。大本営は、次に進攻が予想される沖縄の防衛強化に迫られ、急遽満州から第九師団と第二十八師団、戦車第二十七連隊を第三十二軍に編入したのです。そして、五十七万の沖縄島民をどうやって戦火から守るか、ことに老幼婦女子の疎開問題が緊急の課題となってきました。

 日本陸軍は明治十年の西南戦争以後、国土での戦いを経験したことがありません。また日清、日露戦争以来、満州、中国大陸と、常に外地で戦ってきましたから、一般住民の住んでいる所で戦う国土戦の研究もしてきませんでした。ところがサイパンでは、島民の島外引き揚げが遅れたため、住民を巻き込んだ「玉砕の島」になりつつあります。大本営はサイパン奪回作戦の指揮官として、満州の関東軍から勇猛で知られる長勇少将を東京に呼び寄せていたのですが、奪回が不可能になりました。そこで七月一日、その長を沖縄に派遣し、遅蒔きながら非戦闘員の疎開について研究を命じたのです。サイパンが陥落した七月七日、政府は緊急閣議で、長の視察報告に基づき沖縄の集団疎開を決定しましたが、長も翌日八日付で中将に昇進、第三十二軍参謀長に任命されて、島民疎開を推進することになります。

 何よりも急がなければならないのが、二十九万の老幼婦女子でした。軍が県と協議した結果、約三分の一、十万人を疎開可能者と見て、軍隊や軍需品を送ってきた輸送船の帰りを利用し、主力を九州に、一部を台湾に送ることにしました。九州各県の受け入れ先も決まり、警察が中心となって疎開の趣旨を伝え、説得に努めたのですが、まだ戦場気分とは遠い当時の沖縄のことです。縁故でもあればともかく、幼い子供や年寄を未知の土地へ送る心配、生活不安や郷土への愛着も あって、なかなか疎開に踏み切れないというのが実情だったのてす。

 県と市町村では、まず職員の家族を率先疎開させて、疎開機運を盛り上げましたし、長齢課長も『軍が自由に戦えるには、早く疎開してもらうことだ』と講演して回りました。こうして七月二十一日、第一次疎開七百五十二人を鹿児島に送ったのを皮切りに、本格的な島外疎開か始まったのです。ところが8月22日の夜、疎開船「対馬丸」が潜水艦に撃沈され1500人の犠牲者を出してしまいました。疎開気運は一時冷え込みましたが、これを再び急速に盛り上げることになったのが、10月七10の沖縄空襲です。艦載機千四百機の集中攻撃で那覇の市街地は九割が焼失し、死傷者も785人を数えました。結局、米軍上陸までに延べ百八十七隻の船で本土に六万、台湾に二万人と計画の八割、学童疎開も宮崎、大分、熊本の三県に七千人を送ることが出来たのです。

 この間、大本営も沖縄の防備強化を急ぎました。満州の第二七四師団、北支の第六十二師団が新たに編入され、第三十二軍は一挙に四個師団、五個独立混成旅団の大作戦軍です。軍司令官には八月八日付で牛島満中将が任命され、沖縄戦の軍首脳部が揃いました。牛島は予科上官学校や士官学校長を務め、もの静かな中にも薩摩人らしく泰然とした性格。長参謀長の方は、若い頃、随筆急進派の『桜会』結成に参加し、昭和六年の「十月事件」、満州事変に呼応して陸軍政権を樹立しようとしたクーデター計画ですが、首相官邸への斬り込み隊長、さらには事件後の警視総監候補に挙げられたほど、良くも悪くも積極果敢な将軍です。実質的に作戦計画を取り仕切る高級参謀の八原博通大佐は、同期生の中で最も早く陸軍大学校を、それも恩賜の軍刀で卒業してアメリカに留学し、合理性と慎重さを重んじる秀才でした。

 第三十二軍は、宮古島、石垣島など先島諸島に一個師団を配置し、沖縄本島は三個師団で守ることにしていました。ところが昭和19年10月20日、来軍がレイテ島に上陸して来ると、大本営は急速「レイテ決戦」に切り替え、台湾の第十方面軍から二個師団をフィリピンに送り込んだのですが、その補充を第三十二軍に命じてきて、精鋭で知られる金沢の第九師団を台湾に引き抜かれてしまったのです。これは、参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐の致命的な判断ミスだった、と言ってもいいでしょう。米軍が沖縄に航空基地を確保すれば、九州だけでなく、中国、四国を戦闘機の行動範囲とすることが出来ます。ですから、本土進攻を急ぐ米軍の次の進攻目標は、台湾ではなく沖縄であり、沖縄の兵力を減らしてはいけなかったのです。

 一度は、姫路の第八十四師団を沖縄に派遣すると電報してきましたか、一夜のヌカ喜びでした。作戦部長が本土決戦論者の宮崎周一中将に代わり、「海上輸送の危険を知りながら、一兵たりとも必要な本土の防衛力を、みすみす水没の犠牲にするわけにはいかない」。この宮崎の判断で、翌日には取り消されてしまったのです。これが、第32軍に上級司令部に対する不信感を生みました。大体が編成当初は大本営直轄だったのに、九州担当の西部軍、さらには台湾の第十方面軍指揮下と目まぐるしく変わりましたから、戦闘に突入してから上級司令部との意思不統一の一因にもなっていきます。

 第32軍は、長期持久の地上戦記体作戦に切り替えることにしました。沖縄本島は、ところどころ半島が突き出ていますが、真ん中がくびれたヒョウタン型の細長い島で、長さは100kmちょっと。幅は一番狭いところで3km。、大体が10kmほどです。くびれた部分から北は森林山岳地帯で、ここには敵も来ないし、戦場にもなりません。南半分は比較的平坦で、飛行場や那覇、首里などの市街地もあって人口が集中しており、当然この南半分が戦場になるわけです。

 そこで12月中旬、「南西諸島警備要領」を作成し、残った住民を島の北部へ遊離させる方針を打ち出したのです。まず、戦闘能力、作業能力のある者は挙げて戦闘準備および戦闘に参加する。六十歳以上の老人と国民学校以下の児童、これを世話する女子は、20年3月末までに北部へ避難し、各部隊は自動嘸や舟艇で援助する。その外の住民で、直接戦闘に参加しない者は、戦闘準備作業や農耕など生業に従事し、敵の上陸直前、急速に北部に避難する。県知事は北部に避難する島民のために食糧を集積し、居住設庸を設ける。こういった内容で、沖縄県もさっそく避難計画に着手しましたが、県庁や那覇市の幹部には、何かと口実を設けては本土へ逃げ出す者か後を断たなかったのです。第一、泉守紀知事自身が12月13日、「戦時災害復旧対策の諸問題解決のため」と称して上京し、そのまま帰ってきませんでした。明らかな逃亡でしたが、うまく取り入ったのか内務省は表ざたにせず、香川県知事に任命しています。

 代わって沖縄県知事に任命されたのが、大阪府内政部長の島田叡でした。主に警察畑を歩んだ人で、当時44歳。もうこの時期、沖縄に行くと云うことは死にに行くのも同然でしたが、まさに決死の覚悟を行動で示した素晴らしい人でした。昭和20年1月31日に着任すると、さっそく北部国頭地方の避難者受け入れ予定地区を見て回り、精力的に戦時行政態勢の整備に着手したのです。二月七日から連日部課長会議を開いて、食糧確保、避難計画の具体的実行策を次々と決定していきましたが、県庁内のたるんだ空気は一変したと言われます。県は中南部の四万人を二月中に、六万人を三月末までに国頭地区に立退かせることにして、十一日から部落や隣組の常会を開いて徹底させました。島田は内政部に人ロ課を新設して避難業務専門に当たらせ、食糧対策としては貯蔵米や薩摩芋を受け入れ人数に応じて各町村に分散輸送すること、また名護に建設本部を置いて避難小屋の建設を急がせました。こうして北部への避難が、初めて県から市町村、さらには部落へと、組織的に大規模に実施されることになったのです。

