2022年3月1日火曜日

ロシアのウクライナ侵攻は日本軍のインパール侵攻作戦に似てきている

ロシアが2022年2月から始めたウクライナ侵攻作戦は、多量の戦車部隊や航空部隊の武力により戦力の貧弱なウクライナを短期間で降伏させる作戦でした。しかし、世界各国の個人のSNSへ投稿した意見を参考に、各国政府が素早い決断により、ウクライナへの軍事・民事上の支援を決断しました。ロシア軍は、見かけはウクライナ軍と戦っているように見えますが、実際には全世界の近代兵器と豊富な資源供給に支えられたウクライナ(圧倒的な戦力差)と戦う事になってしまいました。そのため、ロシアのウクライナ侵攻作戦は、日に日に、日本軍のインパール攻略作戦と似た形になりつつあるのではないかと思います。
 ロシアは、ロシアがウクライナに侵攻する作戦の正当性を全く宣伝(言い訳)できず、情報戦で完全にウクライナに負けている。

第41回 インパール作戦


 これからお話するインパールは、竹山道雄さんの小説「ピルマの竪琴」の舞台にもなっ た戦場です。
お読みになった方も多いと思いますし、映画にもなりましたが、インパールはガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦いが行われた所です。
「酸鼻を極める」という言葉がありますが、インパールがまさにそうでした。
昭和十九年三月から始まったインパール作戦には、第十五軍司令官牟田口廉也中将が指揮する三個師団を中心に、約十万の将兵が参加しましたが、進撃と攻防四ヵ月、作戦が失敗に終わり、その敗走は一千キロ、五ヵ月にも及びました。
三万五百二人が戦死し、戦傷病者四万一千九百七十八人。
損耗率実に七二%という莫大な犠牲者を出したのです。

 中でも悲惨だったのは、犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、食べるものがないための栄養失調、赤痢やマラリアで体力を消耗し、猛烈な豪雨の中での敗走中に倒れたことでした。
撤退して行く道は日本兵の死体だらけ、蛆虫が小山のようにたかっています。
蛆というのはあんなにちっちゃくても、これだけ集まると、人間の死体なんてもう一日で完全に食い尽くしちゃうんだそうです。
下がれば下がるほど、道の両側は日本兵の白骨で埋まり、兵隊たちは退却路を「白骨街道」、また靖国神社へ行く道だというので、「靖国街道」とも呼ぶようになったのです。

 インパールは、ヒマラヤの尾根に当たるインドの東部。
現在のミャンマーであるビルマ国境近くにあるアッサム州の町で、イギリス第四軍の補給基地が置かれていました。
しかし、ここを攻めるには、各師団の進撃距離は百キロから三百キロもあり、行く手には二千メートルクラスの険しいアラカン山系、人跡未踏、悪疫瘴癘(しょうれい)の密林地帯が待ち構えているのです。
当然、万全の補給、輸送路を確保しなければ、成り立たない作戦でした。
ところが日本軍には、これを支援する十分な航空兵力もなければ、満足な機動力もありません。
牟田口軍司令官がとったのは「ジンギスカン戦法」。
八百年も前のモンゴル帝国の英雄、ジンギスカンの遠征にならって、 象や牛馬で食糧、弾薬を運び、食べるものがなくなったら、その牛馬を殺して食べる。
インパールは敵の補給基地だから、ここさえ取れば後の補給は何とでもなる。
「糧は敵から奪え」という、一人よがりの、時代遅れの考えも甚だしいものだったのです。
補給がどんなに大切か、また制空権を奪われた中での補給がどんなに難しいものなのか。
ガダルカナル敗戦で、いやというほど実感したはずでしたが、その貴重な教訓は生かされませんでした。
悲劇の第一歩は、この補給無視にあったのです。

 第二の失敗は、こんな無謀な作戦が、「ただ突進あるのみ」という牟田口の強烈な個性、剣幕に、ビルマ方面軍、南方軍の上級司令部から、最初は慎重論をとっていた大本営までが、引きずられてしまったことです。
牟田口は作戦に反対した参謀長を更迭し、部下の反論、慎重論にも一切耳を貸しませんでした。
あげくは作戦に参加した三人の師団長を全員解任、更迭するといった、日本の陸軍史上にも例を見ない異常な事態を招いています。
問題点は、早くから数多く指摘されていたのに、大本営も「現地指揮官が出来ると言うから、やってみる」。
こんな程度の、心許ない作戦発起だったのです。

