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日本が「思想善導」を行った時代の歴史を見てみます。
copy:戦時体制下における教育思潮
-日本の、「科学を論じないしきたり」の歴史的背景-
戦前の,強制的な国民的合意の形成と,戦時総動員体制下の国民育成。戦時下に教育が果たした歴史的意義。
一 戦時体制下における教育の特質
1910年(明治43年)大逆事件
この事件以降、日本の社会主義運動が低調になった。
1917年(大正6年)から1918年(大正7年)という時期は、
第一次大戦(~1918年)の好況に社会の一部は潤いながらも、
米をはじ めとした物価は高騰を続けた。
(1)米騒動(1918年)、
(2)小作争議(1922年~)、
(3)労働争議(1921年3万人の争議)(1922年~)
など、
社会全体が大きな動揺をしていた。
また、
(4)河上肇の個人雑誌『社会問題研究』や山川 均等の『社会主義研究』等により社会主義運動が活発化した。
(当ブログのコメント)江戸時代では、百姓一揆を弾圧し首謀者を見せしめに処刑していたが、大正時代の政府は小作争議に対しては、問題を根本的に改善する農地改革の知恵を出した。
しかし、労働争議に対処する知恵は出さなかったように思います。
1917年ロシア革命
この革命の影響で、社会主義運動が急激に広まっていった。
1917年(大正6年)9月20日に、
政府は、このような不穏な空気を抑えるイデオロギー的統制を強めるために、
岡田文相が、官制1)を公布して、
内閣に直属する諮問機関の「臨時教育会議」を設置した。
そこでは、
「大戦による思想上の変動に対して国民道徳を徹底させ、国体観念を強固にするという国家主義的な方針」
が審議された。
この臨時教育会議は文教施策を確立するために,従来においては見られなかった大きな組織をもって発足した。
同会議の委員には,総裁の平田東助,副総裁の久保田譲,その他,教育専門家,学者,政治家,産業界代表者,官省および軍代表者など三十六名が任命され、戦後の教育方策を樹立するための基本方針を審議して答申することとなった。
寺内首相は,その主要目標の中で、国民教育の全般を通じて徳性,智能、身体の教育をなし,護国の精神をもつ忠良なる国民を育成することに務めなけばならないとした。
このためには,実科教育,高等教育の検討を必要とすることが挙げられている。
この会議は1917(大正6)年10月から1919(大正8)年3月までの間に,九つの問題についての諮問に詳細な答申がなされている。
それは,小学教育,男子の高等普通教育, 大学教育及び専門教育,師範教育,視学制度,女子教育,実業教育,通俗教育,学位制度であった。
教員養成制度についても新たな方策が要望された。
教育内容については,実科教育尊重の思想から実務生活に生徒の学習を適応させる方針が立てられた。
これらの主要な方針が答申されたが,1918(大正7)年から引き続き昭和初年にかけて,臨時教育会議の諸方策が,実現されることとなった。
大正後半年から昭和20(1945)年に至る間の教育制度の基本となる体制は,臨時教育会議の答申の線に沿って決定された。
第一次世界大戦(~1918年)後の日本の社会教育の分野の制度化が広く進められて、文部省の文教行政が学外にまで拡充された。
1917年(大正6年)7月、国柱会の機関誌『国柱新聞』182号が、「安寧秩序を乱す」との理由で、内務省から発売禁止の処分を受けた。
(本来は国家主義的なメディアまでもが発売禁止処分を受けた。)
1919年から27年まで、
日本の工業生産の増加率は欧米諸国を越えていたのであるが,
このような工業発展は,中国市場を中心とする国際的進出と,国内における労働条件の低水準維持策とによって,一応支えられていたのであった。
1919年には、コミンテルンが成立し、共産主に基づく世界革命の可能性が現実味を帯びていきました。
このような状況に対して、原内閣は社会主義団体の監視強化、労働運動に対する融和、そして思想善導といった対策を実施しますが成果は乏しいものでした。
1921年には、その手詰まり感を背景として、過激社会運動取締法案が検討されるに至った。
この法案は、共産主義者による国内での思想宣伝行為に対処することを目的として成立が企図されたが、法案があいまいであったので廃案となった。
しかしこのような失敗は、まさに治安維持法成立のために必要な条件と表裏一体であり、法案からあいまいな文言及び宣伝罪を排し、内務省と司法省が協力し、両院を説得し、1925年に治安維持法を成立させるに至った。
1922年に、非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党が創立された。
1923年9月1日、関東大震災: 震災直後に緊急勅令で治安維持令が公布された。
1923年に、日本共産党の大検挙。
1924年、全国高校で、社旗禁圧・暴圧反対運動。
1925年、一高・三高の研究会解散命令に対する学連の抗議運動。
1925(大正14)年、政府は大正中期以降の反体制運動の高揚に対して,普通選挙法と治安維持法を制定した。