 それでも現実には、急に避難を指示されたからといって、家財の整理や持ち物の準備もあって、簡単に移動できるものでもありません。一二月中旬までの北部遊離は三万人に止まっていましたが、島民が米軍上陸は近い、避難を急がねぱと実感するようになったのは、三月二十三日に敵艦載機が来襲し、翌日から猛烈な艦砲射撃が始まってからです。島田は二十五日、県庁を首里城の地下壕へ移し、職員に戦場行政に挺進するよう指示しました。人口課の職員は、それこそ雨のように降ってくる砲弾をかいくぐって避難督励に駆け回りましたし、食糧配給課の職員も夜通しで食糧の分散輸送に当たったのです。北へ向かう道路は避難民であふれ、軍の行動に支障が出てきて、第32軍が31日、北部への移動停止命令を出したほどでしたが、艦砲射撃が始まってから5万人が避難し、米軍上陸までに計画の8割が何とか北部へ避難したことになります。

 一個師団を引き抜かれた第32軍は、1月26日、最終的な陣地配備の変更をして、主力を首里北方の丘陵地帯に集めました。それより北には読谷に北飛行場、嘉手納に中飛行場がありますが、平地の飛行場確保にこだわっていると、いたずらに犠牲を大きくするだけで、両飛行場は最初から放棄する。これが八原高級参謀の考えでした。首里は那覇から東に4kmほど入った海抜100mの台地にあり、かっては琉球王朝の首都として栄えた城下町です。地下三一十にに全長二~と四々。の地下トンネルを作って軍司令部を置き、前面には三重の堅固な防衛陣地を築いたのです。ここに米軍をここに引っ張り込んで、長期持久の戦いを挑もうというわけです。

 八原が米軍の猛烈な砲爆撃対策として、最も重視したのか築城工事でした。沖縄には至る所に洞窟があり、大きいものは千人も入れます。それをトンネルでつないで堅固な洞窟陣地を作ったのですが、トンネルの総延長は100kmにも達したと言われます。この間、県民男子の防衛召集が行なわれ、二月十九日には中学校単位の防衛隊も組織されました。総員千六百八十五人、『鉄血勤王隊』と命名されましたが、みんな「明けても暮れても、掘って掘りまくった」と話しています。前沖縄県知事の大田昌秀さんも師範在学中に「鉄血勤王隊員」として戦った一人ですが、非常呼集を受けて首里城の地下壕に入ると、任務は軍司令部の情報伝達でした。各部隊に戦況を知らせたり、地元新聞の『沖縄新報』を配ったりしたのですが、情報に飢えている一般島民や末端の兵士には非常に喜ばれたそうです。

 師範女予部や女学校の生徒たち543人も動員されて、看護婦の訓練を受けていましたが、三月二十五日、「南風原の陸軍病院に集合せよ」の命令で入隊しました。師範と県立第一高女の校章が共に白百合で、校友雑誌の名前が師範が 「しらゆり」、第一高女が「おとひめ」だったことから、それを合わせて「ひめゆり部隊」と命名されたのです。

 海軍は小禄に航空基地を作っていましたが、沖縄島連合陸戦隊司令官の大日実少将が着任したのは一月二十日でした。大田は昭和七年の上海事変で上海特別陸戦隊の大隊長、その後も佐世保の海兵団長など、言わば海軍陸戦隊と共に歩んで来た人です。その大田を驚かせたのが、隊員は八千人を数えていても、3分の2が航空隊や基地の設営隊員で実戦経験かないこと。しかも肝心の兵器も、小銃が隊員の三分の一程度しかなく、後は竹槍と空缶に火薬を請めた手製の手榴弾と、まことに心細いものだったのです。どん底に落ちていた当時の日本の国力、戦力の実情を端的に物語るものでしたが、陸軍六万七千はともかくとして、島民義勇兵二万五千の兵器も同じようなものです。十五歳で参加した少年義勇兵は、「自分たちの島は自分たちで守るのだ」と言われ爆薬を渡されましたが、その重さが10kgもあって、少年の体力では2mしか投げられません。『自爆しろと言っているに等しかった』と話しています。

 米軍の沖縄作戦は3月26日、沖縄本島の西にある慶良間列島上陸から始まりました。艦船1317隻、艦載機1727機、動員兵力四十五万という大部隊です。それでも力押しはせずに、本島への上陸前に、まず艦隊の給油や補給に当たる船舶の停泊基地、水上機基地を確保しておこうという用意周到な作戦でした。狭い島で砲火に追われた島民は、逃げ場もなく悲惨でした。座間味島で百七十二人、渡嘉敷島で三百五十人が集団自決したのです。『捕虜にだけはなりたくない』と、互いにこん棒で打ち合ったり、鍬(くわ)で頭を叩き剖ったりしたといいますが、それからの沖縄戦を象徴する悲しい出来事でした。

 四月一日の朝、千数百隻の上陸用舟艇が嘉手納海岸に殺到し、最前線基地の第一報は「只今九時十分、本島西海岸一帯は米軍舟艇のために海の色が見えない」と伝えています。米軍の方は、予期していた日本軍のバンザイ突撃もなく、「エイプリル・フールか」。こんな声も出たほど、二十八入の戦死者を出しただけで、その日のうちに北、中飛行場を占領し、五万人が上陸を終えたのです。しかし、これは32軍にとっては予定の行動でした。後はじりじり後退を続けながら、米軍が首里北方の防御陣地に南下してくるのを待てばよかったのです。ところが上級司令部には、これが消極的、兵力温存主義だと映りました。大体が沖縄戦の位置付けについて、大本営そのものが揺れていたのです。参謀本部の本音は「本土決戦準備のための時間稼ぎ、玉砕もやむを得ない」だったのに、海軍の方は七日に戦艦「大和」を特攻出撃させたことでも分かるように、「航空決戦に寄与する攻勢決戦。沖縄戦で有利な態勢が出来ば、これを契機に和議に踏み出すことも出来るし、国民の結集も図れる」。そう考えていたのです。

 第32軍に対する攻撃督促の干渉は、四月二日から始まりました。まず連合艦隊司令部が「ここ十日間、敵の飛行場使用を封ずるため、主力を以て当面の敵主力に対し攻勢を採られんこを熱望する次第なり」。こう・電報して来ると、3日に台湾の第十方面軍、4日には参謀本部も参謀次長名で飛行場制圧を要望してきたのです。こうなると、軍司令部内の空気も微妙に変化してきました。もともとが積極攻勢論者の長参謀長です。八原大佐の反対を押し切り、二回の攻撃を決行しましたが、圧倒的な米軍火力の前に半数の死傷者を出して、失敗に終わったのです。

 首里戦線に対する米軍の総攻撃は、四月十五日から猛烈な砲爆撃で始まりました。19日朝には、40分間に19000発の砲弾が撃ち込まれ、その後は延べ六百五十機の艦載機がナパーム弾を投下、海からは十八隻の戦艦、巡洋艦の艦砲射撃です。それでも軍司令部の地下壕は、びくともしません。大型の砲爆弾にグラグラ揺れる程度で、中型以下のものはポンポン跳ね返しました。ただ洞窟生活の苦痛は、太陽がないこと、空気の流通が悪く湿度が頁%近いことです。米軍の砲撃は、食事をとるためか、朝夕六時と七時の間はバッタリ止まるので、それとばかりに外へ出て思いっ切り空気を吸ったのだそうです。米軍が前進してくると、洞窟内に隠していた野戦重砲を引き出して砲撃、すぐまた洞疸内に戻して、上空を飛び回る敵機の目をくらまします。手を焼いた米軍は、最新式の聴音機を前線に送り込んで、洞窟陣地を1つずつ爆破し、一日あるいはこ日がかりで、やっと一つの丘を占領するといった戦闘が続いたのです。