 それでも、初期作戦が予想以上に順調に進み、三月二十一日にインパール束北方のウクルル、二十六日にはサンジャックを占領すると、東条英機首相は大本営報道部に命じて華々しく発表させました。
「我軍は印度国民軍を支援し、三月中旬国境を突破し印度国内に進入せり」。
何しろ十八年2月のガダルカナル撤退以来、連合艦隊長官山本五十六の戦死、アッツ島玉砕、太平洋戦線でも玉砕続きでしたから、東条首相としても国民の戦意高揚のためにも、このインパール作戦に大いに期待するところがあったのでしょう。

 それ以来、新聞には連日『インパール』の活字が躍るようになりましたが、徳川夢声は日記に皮肉たっぷりに書いています。
「新聞でイムバール、イムバールと大騒ぎしているから、ビルマ明細図を出して見ると、印度東境の村落と分る。もっと大都会だと思っていた。
もっとも、このイムパールに敵の大軍が集結しているとすれば、大騒ぎして不思議はない訳だ。
戦闘が行われる毎に、新しい地名が新聞で幅を利かせるのは、面白くもあり、煩わしくもある。
尻の先へ腫物が出来ても、全身の注意が一時そこに集中されるのだから、イムバールが目下、ロンドンよりもワシントンよりも幅を利かせるのは当然かもしれない」

 こんな、インパールを「尻の先の腫物」扱いをしていますが、外交評論家の痢沢例が鋭く、
「新聞が印度作戦について書きたてている。
相変らず『至妙なる作戦』と謳っている。
軍部の連中は朝から晩まで讃められていないと、一日が過ごせないのである。
が、印度作戦は大きな政策から見ると、悲しむべき結果を生ずることは明瞭である。
かりにインパールをとったらどうするというのだ。
それ以上は進めず、されぱとて退けぬ。
戦局の釘づけなのである。
そして、犠牲は非常に多いであろう」。
こう指摘しているように、一言で言えば無用な戦い、やらなくてもよい作戦だったのです。


 実は、インパール作戦が始まる二十日ほど前、二月十七日に日本の委任統治領で連合艦隊の根拠地であるトラック島が、アメリカ機動部隊に急襲され、航空機三百機、艦船四十一隻を失うという壊滅的な打撃を受けていました。
米軍の次の進路が、マリアナ諸島のサイパン島に向けられるのは明白であり、サイパンが落ちたら、日本本土は長距離爆撃機B9の空襲圏内に入ってしまいます。
参謀本部戦争指導班の種村佐孝大佐は、
「大本営機密日誌」に「内南洋に担当の海軍が十分処置していると思い込んでいたのに、トラック島が急襲されて始めて空ッポだと聞いてびっくりした」。
こう書いて、大本営が絶対国防圏としている、ここだけは絶対に守るんだと言っている内南洋の危うさを指摘していますが、
それは陸軍も同じで、そんなインパールに回す兵力があったら、ビルマは専守防衛にして、何をおいてもサイパンの防備強化を急がなければいけなかったのです。
事実、米軍はインパール戦最中の六月十五日、サイパンに上陸して来るのですが、衰えつつある国力から見て、インパール作戦が戦局全体にとって本当に必要な作戦だったのかどうか。
消沢例のような軍事の素人でさえ分かることが、なぜ分からなかったのか。
陸軍首脳部の、大局観のない欠陥をさらけ出したものでした。

 それでは、こんな無謀かつ無意味な作戦が、一体どんな経緯で決定され、実行されることになったのでしょうか。
開戦に当たっての参謀本部の南方作戦基本構想は、まず東南アジアの米英の軍事拠点である番港、シンガポール、フィリピンを攻略し、蘭印の重要資源地域を確保して長期不敗態勢を構築することでした。
このため、寺内寿一大将を総司令官とする南方軍の下に四個箪を置いて、第十四軍がフィリピン作戦、第十六軍が蘭印作戦、第二十五軍がマレー・シンガポール作戦を行い、飯田祥二郎中将の第十五軍には、第二十五軍の後方を安定確保するため、タイ、ビルマを担当させることにしたのです。