(治安維持法制定当時、政府は「慎重に運用」「一般国民とは関係ない」と説明した。)
《2015年現在の状況は、1925年当時の状況と類似している。2015年施行の「秘密保護法」や「集団的自衛権関連の法律」が1925年の「治安維持法」に対応すると思われる。》
1925年末から1926年初め、京大生を中心とする治安維持法・出版法違反事件がおきた。
第一次大戦(~1918年)前後の社会情勢については,
大正から昭和へ改元された1926年を(2016年と言い換えることができるかもしれない?),日本は激しい政治的混乱のうちに迎えたのであった。
近代資本主義国家としての日本は,第一次大戦後の恐慌・震災恐慌のあとがまだ回復しないうちに,1927(昭和2)年春に金融恐慌がおそい,深刻な危機に陥っていた。
1927年:日本での「金融恐慌」
1928年2月:第一回普普通選挙
第一回普選での無産政党の進出に脅威を持った政府は,選挙直後の3月15日,全国いっせいに日本共産党・労農党・労働組合評議会・無産青年同盟の関係者を多数検挙し,さらに労農党以下3団体の解散を命じた。
1928年6月には,治安椎持法が改正されて,死刑・無期刑が追加された。
---------補足-----------
・1928年の治安維持法の改正の趣旨
この時の改正は2つの目的を持っていました。
①一つは
結社罪の最高刑を
死刑
としたこと
*2
、
②もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。
この改正(改悪)は、
政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を治安維持法違反にしたという意味を持つ
。
---------補足おわり------
第1の思想弾圧事件(3.15事件)
1928年3月15日:第一回普選(1928年2月)での無産政党(共産党)の進出に脅威を持った政府は,選挙直後の3月15日,全国いっせいに日本共産党・労農党・労働組合評議会・無産青年同盟の関係者を多数検挙し,さらに労農党以下3団体の解散を命じた。(3.15事件)
(逮捕者の中に学生150名が含まれていた)
★治安維持法違反被疑者の弁護人も逮捕される
3・15事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された。
さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された。
《日本労農弁護士団事件》1933年9月~11月,日本労農弁護士団に属する左派系弁護士30人が検挙された。
その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。
1928年7月には,内務省に保安課が新設され,思想取締まりにあたる特別高等警察を全国に設置し,憲兵隊に思想係を設置するなど,その権力は思想にまで介入することになり,反体制運動への弾圧が強化されたのであった。
1928(昭和3)年12月1日,政府は教学振興・国体観念養成を声明して,
「
思想善導(青少年健全育成)
」
への方向で,翌29年8月に,文部省は
教化総動員
の運動を企画し,これを全国的規模で推進した。
(当ブログのコメント:
思想善導
は、現代の日本の
青少年健全育成
に対応する概念です。)
この
教化総動員
を打ち出すにあたって,文部官僚の危機感は,思想国難,経済困難として表現されている。
教化総動員
は,田中内閣に変わって,1929(昭和4)年7月に成立した浜口民政党内閣の施政方針にしたがうことになった。
それは、
一方で,
共産党以下反体制運動を抑圧
し,
他方で,金融恐慌後の
経済危機を克服
しようとする,
資本の産業合理化を支援する経済緊縮政策を援助するために,
政府(権力)の支配下にある全官僚・団体の機構を総動員して展開した
一大教化運動
であった。
★1928年に、文部省内に学生課(後の1934年の「思想局」の前身)を設置し、組織的に学生の思想を取り締まった。
その業務は:
「一 内外における社会思想の調査研究に関すること」
「二 学生生徒の思想の調査研究に関すること」
「三 学生生徒の思想的運動に関すること」
「四 その他、思想問題に関する調査研究に関すること」
であった。
1929年3月:国会議員の山本宣治(死後に共産党員に加えられる)が、国会で思想善導(「青少年健全育成」に対応する)について質問した後の3月5日に暗殺された。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。
第2の思想弾圧事件(4.16事件)
★1929 S(4)4.16事件
・3.15の思想弾圧後に再度、全国規模で全国一斉検挙 700名検挙
報道禁止されていた
・知識階級の子弟が多く支配者層はショック
・共産党にとっては壊滅的な打撃 活動は以後地下にもぐる
・日本軍の山東出兵反対運動主流派逮捕される
・1929.11.5 新聞報道を解除し「共産党事件」と発表
・幹部党員には無期懲役などの重い刑
1929年に、文部省内の学生課を学生部に昇格させ(後の1934年の「思想局」の前身)、学生の思想の取り締まりを強化した。