 しかし、正面を守る第六十二師団が戦力の半分を失うと、第三十二軍首脳部にも焦りが出てきました。出来るだけ長く粘ろうとする持久戦略を捨て、五月四日の未明を期して総攻撃を決行することになったのです。八原大佐が反対すると、牛島軍司令官に呼ばれて
「貴官は攻勢の話が出るたぴに反対するか、すでに軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、攻勢の気勢を殺ぐことのないように」。
八原が牛島から注意されたのは、後にも完にもこの時一回だけでしたが、八原は「今回の攻撃は、無意味な自殺攻撃に過ぎぬと断言致します。しかし、すでに閣下が決心されたことであり、職責に鑑み全力を尽くす考えです」と答えたのだそうです。


 総攻撃は午前四時五十分、砲兵部隊の砲撃で始まりましたが、正面から力で押す戦法は、火力が段違いの米軍には通用しません。七下の死傷者を出して失敗に終わり、砲兵部隊も大砲の半分が破壊されてしまったのです。砲弾は一日一門十発に制限しても、五月いっぱい持つかどうかです。牛島は五日午後六時に攻撃中止命令を出しましたか、八原にこう言ったといいます。「貴官の判断は正しかった。東京を出発する際、陸軍大臣も参謀総長も、玉砕をするなと固く申し付けられた。軍の主力は消耗してしまったが、最後の一人まで戦い続ける覚悟である。今後は一切を任せる。思う存分自由にやってくれ」。八原が考えたのは、本島の南端、東西8km、南北4kmの喜屋武半島に新しい陣地を築いて、ここに軍の主力を移して戦うことでした。

 5月21日には首里の最後の防衛線である東西の丘が奪われ、牛島軍司令官も22日、喜屋武半島への後退を決意します。問題は、首里戦線の背後にいる十二万の避難民が、この退却戦に巻き込まれれば、どんな混乱になるか。しかも南部局尻地区の住民十四万が、新たな戦場に放りこまれることになるのです。そこで第三十二軍は、守備部隊を置いてない東側の知念半島、つまり戦場になる心配のない知念地区を避難地に指定し、ここに残してあった軍の食糧や衣服なども使っていいと、自由使用を許可しました。各部隊や『鉄血勤王隊』を通じて伝えましたが、混乱する戦場の中ではなかなか徹底しません。しかも、軍自体が撤退作戦に忙殺され、県側がこの方針を知ったのは、二十九日の軍との連絡会議の席でしたから、余りにも遅過ぎました。

 沖縄の梅雨は、5月11日から始まっていました。降りしきる雨の中、五万の将兵は二十七日夕方から五梯団に分かれて首里を後にしましたが、軍司令部が立て籠もるのは喜屋武半島南端の摩文仁の洞窟です。軍も県も、どんどん南下して来る避難民を何とか知念半島に誘導しようと、「東へ向かえ」と指示しましたが、軍隊と離れることに不安を感じる避難民の耳には入りません。数メートル先も見えない暗闇の中、天秤棒に食べ物や鍋、釜を吊るし、子供を背負い手を引く母親。杖にすがる老人。みんな、泥田のような道をひたすら歩き続けました。夜は照明弾に身を伏せ、昼は木陰や洞窟に隠れました。洞窟を見つけても、兵隊から『ここは陣地になる。お前たちはもっと後ろに不がれ』と追い出されます。しかも何とか洞窟に入っても、同じ洞窟に長く留まることは許されません。洞窟はどんなものでも、米軍の攻撃対象になったのです。

 この間、24日夜には陸軍の義烈空挺隊か熊本を飛び立ち、沖縄に突入しました。97式重爆撃機に搭乗員二人のほか戦闘員十二人が乗り込み、北、中飛行場に胴体着陸させて、機関銃、手榴弾、爆薬で攻撃しようというのです。隊長の奥山道郎大尉は二十六歳、母親に宛てた遺書に「絶好の死場所を与えられた私は日本一の幸福者であります」と書き残しています。四機が航路を誤って引き返し、夜十時過ぎに8機が突入しましたか、対空砲火で七機が撃墜され、北飛行場への強行着陸に成功したのは一機だけでした。それでも九機を破壊炎上、二十九磯に損傷を与え、飛行場は七万ガロンのガソリン炎上で翌朝まで使用不能です。一入が敵中を突破して奇跡的に生還しましたが、奥山大尉以下百十一人が戦死しました。大本営は二十五日、「敵を混乱に陥らしめ、大なる戦果を収めつつあり」と発表しましたが、喜屋武半島への撤退を急ぐ日本軍には、これに呼応して反撃する力はもう残っていなかったのです。

 作家の高見順は、六月四日の日記に「沖縄の窮迫化を新聞は伝えている。那覇市内、首里城址に敵は侵入したという。沖縄も駄目なのだろうか。沖縄が敵の手に落ちたらどうなるのだろう」。こう書いていますが、米軍はその四日朝、海軍部隊が守る小禄地区にも上陸して来ました。大田実少将は六日夕刻、「戦況切迫セリ」と、最後の戦況報告を大本営に打電、その際「身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は」の辞世を添えています。そしてその夜、海軍次官宛てに電報を発信したのです。『こう云うことは、本来県知事か第三十二軍司令部が報告すべきことだろうが、その余力がないようなので代わって知らせる」と断った一文です。

 大田には、島民が軍に協力して涙ぐましいほど戦った姿が、焼き付いていたのでしょう。
「本職ノ知レル範囲二於テハ
県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集二捧ゲ
残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋卜財産ノ全部ヲ焼却セラレ
風雨二曝サレツツ乏シキ生活二甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ゲ
看護炊事ハモトヨリ
砲弾運ビ
挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ
看護婦二至リテハ軍移動二際シ衛生兵既二出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ沈着二行動」
と、その模様を詳しく報告した上で、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
と結んだのです。
大田が、自力で行動できる者は脱出するよう命じてピストル自決したのは、十三日午前一時。五十四歳でした。


 大田は、20歳を順に四男七女の父親でした。夫人の実家を継いで「落合姓」になった三男の吸さんは当時六歳、海上自衛隊に入って、平成三年の湾岸戦争では湾岸派遣掃海部隊の指揮官を務めました。大田が沖縄着任三か月後に生まれた末っ子、つまり十一番目の豊さんも自衛隊に入り、父親が戦った沖縄基地隊の司令を務めています。四女の昭子さんはニュージーランドに住み、自衛隊の練習艦隊がニュージーランドを訪問するたびに歓迎して、平成十二年に瑞宝章を贈られていますが、まさに海軍一家でした。

 米軍の喜屋武半島総攻撃は六月九日から始まり、日本軍の最期が迫りつつありました。首里を撤退した時五万を数えた兵力も、新しい戦線で掌握できたのは三万に過ぎません。しかも小銃を持たない者も多く、あとは竹槍に爆雷、大砲も数門しかないのです。米軍の上陸部隊指揮官、第十軍司令官のバックナー中将からは降伏勤告文が届きました。「歩兵戦術の大家である牛島将軍よ、予もまた歩兵出身の指揮官である」。こうい書き出しで始まり、孤立無援、劣勢な兵力で善戦したことを称賛し、「さりながら戦勢は決した」として、十二日に摩文仁海岸の軍艦に軍使を待機させるから、軍使五人を選んで白旗を持たせて来いというのです。十二日を期限とした降伏勧告文か、第一線の手を経て牛島に届いたのは十五日になってからでしたか、牛島は「いつの間にかオレも歩兵戦術の大家になったなあ」と破顔一笑したといいます。そして運命の皮肉というのか、そのバックナー中将は十八日、前線で指揮をとっていて戦死したのです。