 ビルマ確保は、南方要域の西側の防衛拠点とする。
ラングーンから昆明に至る援蒋ルート、重慶の蒋介石政権に軍需物資を送っている路線を遮断する。
イギリス植民地を解放し、インドに対する反英離反工作の促進拠点とする。
こういった狙いを持つものでしたが、第十五軍の兵力が少ないため、ビルマ進攻はマレー作戦の進展を見て開始することにして、タイに平和進駐したところで待機させていました。
ところがマレー作戦が順調に進み、昭和十七年二月十五日にはシンガポールを占領してしまいました。
そこで大本営は、第25軍から牟田口が師団長をしている第18師団を引き抜いて第15軍に編入し、一気にビルマに攻め入って、三月八日、ビルマ最大の都市であるラングーン、現在のミャンゴンを占領したのです。

 大本営のビルマ工作は、開戦前から進められていました。昭和十六年二月、鈴木敬司大佐を長とする「南機関」を作り、ビルマ独立運動を支援していましたが、日本に亡命していたアウン・サンら若い志士三十人は、開戦と共にビルマ独立義勇軍を組織して祖国の解放戦争に出陣して行きました。軍司令官になったアウン・サンは当時二十七歳。ミャンマーの民主化運動を進めて、先月、七年半ぶりに軍事政権の軟禁状態から解放されたノーベル平和賀受賞者スー・チーさんは、その長女です。

 鈴木大佐は、ビルマの民族衣装をまとい、彼らと寝食を共にしながら三月十三日、義勇軍と一緒にラングーンに入りましたが、南方軍総司令部にビルマの「即時独立」を進言したのです。東条首相も一月、議会の施政方針演説でビルマとフィリピンの独立を認めることを明らかにしていましたが、南方軍はまだ時期尚早だとして、これをはねつけ、ビルマに軍政を敷きました。軍政下に置けば、軍の発行する軍票で何でも物資の調達か出来るからてす。そして鈴木大佐は、若い志士たちを扇動する邪魔者と映ったのでしょう。すぐ旭川の第七師団参謀長に転出させてしまいましたが、彼らの心をしっかり掴んでいた鈴木のいなくなったことが、やがてアウン・サンらを反日に走らせることにもつながっていったように思います。

 第十五軍は昭和十七年五月十八日、ビルマ全土を平定してビルマ作戦を終了しましたが、十三日にはマンダレーに潜伏していた反英運動家のバー・モウ博士を救出、六月四日、そのバー・モウを委員長とするビルマ中央行政機関設立準備委員会を発足させました。こうしてビルマ情勢が安定してくると、南方軍の中に、この際余勢をかって一気にインドに攻め込み、インパールからアッサムにかけての地域を押さえてしまおうという計画が生まれてきたのです。連戦連勝に沸き立っている時です。北アフリカ、コーカサスからスエズ運河を目指しているドイツ軍に呼応し、インド北東部を制圧すればイギリスに圧力をかけられる。南方軍は政治的効果も大きいと、「二十一号作戦」と名付けたインド進攻計画を大本営に提出、昭和十七年九月一日、第十五軍に作戦準備を指示したのです。

 しかし、この計面は、装備の貧弱な植民地軍に勝って、イギリス軍を甘く見ていたのでしょう。わずか一個師団で険しいアラカン山系の山越えをしようというもので、飯田軍司令官は「とても無理だ。今はまずビルマ防衛を全うすべきだ」。こう考えましたし、作戦主力に予定されている第十八師団長の牟田口、シンガポール攻略に武勲を立てて自信満々の牟田口でさえ、作戦地域の「地形困難」を訴えて反対したのです。この間、八月七日に米軍のガダルカナル上陸が始まり、参謀本部もそれどころではなくなってきました。十一月二十三日、作戦部長名で南方軍に「二十一号作戦の当分保留、実施の場合でも十八年二月以降とされたい」と、電報で命じてきました。ただこの電報はあくまで保留であって、作戦取り消しを明確に命じたものではありません。何となく延期になったところに、インパール作戦が一度は反対した牟田口によって、再び日の目を見る余地が残されていたのです。

 参謀本部はこの決定に先立って、各軍参謀長を集めて会議を開いていますが、第十五軍参謀長の諌山春樹少将が、
『インド進攻作戦はとても困難な作戦で、たとえアラカン山系の頂上線を占領しても、わが後方補給は決して平易安全ではない」。
こう報告したところ、
陸軍首脳部は消極的だと、諌山を更迭してしまいました。
インパールだけではなく、ガダルカナルでもそうでしたが、
「行け行け、どんどん」の積極論だけを良しとし、慎重論を腰が引けていると見倣しがちな日本陸軍の体質にも、「インパール悲劇」の種があったように思います。