1930年:世界恐慌(1929)の影響により、日本が「昭和恐慌」に入り経済が危機的状況に陥る。
1931(昭和6)年:満州事変
第3の思想弾圧事件(司法官赤化事件)
1932年:司法官赤化事件:
1932年11月12日、東京地方裁判所の判事・尾崎陞が日本共産党員であるとして、治安維持法違反により同地裁の書記4人とともに逮捕された。
翌1933年2月から3月にかけては
長崎地方裁判所の判事と雇員各1人、
札幌地方裁判所の判事1人、
山形地方裁判所鶴岡支部の判事と書記各1人
も相次いで逮捕された。
逮捕された9人の容疑内容はいずれも
「研究会を開いた」
「カンパに応じた」
「連絡を取り合った」
などの行為だったが、
日本共産党の目的遂行のためにおこなった行為とみなされ、全員が有罪判決を受けた。
(これらの行為は、
政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動を罰する治安維持法の
逮捕要件を満足する
)
これらは、共謀罪の逮捕要件を満足する。
第4の思想弾圧事件((長野県と)全国教員赤化事件)
1933年 2月4日:
長野県で教員が思想問題で多数(66校、230名)検挙される(長野県教員赤化事件)。
この事件を契機に、全国各地で同様の弾圧が行なわれ、1933年12月までに岩手県、福島県、香川県、群馬県、茨城県、福岡県、青森県、兵庫県、熊本県、沖縄県で多数の教員が検挙された。
第5の思想弾圧事件(滝川事件)
1933年:滝川事件
1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた
裁判官・裁判所職員が検挙される
「司法官赤化事件」
が起こった。
この事件をきっかけに、5月26日、文部省は文官分限令により
京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の休職処分を強行した。
滝川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示した。
1934年に、
(1)文部省の学生部(1928年に設置した学生課)を
「思想局」
へ昇格させた。
(2) 国民精神文化研究所が、文部省の直轄する研究所として発足した。
これらが教学思想を確立するための活動を開始させることとなった。
1936年に設置された「日本諸学振興委員会」が,学問領域の全般にわたって「日本学」の方向を打ち出し,
1937年3月には思想局(1928年の学生課)から『国体の本義』7)が発行されて、教学刷新の基準が明確にされた。
1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である
思想局
(1928年の学生課)が、文部省外局
の
「教学局」
に昇格され,学問研究に対する統制の中枢をなした。
(当ブログのコメント: この
教学局は、
1937年に開始された、「国民精神総動員」運動の名のもとに先の教化総動員を再編成した大規模な
日本精神発揚の教化運動
を推進する中心であり、教化運動を計画する本部です。安倍内閣を支配している「日本会議」は、この、「
大規模な
日本精神発揚の教化運動
」を理想としていると推察します。)
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1999年1月31日、元在特会幹部の増木重夫が事務局長をする「教育再生・地方議員百人と市民の会(百人の会)」が増木らによって設立された。
産経新聞が主導した新しい歴史教科書をつくる会の運動と連動した動きである。
山谷えり子が(実質的に筆頭の)顧問をつとめた。
(増木氏は「山谷えり子氏とは十五年ほど前に、(百人の会の)顧問をお願いしてからの付き合い」としている。)
2009年8月17日撮影、
増木重夫元在特会関西支部長(左)と笑顔で写真を撮る安倍晋三(サイトより。現在は削除済)
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1937(昭和12)年
の第一次近衛内閣時代には,
日中戦争の開始
(同年7月7日)という国際的危機にあって,
「国民精神総動員」運動の名のもとに,先の教化総動員を再編成して,大規模な
日本精神発揚の教化運動
が展開されることになる。戦争開始直後の8月24日に,
閣議で
『国民精神総動員実施要綱』6)が決定され,内務・文部両省を中心に運動が推進された。
(当ブログのコメント:安倍内閣が、
閣議で
『集団的自衛権』を決定したことが、この戦前のやり方に似ている)
この運動には,
全国神職会
・全国市長会・
帝国在郷軍人会
の他,労働組合組織など多数の団体が参加し,
(当ブログのコメント:「日本会議」はこの運動と同じく、神職会と軍人会から構成されていますね)
近衛内閣は,その運動目標として,挙匡一致・尽忠報国・堅忍持久を掲げ,国体観念の宣伝,注入に努めた。
さらに,部落・町会・隣組など隣保組織まで行政組織の末端に組入れて,上意下達の道筋を確立しようとした。
1938(昭和13)年には,地方道府県の
国民精神総動員実行委員会
が活動し,地方官僚を中核に殆ど全団体の代表者を網羅した委員会の主導によって,