 十七日には、最後の軍司令官命令が出ました。勇戦敢闘実に三ヵ月、その任務は完遂したとして、「今や戦線錯綜し、通信もまた杜絶(とぜつ)し、予の指揮は不可能となれり、自今、諸子はおのおのその陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のために最後まで敢闘せよ。さらば!この命令が最後なり」。第三十二軍の祖織的な戦闘の終了宣言でしたが、十八日からは「遊撃戦、ゲリラ戦の指揮に当たる」ということで、参謀たちの脱出が始まりました。行動は各人各個、随行者として「鉄血勤王隊」の少年二人ずつを連れ、背広に変装して剣道教師など偽りの職名も用意しました。

 牛島は、助けられる者は一人でも多く助けたかったのでしょう。一一十日朝、米軍戦車が摩文仁高地に迫ってくると、司令部の将兵に「北、中飛行場地区に潜入し、敵航空部隊の攻撃に任ずべし」とか、次々と理由をつけて出撃命令を出したのです。それぞれ『適当に落ちのびよ』ということでした。八原大佐には「大本営に報告せよ」の命令が与えられましたが、長参謀長が「一気呵成は禁物だぞ。一日かかるところは三日かかってやれ。お前に起死回生の妙薬をやる」と六神丸のような薬と、「先立つものは金だから」と五回円札を五枚渡します。八原は手記に、「ああ、泣けてくる」と書いています。

 牛島は二十日付で大将に昇進しましたが、自決は二十三日未明、洞窟出口で行なわれることになりました。長が「切腹の順序はどうしましょう。私が先に失礼して、あの世のご案内をしましようか」と言うと、牛島は「わが輩が先だよ」。長も「閣下は極楽行き、私は地獄行きだから、お先に失礼してもご案内はできませんね。キング’オブ・キングスでも飲みなから時間を待ちましょう』と笑います。長は「義勇奉公忠則尽命」と墨で大書した白ワイシャツ姿になり、「八原、後学のために予の最期を見ておけ」と言って、腹を切ったそうです。牛島の辞世は 「秋侍たで枯れゆく島の冑草もみ国の巻によみがへらなむ」。長の辞世は『醜敵締帯す南西の地荒磯空に満ち飽海を圧す敢闘九旬一夢の裡万骨枯れ尽くして天外に走る」でした。

 八原は二十四日夜、背広に着替えて洞窟を抜け出しましたが、避難民五、六十人が潜んでいる洞窟を見つけ、しばらく、ここで気力、体力を養うことにしました。ところが二十六日朝、米兵が「デテコイ!カムオン!」と威嚇射撃しながら近付いてきます。このままでは皆殺しになると思い、避難民に「諸君が賛成なら、英語を話せる自分か米軍と交渉しよう」。こう呼び掛けても、なぶり殺しにされると全員が難色を示します。八原は「大丈夫だ、私の云う通りにしなさい」と言って、洞窟入りロに立っていた米兵に「この洞窟には数十人の老幼男女が避難している。今から自分が皆を連れて出て行くから撃たないでほしい」。米兵の「OK、一切の武器を捨てて出てこい」の答えに、全員が無事収容所に収容されたのです。八原は米軍の作業に従事しながら、脱出の機会をうかかっていましたが、米軍に協力して難民か軍人かを識別する調査係に、県庁の課長や日水軍の将校もいます。事情を話せば味方になってくれるだろうと、その課長に身分を明かしたところ、たちまち米軍に通報され、今度は捕虜としての収容です。もっともそのお陰で、八原は翌年の二十一年一月に浦賀に送還され、郷里の米子で服地の行商をしながら生計を立て、昭和五十六年に七十八歳で亡くなっています。

 「ひめゆり部隊」三十九人の悲劇的な最期は、洞窟の中でした。6月18日の夜、師範女子部に解散命令か出て、ひとまず喜屋武半島南端の糸洲の陸軍病院分室に集まることになりました。第一外科、第二外科は無事到着したのですが、第三外科の四十三人が学生服に着替えて、「海行かぱ」を歌い終え、まさに洞窟を出ようとした時です。米軍の攻撃が始まり、戦死あるいは自決して、助かったのは四人だけでした。この糸満市真壁の洞窟か、いま「ひめゆりの塔」の建っている所です。

 島田知事の最期は、分かっていません。15日の夜、糸満の鍾乳洞に県職員を集めて、「県の活動を停止し、行動の自由を認める」と言い渡すと、摩文仁の軍司令部の壕に移っています。毎日新聞沖縄支局長の野村勇三が、北部に脱出しようとして別れを告げると、島田は「薬もあるし、短銃も時っている。だが、こんな洞窟に自分の死体をさらしたくない」。野村が投降を勧めても、「県民にこれだけの犠牲を出しては生きておれまい」と言ったそうです。県庁職員も四百五十八入が殉職していました。遺体が発見されていないことから、入水自殺したと見られていますが、島民の犠牲を最小限に食い止めようとした島田の努力は、沖縄の人たちが誰よりもよく知っていました。昭和二十六年、島民にの手により摩文仁岳に『島守の塔』が建てられたのです。

 大本営は六月二十五日、「沖縄方面戦場の我官民は敵上陸以来島田叡知事を中核とし挙げて軍と一体となり皇国護持のため終始敢闘せり」。日本軍の組織的戦闘の終結を発表しましたが、知念半島への住民避難がスムーズにいっていたら、庄民の犠牲はもっと少なくすんだはずでした。本来なら、首里から南の避難地は 「戦闘が始まったら知念だ」と、最初から決めておくべきだったのです。せめて牛島軍司令官が喜屋武半島への撤退を決意した5月22日、真っ先に県に連絡していたら、島田が当時掌握していた四百人の警察官により、避難指示はもっと徹底していたでしょう。軍と避難民の南下が同時に行なわれたら、どんな混乱になるのか。そこを支配するのは戦場心理、群衆心理なのです。指令を聞いて一旦は知念に向かった人も、米軍が追っているのを知ると、怖じけづいてまた戻って来てしまいました。軍隊と離れるのを恐れ、軍と共に米軍の集中砲撃を浴びる結果になってしまったのです。

 米軍の作戦予定期間は四十日でした。それに対して第三十二軍は、圧倒的な戦力の違いの中で八十六日間の長期持久戦に耐え、しかも多大の損害を与えたのです。米軍の戦死は陸上部隊七千三百七十四、水ヒ部隊四千九百七と計一万二千二百八十一人です。水上部隊の戦死者は、大半が航空機の特攻攻撃によるものでしたか、負傷者も陸上部隊で五5八千ト八、水士部隊に六千三白四人も出しています。これか、米軍の本土進攻作戦を慎重にさせることになるのです。

 トルーマン大統領は沖縄戦のメドかついた六月十八日、陸海軍首脳部を集めて対日進攻作戦を検討しました。11月1日の九州上陸作戦を主張したのはマーシャル参謀長です。「空襲だけで日本を屈伏させるのは無理であり、最後の勝利は陸上部隊によって得られる」と言うのです。しかし、米軍首脳の頭には、随黄島に続いて、沖繩でも苦戦を強いられていることかこびりついていました。リーヒ大統領付幕僚長が、「沖縄戦なみ、九州上陸作戦に要する全兵力七十六万余りの三五%、二十七万人の損害を覚悟すべきだ」。こう指摘すると、マーシャルは『戦争には手軽で血を流さない勝利の道はあり得ない。これは憂欝な事実である』と答えたそうです。

 結局トルーマンは二十九日、暗号名「オリンピック」と名付けられた十一月一日の九州作戦を承認したのです。ある意味では、この損害見積もりの多さが、アメリカ政府酢脳を慎重にさせ、ソ連参戦、さらには原爆投Fの必要性を再・認識させた。こう言っても、いいのかも知れません。そして日本としては、とりあえずは一息つく貴重な時間か得られたのですから、終戦工作を急がなければいけなかったのです。