 事情が変わってきたのは、昭和十八年三月十八日、ビルマ方面軍が新設され、牟田口がビルマ北部、中部を担当する第十五軍司令官に昇格してからでした。
方両軍の新設は、イギリス軍の反攻に対処するためでしたが、二月八日にチンドウィン河を渡って来たウィングート少将率いる挺身部隊に、当時牟田口が師団長の第十八師団は翻弄されたのです。
兵力は三、四千人と少ないものでしたが、昼間は密林に潜伏して無線進路により空中補給を受け、夜になると攻撃を仕掛けて来ます。
第十八師団は東奔西走一ヵ月、何とか撃退は出来たものの、牟田口は「ここからは攻めて来ない」と思っていたアラカン山系の峻険が、意外に安全ではないことを思い知らされたのです。
もともとが、「最良の防御は攻撃にあり」を信条としている牟田口です。
軍司令官に昇格すると同時に、一度は反対した「二十一号作戦」の実現、インド進攻計画に俄然熱意を見せるようになったのです。
彼が「作戦困難」と見ていたアラカン山系も、イギリス軍の行動を見れば必ずしも不可能ではない。
それなら従来のような守勢的防御ではなく、こちらから攻勢に出て、反攻基地になっているインパールを攻略すべきだ。
ただ牟田口は、イギリス部隊の行動が十分な空中補給があって初めて可能なんだという、この一番重要な点を見落としていたのです。


 牟田口の「インド進攻論」には、個人的な心情もからんでいました。昭和十二年七月七日に虚構橋事件が勃発した時、これを支那事変に拡大させる一発を撃たせたのは、当時支那駐屯軍の歩兵第一連隊長をしていた牟田口だったのです。牟田口はインパール作戦を説くとき、「私は虚構柵事件のきっかけを作ったが、事件は拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで発展してしまった。もし今後、自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争遂行に決定的な影響を与えることが出来れば、今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳がつく。男子の本懐として、まさにこの上なきことである」。こう付け加えるのが口癖になり、インパール作戦に異様な執念を燃やすようになるのです。

 牟田口は、インパール作戦の動機を「自責の念から」と言っていますが、幕僚たちは「俺はインパールを取って、大将になるんだ」。こうわめいている牟田口を見ていますし、やはり功名心、名誉欲が強かったのではないでしょうか。それにこの盧溝橋事件は、牟田口が冷静に対処していたら、あるいは些細な発砲事件で終わっていたかも知れないのです。日本陸軍一個中隊が夜間演習中、突然十八発ほど発砲されたのですが、働が発砲したのか。日本側の陰謀説、近くに駐屯していた中国第二十九軍の発砲脱、また中国共産分子の策謀だとか、いろんな説がありますが、未だに真相は分かりません。ただ牟田口は、中国軍に抗議の使者を派遣する時、「あくまで不拡大方針で臨む。向こうの弁解は、こじつけでも聞いてやれ」。こう言っていたのに、交渉中にまた発砲騒ぎが起こると、『攻撃命令』を出し、結局はこの命令が八年間に及ぶ日中戦争の原因となったのです。牟田口は、「事件を最小限に食い止めるには、この際一喝を食らわすことが賢明だと思った」と言っていますか、発砲で死者が出たわけではなし、交渉中に戦闘命令を出すあたり、あの頃の軍人特有の一撃論、同時に牟田口という人の性格をよく物語っているように思います。

 しかもビルマ方面軍司令官になったのが、この時、歩兵旅団長として牟田口の上司だった河辺正三中将だったのです。「盧溝橋のコンビ」がビルマで再現したことが、インパール作戦を大きく前進させることになります。牟田口の使命感は掻き立てられました。牟田口を知る人は、牟田口は一旦思い込むと、その思い込みが確信、信念となり、信仰にまで高めてしまう人だ、と言っています。ところが河辺は、本来なら牟田口の突出を押さえるべきだったのに、「何とか牟田口の意見を通してやりたい」と、私情に動かされて後押しすることになるのです。