懇談会・講演会・映画会の開催,
ポスター・パンフレット・ビラの配布,
新聞・公報・ラジオ放送などによる宣伝,
また,祈願祭の執行,
奉公歌歌詞募集・寄金募集など,
その他,強調週間の実施などの諸行事が推進されたのであった。
1939(昭和14)年4月,平沼内閣時代に,
国民精神総動員委員会第二回総会は,
「国民精神総動員新展開の基本方針」 を決定した。
平沼内閣のもとに,荒木貞夫大将を文相に置いたが,
その主導で,
総理大臣直轄の委員会と地方府県の主務課の設置によって,
右翼団体を始めとし,その他の教化団体と行政系統とを駆使して,
皇道主義・一君万民思想の普及に徹することになった。
1940(昭和15)年の第二次近衛内閣に至り,先の総動員本部は解散されて,生活組織を基礎に全国民を対象とする
大政翼賛会
の組織による運動が実施されることになった。
・・・
1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である
教学局(1928年の学生課)
が文部省外局として設置され,
学問研究に対する統制
の中枢をなした。
・・・
算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である
批判的精神を除却(除去)し
た合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずに
ゆっくりと
国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。
・・・
戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは,
国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で
大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である
,という認識であった。
<・・・
ところで,1938年に,
一部軍需産業は好況を招き
,労働力不足は一定の賃金上昇をもたらした。
・・・
やがて戦争の影響が国民の日常生活の次元にまであらゆる角度から押し寄せてきた時に,多面的な生活科学への要求がおこってくる。
・・・
しかし,
「科学」の名称が一定の効用をもつのもこの一時期を限りのものであった
。
・・・
しかし戦争の激化は,生活理念において
「科学」に代って再び「精神」が重視される
ことになる。
太平洋戦争下において,それは「決戦生活」という言葉で表現された。
・・・
1940年1月
「生活図画事件」
(生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。)
大熊信行が,1943年7月から11月まで「婦人公論」に連載していた『新家政学』は,軍の干渉により執筆禁止となった。
その理由は,内容に天皇中心思想を欠くというものであった。
これは明らかに,
科学に代る精神主義が再び重視されてきた
ことを意味している。
・・・
このように,戦時下の生活科学構想はそれ自体戦争協力の学でありながら,しかも権力と精神主義の攻撃の前に崩れていったのである。
(もっと読む)
(注意)安倍政権を支配する「日本会議」が目指す戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは,国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,それは
あらゆる非科学性の根源であった。
(フィリピンで日本軍が病死)
日本陸軍のフィリッピンの戦没者は、敗戦直後に77%が飢え衰弱で病死した
(1945年初めに14%前後だった病死率は徐々に増加し、敗戦直後の九月には77%に上った。)
日中戦争や太平洋戦争の戦没者230万人:6割「餓死」の学説も=無謀な作戦が惨劇招く
2014年08月15日
歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。
著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。
さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。
個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。
「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、
「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月?43年2月)では、
日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。
その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。
太平洋戦争戦跡地
戦没者の60%強140万人は餓死であった
230万人はどのように戦死したのか?