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 『伝単』と聞いて、戦争を経験された方ならすぐ、「ああ戦争末期、空から降ってきた米軍の宣伝ビラだ」と思い出されるでしょう。米軍は日本に対する心理作戦の武器として、この「紙の爆弾」を大量に使ったのです。昭和20年2月16日、関東・東海地方に投下したのを皮切りに、終戦まで実に四百五十八万枚もばら撒かれています。内容は、日本の軍閥非難や空襲の予告、あるいは戦争の実情を知らせるものなど様々で、『中身は見るな、拾った者はすぐ憲兵、警察に届けろ』。こんな厳しいお達しが出ましたが、何しろ私たちの知らないことがいっぱい書いてあります。私なんかも、動労動員先で仲間と秘かに回し読みしたものでした。高山市は敗戦間近の八月一日夜、最後の空襲被害を受けた街ですが、朝から「富山が今夜やられる」という噂がどこからともなく流れ、異様にざわついていたそうです。四、五日前に、黒地に白い大きな文字で「空襲予告」、その下に『この都市が米空軍の次の攻撃目標です』。こう書いたピラが撒かれ、不安を感じた人たちが手回しよく、大八車に家財を積んで避難を始めたのだというのですが、予告通りになったわけです。


 そんな「伝単」の中に、「アメリカの声」と題する、サイパン島の米軍ラジオ放送の放送時間帯と周波数を知らせるピラがありました。そして、その放送は五月に入ってから「日本の運命に重大な問題について、特別連続放送を行なう」と、繰り返し伝えていたのです。第一回放送は五月八日でしたが、「大銃眼の公式スポークスマン」と名乗るエリス・ザカリアス海軍大佐は、こう話し出しました。「私が選ばれたのは、日本にとって、このワシントンにとっても、平和そのものであったあの二十年間というもの、私が終始日本の人たちとは友人であったばかりか、現在はあなた方の祖国を蔽い始めたこの破局を食い止めるべく、私が全力を尽くしてきたからであります」。そしてカザリアスは、親しい友人として海軍大臣米内光政の名前を挙げ、「米内大将は、将校の時代に語学生として行っていたロシアから臍ってのち、私と交わした会話の数々を思い起こしていることでしょう』と付け加えたのです。

 大正十一年にワシントンで海軍軍縮会議が聞かれた時、当時中佐で軍令部勤務の米内の担当は、米英がどんな案を出してくるのか、それを探ることでした。そこで、東京駐在の米英の海軍武官を新橋の待合に招いたり招かれたりして、情報交換をしたのですが、その時、毎晩のように顔を合わせたのが、・語学生という触れ込みの情報将校ザカリアス少佐だったのです。戦時情報局の心理戦争課長になっていたザカリアスが、この放送に踏み切る決意をしたのは、四月十二日にルーズベルト大統領が亡くなった際、鈴木賃太郎首相が同盟通信を通じてアメリカ国民に深甚な弔慰を表明したことでした。ザカリアスは、一サムライの心一を感じたと言っています。来日時氏、当時軍令部長をしていた鈴木の話をしばしば聞く機会があり、人柄にも感銘を受けていましたから、’「連合国劇がある種の満足できる条件さえ認めれば、『最後の一兵まで』という軍の豪語とは関係なく、鈴木の指導のもとに日本は武器を捨てるのではないか。今こそ、日本に対して心理戦争を開始すべき時機か熟した」。そう判断したというのです。

 心中秘かに「終戦」を決意していた鈴木首相の、アメリカに対する最初の「和平の合図」は、ザカリアスによってしっかり受け止められたわけですが、このザ力リアス放送もまた、米内を動かすことになったのです。三日後の五月十一日、函席副官の横山一郎少将を呼んで、「モスクワヘ武官としで行ってくれ」と命じたのです。驚いたのは横山です。昭和六年、少佐の時にエール大学に留学し、日家開戦時のアメリカ駐在武官。十七年八月に交換船で帰国して海軍省副官になっていましたが、五月一日付で少将に昇進したぱかりでした。副官は大佐が決まりですから、どこかへ転勤するだろうとは思っていましたが、まさかソ迪とは。「大臣、私はアメリカのことはよく知っていますが、ソ連のことは全然知りません。第一、ロシア第のアルファペットすら分かりません。店の名前も駅の名前も分からない武官に、何が出来ますか」。ところが米内は「ソ悳行きの使命は聞くな。ロシア語は勉強しなくてよろしい。堪能な通訳をつける。ただ、君にモスクワに行ってもらいたいのだ。すぐ、モスクワ行きの準備をせよ」と言うのです。

 米内は、何を考えたのでしょうか。この五月十一日と云う日は、最高戦争指導会議が構成員だけ、首相、外相、陸海軍大臣に参謀総長、軍令部総長の六人の首脳だけで開かれ、ソ運の参戦防止、出来得ればソ連の中立を日本に好意あるものにさせる、ひいてはソ連をして米英と日本との平和を斡旋させる。この三点の方針で合意が出来、[他言無用、絶対秘密]を申し合わせた日なのです。つまり、日本の最高首脳部か初めて終戦を志向する話し台いに入った日なのですか、米内はこう考えたのだと思います。ソ逓の助力で終戦出来たとして、米英との話し台いが直ちに必要になる。横山であれば、モスクワ駐在の米英の海軍武官と接触して交渉出来るだろう。またザカリアス放送からも、アメリカは無条倅降伏の嘔求を緩和して、日本に降伏を受け入れやすくしようとしているのではないか。そんな狙いも感じ取っていました。

 横山のモスクワ行きは結局実現しませんでしたが、米内がそこまで考えていたのなら、もっとストレートにアメリカと交渉出来るルートがあったのに、なぜ挟極的に推進しなかったのか。つくづく残念だったと思うのが、スイス駐在海軍武官藤村義朗中佐の「ダレスエ作」と言われるものです。藤村は当時38歳、昭和十五年にドイツ駐在武官補佐官となり、20年3月21日、スイス駐在を命じられて、陥落の迫ったベルリンからベルンに脱出しました。目的はスイスで日米直接和平の道を開くことで、実はドイツにいた時からその布石を打っていたのです。

 スイスのチューリッヒに、フリードリッヒ・ハックという日本海軍と関係の深い亡命ドイツ人がいました。ハンブルク大学を出た経済学博士で、極東に関心を持ち、渦紋の顧問をしていましたが、大正三年の第一次世界大戦に従軍、青島で捕虜になり四国の収容所に送られました。釈放縦もそのまま日本に留まり、ドイツの潜水艦技術や器材の斡旋をして、日本海軍との付き合いが始まったのです。帰国後は日本通としてリッベントロープ外相に重用され、極東問題顧問になっています。昭和十一年に締結された日独防共協定も、後にドイツ大使になる大高浩陸軍駐在武官を自宅でリッベントロープとこっそり会見させ、橋渡しをしたのがきっかけだったと言われます。

 ところが、次第に世界制覇を目指すヒットラー独裁体制に疑問を時つようになり、敢然としてナチス批判したため、「同性愛者」の罪名で投獄されてしまったのです。心配したベルリン駐在の海軍武官が奔走して釈放させ、東京に送り込んだのですが、東京もドイツ大使オットが本国送還を画策して、安全ではなくなってきました。そこで海軍は昭和十三年番、ハックをスイスに亡命させ、海軍の物品購買代理人に指定して生計も成り立つようにしてやったのです。