 牟田口がインパール作戦の構想を明らかにしたのは、昭和十八年四月二十日、第十五軍司令官になって初めて開いた兵団長会議の席でした。集まったのは第三十一師団長の佐藤幸徳中将、第三十三師団長の柳田元三中将、そして牟田口に代わって第十八師団長になった田中新一中将です。雨季入り前後に急襲的に攻撃を開始し、雨季が本格化すれば敵の奪回行動は困難になるだろうから、作戦開始を五月下旬とする。こう言うのですが、牟田口がインパールだけに止まらず、ディマプールからアッサム州の奥深くまで進攻する意図を明言したものですから、一同ただ唖然とするぱかりだったと言います。

 六月が最盛期のアッサムの雨季は、それは凄まじいものなんだそうです。日本では一日百%降れば大雨ですが、世界一の雨量と言われるアッサムでは千句降ることもあり、年間総雨量は一万一千三百句にもなります。昨然たる豪雨はジャングルを叩き、大地を激しく打って、濁流が堰を切ったように土砂、岩石を運んで押し寄せて来ます。ちょっとした小川も水位がぐんぐん上がり、まず渡らなければならないチンドウィン河は、川幅が千なにも広がる大河になります。その光には、険しい山また山で、一面ジャングルに蔽われたアラカン山系が待ち構えているのです。雨季に倫えた準備はなく、作戦開始までの時間的余裕もありません。各部隊はウィングート兵団の掃蕩作戦に疲れ切っていて、休養が必要でした。一山に代わって第十五軍参謀長になった小畑信良少将は、「補給の権威」と言われた人で、「補給上、到底無理だ」。こう反対意見を述ぺると、たちまち更迭されてしまいました。そうこうするうちに雨季に入り、自然消滅の形になった作戦の実現に、牟田口はますます執念を燃やすようになります。

 河辺方面軍司令官がその熱意に動かされて、インド進攻作戦の兵棋演習を実施したのが昭和十八年六月二十四日でした。兵棋というのは、地図の上に各師団の駒を置いてそれを動かし、作戦が可能かどうか、問題点がどこにあるのか。そういったことを検討する図上演習ですが、作戦実施に意思統一を図る必要から、南方軍から総参謀剛長の稲田正純少将、大本営からは参謀の竹田官報聴少佐が参加しました。牟田口は、稲田に「死なねばならぬ時には、私を使って貰いたい。アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」。熱っぽく訴えましたが、稲田は『そんな無茶な作戦は話になりませんよ』と相手にもしません。大本営や南方車の心配は、むしろビルマ南部アキャブからの反攻でした。種田は「持てるだけの食糧弾薬で突進し、後は敵に糧を求めるというのは、捕らぬ狸の皮算用だ」。こう醤って補給の難点を指摘し、アッサムを目指す第十五錐の進撃方向にも再検討を要請しました。しかし演習の結論としては、チンドウィン河西方に防衛線を進める必要があるとして、「敵の策源地インパール攻略を目的にすべし」となってしまったのです。

 問題はここでした。「インパール作戦の合意」は、大本営や南方錐にとっては、あくまで補給とビルマ南部防衛に重点を置いた限定作戦だったのに、牟田口の方は北方に重点を置いて、あわよくぱアッサム州に攻め入ろうと、急襲突破の鵯越戦法を改めようとはしなかったのです。
竹田宮はインパール作戦にも「準備不足だ」とはっきり反対し、帰京後、参謀本部作戦課長に「第十五錐の考えは目茶苦茶な積極案です」と報告しています。
ですから大本営も、インパール作戦に否定的な考えが強かったのですが、それが牟田口構想通りに動き出すことになるのは、河辺方面軍司令官の一言でした。
方面軍参謀長の申永太郎少将が「第十五軍の作戦方式には問題点が多い」と報告したところ、
河辺は「最後の断は自分が下すから、それまでは牟田口の積極的意志を十分尊重せよ」と指示したのです。
日記に「予ハ同司令官ノ心持ヲ知ル」と書いているあたり、盧溝橋以来の仲に動かされたのは聞違いありません。
大本営も方面軍の強い要請がある以上は、無視するわけにもいかず、
昭和十八年八月七日、「ウ号作戦」と名付けたインパール作戦準備命令を南方軍に出したのです。
「インパールの悲劇」は、ここに第一歩を踏み出しました。