◆「英霊」たちの区分けⅡ――百数十万の日本兵の大量餓死は、なぜ引き起こされたか
(ニューギニアでは、数次にわたって14万8000人の大兵力が送りこまれ、その90%を超す13万5000人が亡くなりました。自決した方面軍司令官の安達中将が「その大部は栄養失調に起因する戦病死」と記したように、原因は餓死でした。)
インパール帰還兵の証言二
(半死の状態の者は自殺用に「手榴弾をください」と訴えた。だめだというと「私を殺してください」と哀願してきた。長い軍隊生活の中でも、これほどの惨状は初めてだった。)
(インパール作戦は「糧は敵から奪うので何とかなる」という作戦だった)
(この指揮官は、安倍内閣のように部下の慎重論に一切耳を貸さなかった。あげくは、作戦に参加した3人の師団長を全員解任、更迭した。)
(農地改革の準備)
アメリカが日本に来れば、農地改革というような筋は出て来ない。
誠に恥ずかしいが当時はこういう結論だった。
それで、ザックバランに言うと、
アメリカが占領する前に一つ農地改革をやって、
日本の農地制度を変えたらいいだろう。
それが日本のためであるという信念であったわけです。
そこで終戦の前に、4月でしたか、
われわれは大分焦ったわけです。
その時に持ちだしたのが終戦緊急措置法に基づく
「農業生産緊急措置令」
であった。
それが大体第1次農地改革に非常に似ておるもので
--その案の骨子は今の金納制です。
所有権に触れると非常に問題があるから・・・。
これを作りまして、
当時石黒さんが大臣だったから何とかしてくれるだろうという頼みがあった。
僕は強硬にこれをやらなければいかんというので、
当時戦争中であるし、
内務省の圧迫というものがひどかったのですが、
むこうへ乗り込んで行ったわけです。
実はこれは今まで誰にも言わなかったのですが、
警保安局長及びむこうの左翼係の事務官全部に集まってもらってやったのです。
そして、前提として、日本は一体負けるんじゃないかということについての警保安局長の認識いかん?ということから始めた。
全部、そのときに、負けるという話だった。
そうして負けた時に一体こうじゃないかという話までしたのですが、
秘密会議を3回ぐらいやりました。
その時の考え方は、農地改革はよろしい。
よろしいが、君の意図は何であるか、
こいうことだったのです。
殊に金納制の意図は何であるか、
意図如何によっては、これはいかんということなのですが、
その線は、
要するに公式論の金納によって日本の共産化を図る、これは左翼に結び付くわけです。
そういう線であるならば、これはいかん。
金納というものを別の形で一つの農地政策として推進して行くなら、よろしいということで、
いろいろな経緯はあったが、そういうふうになった。
これは事務的には次官まで行った。
そうして次官会議で湯河さんが説明して、
内務次官はOKをやったわけです。
『敗北を抱きしめて』(岩波書店)歴史家ジョン・ダワー著
1945年4月から6月まで続いた沖縄戦では、1万人以上のアメリカ人が死んだ。11万人以上の日本軍が壊滅した。沖縄住民の約3分の1、おそらく15万人におよぶ男女と子供が殺された。
日本の降伏により、日本軍の実態が明らかになった。日本軍の集団としてのまとまりや規律は、軍部がくりかえし宣伝した「忠」とか「和」とかいった理念の上
にではなく、実は上からの抑圧を強制していく権威主義的な仕組みの上に築かれていた。上官は、尊敬よりも恐怖によって命令を徹底させていた。そのため、敗
戦になると、それまで抑圧されていた深い復讐願望が一挙に解放されることになった。
極端な場合には、そうした敵意から、元上官を殺害した者もいた。
降伏後、こうした感情は、はじめて公然と表現された。ある復員軍人は、自軍の指揮官たちの暴虐によって殺された戦友たちの霊を、どう慰めたらいいのかと問
いかけていた。昔の言葉に、敵を「冥土の土産にする」というのがある。これは自分が死ぬときは敵を道連れにするという意味であったが、自分の戦友たちは、
いざ玉砕のおりには敵ではなくて上官の1人を冥土の土産に連れていくつもりであったと述べている。
日本の降伏の前には考えられなかったこうした実態暴露は、「1億1心」なる戦争中の宣伝が、たわ言にすぎなかったことを白日の下にさらした。
(当ブログのコメント)
この時代の日本の体質が、太平洋戦争中に日本の支配下にあった韓国の軍隊の体質という遺物となって残っているのではないか、と推察します。
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(1)韓国軍での乱射事件捜査結果を発表(韓国軍内のいじめが原因)(2014年7月15日)
(2)2014年7月31日、韓国海軍の「要注意(関心)兵士」が、所属していた軍艦内で首をつって自殺していたことが分かった (2014年8月1日)
(このところ韓国では、6月にGOP(一般前哨)銃乱射、7月27日には陸軍兵士2人が自殺と、同様の事件が相次いでいる。)
(3)韓国軍の兵士集団暴行死で引責:韓国陸軍参謀総長が辞意(2014年8月5日)
(4)韓国で軍人による犯罪は昨年7530件 過去5年で最多(2014年8月7日)
(5)韓国軍兵士の4割がうつ病、日常的ないじめなどが原因(2014年8月18日)
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大正からの日本政府の「思想善導」政策が原因となって、日本国民の進取の力を奪い、明治維新からの日本の文明開化の勢いを、だいなしにして、日本に無残な負けに次ぐ負け戦さを続けさせたのではないかと推測します。
誰が考えても、科学精神を弾圧して科学を敵にした政権が、日本を勝たせる事などあり得なかったと考えるのではないかと思います。
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