 日米間戦後、そのハックから藤村に手紙が来ました。「日本もとうとう馬鹿なことをしたものだ。米英を相手に戦争して勝てるわけかない」とありましたが、最後に「慈愛深き日本海軍のために、今こそ身を挺して報いたい」と、その決意を被曝し、「もしベルリンの武官が承認するなら、自分かスイスで米英と何か連絡の方法を準備しておこう。一本、裏道を開いておこうじやないか」と提案して来たのです。緒戦の連戦連勝の時です。藤村も、敗戦なんて予想もしていませんでしたが、戦争というものは、その国で一番都合のいい時に始め、一番利益の大きい時にやめるのが常道だから、どっちみち戦争終結のことも考えておかねぱならない。そう思って、海軍武官横井忠雄大佐の了解をとり、ハックに「アメリカのしかるべき人と接触するルートかあるなら、道をつけておいてくれ」と返事を出したのです。藤村は「軽い気持ちで書いたんだが、これか後になって役立つとは夢にも恩わなかった」と言っています。

 藤村がベルンに着くと、ハックが待っていました。「和平工作を本格的にやる積もりでスイスに末たんだ」と貫うと、『それならOSSを通ずるのが一番いいだろう』と言います。OSSというのは第二次大戦勃発直後、大統領命令でヨーロッパに作られたアメリカの戦略情報機関で、総局長はアレン・ダレス。戦後このOSSがほ体となってCIA、中央情報局か出来るとその長官となり、当防人統縦顧問で後に国務長官になるジョン・フォスター・ダレスの弟です。ハックは 「兄を通じて大統領と直結しており、最も信頼のおける人物だ」と説明しましたか、藤村もダレス機関がスイスを中心に、パリ、ロンドン、ストックホルム、リスボンなどに支部を置いて活発な活動をしていることは知っていました。特に四月初め、イタリア戦線のドイツ軍最高指揮官ヴォルフ大将が、ヒットラーの「徹底抗戦」の厳命に抗して連合軍と単独停戦し、これによって北イタリアのロンバルジア地方は悲惨な戦火から免れ、多数の人命か救われたのですか、これもダレス機関か「サンライズ作防ごと名付けた工作が実ったものと知って、藤村の決童は固まりました。四月こ十三日、ハックにダレス機関に対する正式交渉を依頼したのです。

 藤村が、ダレスと会うことが出来たのは五月二日でした。迎えの車が来て市内をグルグル走り回ったあと、一軒の民家に連れ込まれると、背広姿のダレスが現われ、「やあ」と気軽に一言。藤村は英語で十五分ほど、一『和平を結びたい。これ以上、無益の殺生はしたくない。私は大本営の人間だから、大本営と海軍は必ず説得する」。ダレスは終始無言でしたか、横から部―のポール・ブルームか、この人は横浜生まれの外交官で、戦後二十二年にアメリカ大使館員として来日し、二十九年に引退すると藤村が社長をしていた貿易会社の役員になった人ですが、
「君がいま言ったことと、君自身のキャリアを文書に出してくれ」と要望し、その日の会見は終わりました。そして翌日の三日、「迅速なる和平の達成は米国側代表部も希望し、そのために最善の努力を惜しまない。米国側の準崖は整っている。日本側はどうか」と回答して来たのです。

 これで、アメリカ政府との間にパイプは通じたわけですが、藤村の気持ちは重かったといいます。どのように、東京に報告するかです。戦争中に現役の軍人が上司の命令もなく、勝手に和平交渉をするということは、軍律に照らせば銃殺ものです。そこで話を逆にして、ダレスの方からハックを通じて和平を申し入れて来たことにして、五月八日の午後、第一電を発信したのです。他の雑多な電報に埋没しないよう、「親展、至急、軍機」の最高機密暗号電報に指定し、宛先も『海軍大臣、軍令部総長』にして、二人にじかに届くようにしました。

 「五月三日、在スイス米要人ダレス氏より藤村に対し、予て親交のあるハックを介し、左の要旨の連絡申し入れがあった。速かに戦争を終息せしむる事は、単に日本のためのみならず、世界全体のために望ましいことであり、日本かこれを希望するならば、余はこれをワシントン政府に伝達し、その達成に尽力しよう」 --藤村はダレスと仲介者ハックの人物、経歴を説明した後、「本武官の意見」として「伯林の陥落も焦眉に迫った今日、日本の採るべき直は、逮かに刻米和平を図る事であると信ずるにつき、敢えて具申する次第である。速かに御指示を得たい」と打電したのです。

 ところが、東京からは何の返事も来ません。相次ぐ空襲で通信網が混乱し、東京からの返電は8日から10日かかっていましたか、ダレス機関は『日本側の回答次随によっては、いつでも交渉を開始できるよう待機している』と、迅速な回答を求めてきます。藤村はほとんど一日おきに打電し、二十日の「第七電」では敗戦直後のドイツ国民の目を蔽うような惨状を報告、「今日の独乙の姿は明日の日本の姿である」と、速やかに戦争終結対策を図るよう要請したのです。

 待ちに待った軍務局長の返電は五月二十一日に来ましたが、『どうも敵測の謀略の様に思える節があるから充分に注意せられたい』と、藤村をがっかりさせるものでした。「こちらが余りつつくので、間に合せ式の返事を寄越したのだ。発信者は局長になっていても、実際は下っ端が書いたものに違いない」。藤村はそう思って、「第ハ電」で断じて謀略でないこと、大統領に直結した政略機関であると、こう打電したのです。「ダレス氏以下一同は、日本からの真面目な回答を期待している。又仮に百歩譲って敵の謀略であるとしても、元も子もなくした今の独乙の様なドン底に陥るのを防げれば、その方かより有利であろう。今日の日本に、これ以上に良い条件の整った如何なる手蔓があるのか。本電に関しては、辿かに回答せられ度し」と、まさに精根込めて打電したと言っています。

 しかし、6月に入っても返事はありません。藤村はこの間、ダレスに和平についての具体的な条件を打診して見ました。第一に、国体および天皇の地位をそのままにすること。この点、特に米側の意見を聞きたい。第二に、現在残っている商船隊をそのまま残すこと。日本は島国だから、胎がなければ生存できない。第三に、台湾と朝鮮をそのまま残すこと。これは食糧源だから、日本にとって不可欠である。これに対して非公式ながら、第一、第二はともかくとして、第三の朝鮮、台湾は難しかろうとの回答かありました。藤村はすぐ、アメリカ側の意向として打電しましたが、和平条件についてここまで突っ込んで回答を引き出したのは初めてのことで、この条件を基礎に直接交渉に入っていたらと、大変残念に思います。

 藤村は帰国して、直接説得することを決意したのです。ダレス機関に「東京まで私を送ってくれ」と申し入れたところ、「君が東京に着いて、和平だ、和平だと騒ぐと、銃殺されるのがオチだ。それよりも、束京から大臣でも大将でも、条約にサインできるカを持った人物を呼び寄せられないか。東京で希望するなら、アメリカ側は日本からスイスまでの空路輸送を絶対確実に引き受ける」。藤村は小躍りする思いでした。六月十五日の「第二十一電」は米内海相宛ての親電として、今までの経過を報告し、最後に「今や閣下に残されている戦力、国力の全てを俸げて、この対米和平を成就することが、唯一国に報いる道ではないでしょうか」 ―こんな厳しい言葉を付け加えましたが、藤村は『尊敬する海軍大臣に対し、こんな電報まで打たねばならなくなったことを心から悲しんだ。一武官の言葉としては失礼過ぎると思い一晩考えたが、もう時間的余裕はない。やってしまえ」と、打電したと言っています。

 米内海相からの返電は、20日に来ました。「趣旨はよく分かった。一件書類は外務大臣の方へ廻したから、貴官は所在の公使その庖と緊密に提携し善処され度し」。藤村は「これでようやく日本政府の問題になった」と喜びましたが、『藤村工作』はこの時点で事実上終わったのです。すぐハックをダレス暗闇にやって伝えると、木で鼻を括ったような冷ややかな態度です。そしてダレスは三日後、
「用があるので自分は南ドイツに行くが、東京から連絡かあったら、すぐ機関の者に伝えてくれ」と言い残して、ポツダム会談に出発してしまったのです。藤村は、「なぜこんな大切な時に、またなぜ急に態度が冷たくなったのか、その時は分からなかった」と言っていますが、藤村と共にベルリンを脱出し、藤村を助けて工作に当たっていた津山重美、大阪商船のベルリン駐在員から海軍の嘱託になった津山は、「外務省の手に移すと云う電報を受け取った時、この話はもう循らないな」と直感したそうです。

 津山によると、「ダレス機関は当初から、日本の外務省は腰抜けで相手にならない、陸軍は分からず屋、海軍なら少しは物分かりがいいと思って話している、とよく言っていた。それを外務省に移したのだから、相手はもう信用しない。ダレス側は、特にソ連との関係を気にしていることが言葉の端々にちらちら出ていた。仮にソ直が参戦すればどうなるか。日本は勿論だが、実はアメリカも困る。聞くところによると、君の方はソ迪に仲介を頼むそうだが、親の仇に仲人を頼むようなものじやないか。出来るだけ早く、この話を纏めたいと云う話ぶりで、後で考えると、ソ運参戦までにこの話がまとまらなければご破算にする、これがダレス側の肚(はら)だったと思う」

 ダレス機関が藤村との接触に応じたのは、早期和平によりソ連の参戦を防ぎ、さらには日本本土上陸作戦に伴う莫大な犠牲を避けようとしたためでした。ポール・プルームは、はっきり言っています。「ダレスは、イギリス、ソ週、中国には秘密にして、日米間に和平の下相談を取り纏め、イギリス、中国には日米政府間の正式に話し合いが持たれた時に明らかにする段取りだった。そこへ六月二t日の外務省からスイス公使への暗号電報が入り、これを解読して、もうこの話は駄目だと判断した。日本外務省の暗号電報を即日解読していたのは、我々だけでなく、イギリス、ソ連も同様で、その動きは全て筒抜けになっていたのだ」。こう言うのですが、ダレスは「藤村工作」がソ遂に洩れた時点であきらめたわけです。

 藤村の方は二十一日、外務省から指令を受けたスイス公使の加瀬唆一に呼ばれて、今までの経過を説明し、「力を合わせて大いにやろう」となりました。しかし、その後二、三回簡単な問い合わせがあっただけで、何ら積極的な動きはありません。藤村は二日かΞ日おきに、Eyから石7の長文の電報を全部で三十五本も打電していますが、じりじりしているうちに、原爆投下、ソ連参戦となってしまったのです。藤村は「毎日、祈るような気持ちでおりました。このダレス交渉は、全戦局を通じて最も確実な、可能性の強い、正しい和平ルートであったと思う」と話しています。

 それにしても、ソ連参戦、原爆投下を防げる最初で最後のチャンスだったというのに、海軍中央部はいったい何をしていたのでしょうか。戦後、GHQの歴史課が纏めた「終戦史資料」かあります。日本の陸海軍将校二十人ほどを嘱託にして、昭和二十四年から二十五年にかけて関係者から詳細に事情聴取したものですが、「藤村工作」についても取り上げています。軍務局長の保科善四郎中将は「当時私は、何とかして終戦の方途を見付け出し度いと念願して居たから、この藤村電を見て大変うれしく感じた。私はこの電報を米内海相に時って行って御目にかけたが、海相もうれしそうであった」。また軍令部作戦部長の富岡定俊少将も「たとえ謀略でも、当時最も知りたかった米国側の終戦条此‥の概略でも推察し得る端緒になるものと、大変嬉しく感じた。そこでこの交渉を上司に進言することを決心した」

 それでは、「謀略注意」の軍務局長の電報は何だったのか、ということになりますが、実は軍令部の首脳が代わっていたのです。五月一一十九日付で軍令部総長に豊田副武大将、次長には大西滝治郎中将がなり、次長の小沢洽三郎中将は海軍総司令長官兼連合艦隊長官に転出したのですが、大西は神風特攻隊生みの親であり戦争継続一本槍です。富岡作戦部長は、こう言っています。「大西にきっと反対されると思い、順序としては間違っているか、直接総長に進言しよう。そして総長から次長を説得してもらって、海軍が一致して藤村電の趣旨を実現させるべきだ」。ということは、富岡が「嬉しく思った」のは、五月八日の第一電ではなく、六月十五日の「大臣、大将を寄越せ」の電報なのです。

 藤村か予想した通り、それまでの電報は全て下で処理されていました。軍務局第二課長の米沢炭酸大佐は、第一電を見て「疑問を抱いた」と言っています。ダレスがそんな大物とは知らず、「和平工作という重大問題を、米国側が日本の海軍中佐に申し入れて来た点に、了解し難いものが感ぜられる。換言せば、国際的に有名な米人が、日本の権威あるべき外交官を通じて申し入れて来るべき性質のものなのに、日本海軍が開戦前から対米戦争を嫌って居たのに着眼し、珠更にこれに探りを入れてきたのではないか、と疑いを抱いた」。藤村がダレスの方から申し入れて来たことにしたことが、かえって疑念を抱かせることになったわけですが、いずれにしろ『藤村工作』が海軍首脳部の耳に入るまでに、貴重な一か月余りが空費されたことになります。

 そして、富岡作戦部長の決意も実りませんでした。豊田総長に直接自分の意見を述べたところ、「君は専ら、作戦に心血を注いでおれば宜しい。和平の問題は君は考えるべきではない」と、言い渡されたのです。その豊田は「藤村中佐を個人的に全然知らないので、十分な信頼が持てなかった。それにダレスがドイツの終戦に関して大いに活躍したとの情報は、かえって逆効果だった。この藤村道旨は、日本の戦意打診のパイロット・バルーンか、戦意阻喪の謀略以上には解釈出来なかった』と言うのです。

 保利軍務局長も大西に反対され、『当時はなお、終戦を強硬に主張するようなことは、遠慮しなけれぱならない情勢だった。それで、大西の主張が勝ちを占めた」と話しています。また外務省に移管したことについては、『このまま放置すれば、ダレス提案は立ち消えになってしまう心配が感ぜられた。私どもは内心、この提案を利用したかったが、正式ルートを通じなかったという理由で利用しにくかった。それで外務省に移すよう計画したが、これにも大西か反対したので、軍務局長の所見として外相の所で適当に処理してもらうことにしたのだI。こう説明していますが、富岡に言わせると「外務省に回ればおしまいです。外務省は陸海軍に挨まれていたのですから、この問題の処理が出来るわけがないのです」

 米内はGHQの聴取が始まった時、すでに亡くなっていましたから、その生の声を聞くことは出来ませんが、豊田の前任の軍令部総長及川古志郎大将の話では 「米内は、ソ連などを相手にするのではなく、寧ろ米国英国と直接交渉の道を開くべきだ」との意見だったそうです。それでいて「藤村工作」を積極的に推進しなかったのは、なぜだったのでしょうか。私は、米内はこう考えたのだと思います。鈴木内閣の終戦工作の難しさは、阿と言っても陸軍の認めない終戦は終戦にならないことでした。「藤村工作にについては軍令部が反対しており、当然陸軍も反対するでしょう。ソ連の和平仲介にようやく陸軍も同意し、合意か成立した時点で、この「対米直接交渉」の是非を正式決定の場に持ち出せば、そのせっかくの合意が崩れてしまうのではないか。米内は、それを恐れたのではないでしょうか。敗戦後の昭和21年4月、帰国した藤村か米内を訪ねると、米内は「ダレス機関に対する和平折衝を成功に導き得なかったのは、一に米内の責任であり、誠に申し訳なかった」と、詫びたそうです。

 私がもう一つ、残念に思うのは、小沢治三郎中将が軍令郎次長に残っていたらどうだったかということです。鈴木内閣の成立直後、戦後の首相吉田茂が小沢を訪ねて来て、いかにも古田らしいと思うのですが、「米英と直接交渉の橋渡しをしたいから、海軍の潜水艦か飛行機を以て、自分を米英車の戦線の後方に淫んでくれ」と頼んでいるのです。吉田は昭和十七年六月と云う早い時点で、内大臣の木戸幸一に元酋相の近斯文麿をスイスに派遣して、早く和平のチャンスをとらえるよう進言していますが、米軍が沖縄にまで上陸して、来て居ても立ってもいられない思いだったのでしょう。吉田はこの直後の四月十五日、和平工作画策者として憲兵隊に逮捕されてしまうのですが、小沢は「突飛な話ではあったが、潜水艦を使ってやる方法は研究のi値のある問題だと思った」と茜っています。富岡作戦部長に「誰にも言わずに、君だけ心得ていてもらいたい。実は古田を潜水艦に乗せて秘かに中立国に送り、終戦の交渉をして貰ったらどうか一と話しているのです。「藤村工作」では、アメリカの方から「運んでやる」と言ってきているのですから、小沢が軍令部次長だったら当然この話に粟っていたでしょうし、あるいは事態も変わっていたかも知れません。

 「ダレスエ作」には、実はもう一つ、スイス駐在陸軍武官岡本清福中将の全く別な陸軍ルートもありました。岡本は開戦時の参謀本部情報部長で、昭和十八年三月、日独伊三国の戦争階導を調整するためベルリンに派遣され、十九年にスイス駐在になった人です。岡本は表面には出ず、バーゼルの国際決済銀行理事の北村孝治郎、為替部長の吉村侃に依頼して、決済銀行顧問のスウェーデン人のペル・ヤコブソンを通じてダレス機関に接触しようとしたのですが、ヤコプソンがダレスに会えたのは七月十四日、すでに「藤村工作」も打ち切られていて、余りにも遅過ぎました。北村はハックから『藤村工作』のことを聞いてはいましたが、「岡本が海軍には黙っていてくれと言うので、一言も言わなかったか、陸海軍パラパラでなく一緒にやっていたらどうだったでしょうかね」と話しています。岡本とすれば、参謀本部の了承を得たものではなかったし、軍人として終戦を表立って口に出来ない事情もあったのでしょうか、陸海軍が連携どころか、競合していたのでは、力を時つはずもありません。岡本は敗戦の八月十五日の夜、チューリッヒのアパートで「長く情報を担当していたが、その情報の誤りから日本を戦争に導き、その罪浅からず、ここに死をもって詫びる」。鉛筆で走り書きした遺書を残し、ピストル自決しています。

 海外での終戦工作には、この他に「スウェーデンエ作」と言われるものが二つありました。・。つは、朝日新聞常務鈴木文史朗が、親しくしていたスウェーデン公使バッゲに昭和二十年四月に帰国する際持ち掛けたもので、バッゲと旧知の元フィンランド公使昌谷忠を介して、当時の重光葵外相、鈴木内閣外相になった東郷茂徳にも一応諾は通じていました。もう‘つは、スウェーデン駐在陸軍武官小野寺信少将が国王の甥に働き掛けたもので、いずれもスウェーデン王室からイギリス王室に、和平の働き掛けをしてもらおうというものでした。

 しかし、これらのエ作が動き出した頃には、日本の最高首脳部は「ソ連に仲介依頼の」方針に固まっていました。ソ連はすでに対日参戦を決定済みなのですから、そのソ遵に仲介を頼むとということは、幻想以外の鯛ものでもなかったのですか、東郷外相とすれば、・最終目的は終戦そのものにあるのだから、一番難物の陸軍が希望している対ソ交渉でまず政策集団内部の合意を図ろうとしたのです。当時、外務省条約局長をしていた渋沢信一は、こう話しています。『東郷さんは非常に手堅い人で、妙な所から来た話には、謀略の匂いがするといって滅多に桑らなかった。外交は正式の筋目を立ててやるべきだ、と思っている人だった。それには米英のチャンネルを通すことだが、その方法、手段かどこにもない。バッゲとかダレスとかの話はあったが、国家の大事を賭けるほど、そのチャンネルを評価する気にはなれなかった』。東郷が理論の筋を立て過ぎる結果、一旦「ソ運仲介」と決めてしまうと、それ以外の話は「筋違いだ」と、一切斥ける結果になったようです。

 この間アメリカ国務省では、「中国派」に代わって「日本派」が進出していました。昭和十九年五月、長年駐日大使を務めたグルーが極東問題局長になり、十一月には国務次官に就任したのです。前任の局長ホーンベックは、国務省でも名うての対日強硬論者でした。しかもグルーが大使時代、最も信頼していた参事官のユージン・ドーマンが特別補佐官、一等書記官のディックオーバーが日本課長になっています。ドーマンは日本の小学校、中学校を卒業して、言わば日本人の気質を肌で知っている外交官でした。この人事に注目したのが、東大法学部長の南原繁と教授の高木ハ尺です。高木は内大臣の木戸とは学習院の同窓でしたから、六月一日、二人で杢尺を訪ねて、「国務省が日本派で占められている現在、日本はアメリカと直接交渉すべきだ」。そして陸軍が唱えている「一億玉砕」を批判し、「機運が熟するのを待っていたら、恐らく時機を失し、ドイツと同じ運命をたどることになる。沖縄戦が終わった後、陛下か和平を説かれることか、時局収拾のただ一つの方法だ』と力説したのです。

 木目も大きく首肯いて六月八日、「時局収拾案」を書き上げましたが、その内容は「天皇の親書を時った使節をソ連に送り、和平仲介を依頼すること」を提言したものでした。木戸は「太平洋の問題を、ソ運を除いてやって見てもしょうがない。大国として未だ中立の間隙にあるソ連を除外して、スイスやスウェーデンを仲介するのはおかしいじやないか、という考えが僕の頭には強かった」。こう話していますか、日本の終戦工作は「対ソ交渉竺本槍になっていったのです。

 海外の終戦工作を通じて言えることは、いずれも個人的接触の範囲を出るものではなかったことです。和平をめぐっての個人ブレーには限界かあり、国家としての後押しがなければ力を持てません。日露開戦が御前会議で決まった時、元老伊藤博文はいも早く、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトとハーバード大学同窓の金子堅太郎をアメリカに送り、開戦と同時に終戦への布石を打っています。これがポーツマス講和会議に結びつくわけですが、やはり吉田茂が提案したように、早くから政府代表を中立国に送っておくべきだったのです。一。必勝の信念」一点張りの東条英機首相には望むべくもないことでしたが、もしそうしていたら、ダレス機関についても、もっとしっかりした評価、判断が出来ていたことでしょう。

 ダレスは、その著書「秘密の降伏」にこう書いています。「不幸にして日本の場台は、われわれの方に時間がなくなっていた。東京政府は、弔和を確立する方法かある、との決心をかため、彼らが交渉しているアメリカ人がワシントンの最高権カ者と直接の接触を保っていることを知る前に、モスクワか陥介者として姿を現わし、日本政府はソ連を通じて平和を求める決心をしたのだ。もし、この交渉が、もう少し時間を与えられていたとしたら、日本の降伏の事情は、もう少し違っていたものになっていたかも知れない」。藤村が昭和一一十八年に訪米してCIA長官になっていたダレスを肪ねると、まだ朝鮮戦争か続いている時でしたが、しみじみと述懐したそうです。「あの当時、東京政府がスイスにおける我々の提案をうまく受け入れていたら、アメリカは今日のような苦しみをしないですんだであろうし、世界情勢もすっかり変わったんじやなかろうか』。確かに、ソ連の参戦前に日本の終戦が実現していたら、少なくとも朝鮮情勢は変わっていたでしょう。大変残念なことでした。

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