 牟田口がこの準備命令に基づき、第十五軍司令部に各師団長を集めて作戦計画を提示したのが八月二十五日です。ビルマ北部フーコン渓谷で米軍の支援を受けた重慶軍の攻撃が激しくなったため、田中中将の第十八師団はそれに当たることになり、インパール作戦は第三十一、三十三師団のほか、六月に新たに第十五軍に編入された山内正文中将の第十五師団で実施することになりました。ところが牟田口構想には、奇襲の成功だけを考えて、頑強な敵の抵抗にあった時の対策が用意されていません。これが、インパールで硬直化した作戦指導の原因にもなるのですが、山内中将は手記に『但し其の通り実現せず、変化せらるる状況の下に師団の使用せらるる場合の多き予想あり』と、不安を書いています。

 真っ先に「補給に責任が持てるか」と、最大の疑間をぷつけたのが、作戦には直接参加しない田中中将でした。補給担当参謀が「とても責任は持てません」と正直に答えたものですから、怒ったのは前年暮れまで参謀本部作戦部長をしていた田中です。この人はガダルカナル戦継続のため船舶増徴を要求して、認めようとしない東条首相を「それでも貴公は陸軍大臣か。この馬鹿野郎」と怒鳴って、重謹慎十五日の処分を受け、第十八師団長に回されてきた人です。南方軍の「二十一号作戦」に、補給上の観点から『待った』をかけたのも、当時作戦部長の田中でした。「そんなことでどうするか。この困難な作戦で補給に責任が持てぬでは戦は出来ん」。怒鳴りつける田中に参謀が絶句していると、牟田口はこう答えたというのです。『本作戦は尋常では遂行出来ぬ。糧は敵によることが本旨である』。そして「なあに、心配はいりません。敵に遭遇したら銃口を空に向けて三発撃つ。そうすれば敵は降参する約束になっている」。師団長たちが呆れ返って黙っていると、解散が宣言され不得要領のまま終わってしまいました。

 大体が、牟田口と作戦参加の三人の師団長は、肌合いが違い過ぎました。牟田口は緻密な作戦家というよりは、果敢な行動家。外国勤務は一度もなく、本人も野戦指揮官を自負し、支那事変、シンガポール攻略と、連戦連勝に自借滴々でした。これに対して山内は士官学校二十五期の首席。アメリカ陸軍参謀学校を卒業し、アメリカ駐在武官も務めた知性派です。柳田も二十六期首席で、何事にも理論と計算を重んじる合理主義者。最初から航空兵力と補給を欠いた作戦に、疑問を持っていました。山内と士官学校同期の佐藤は、かつては統制派の活動家でした。ところが佐賀県出身の牟田口は、同郷の皇道派総帥だった真崎甚三郎大将の一の子分でしたから、二人の間には「陸軍派閥の対立感情があった」という人もいます。

 山内の第十五師団はこの頃、中国戦線からビルマに移動中でした。タイに着いたところで、南方軍の命令で自動車道路の建設に当たりましたから、前線到着は遅れに遅れました。すると牟田口は、連絡に訪れた参謀に「十五師団は戦はいやなのか。戦がいやだから、いつまでもタイにいるんだろう」と、大声を張り上げたというのです。山内はこれを聞いて、手配に書いています。「こんな分からず屋の軍司令官の下に働くは潔しとは考えられず。情けもなく察しもなく、唯自分勝手にならぬのをどなるような将軍は、軍司令官たるの資格なきなり。師団としては何ともならざるも、悪い上官を持ったと諦めて将来処置する必要あるべし」-こうして戦闘責任者の師団長が、軍司令官との意思の疎通を欠いたままインパール作戦に突入するという、致命的な欠陥になるのです。

 それでも南方軍では、稲田総参謀副長が「作戦計画が修正されない限り、認可は出来ない」。こう言って、牟田口の暴走を押さえていたのですが、その稲田が昭和十八年十月中旬、ニューギニア戦線に転出してからは、南方軍も次第にインパール作戦に傾いていきます。そして第十五軍に、インパールヘの道を開かせる決定的な流れを作ったのが、実はインド独立運動の闘士チャンドラ・ポースだったのです。イギリス官憲の監禁下に置かれていたポースは、第二次大戦が勃発すると国外に脱出、まず頬ったのがドイツでした。「敵の敵は味方」。の論理です。しかしドイツでは祖国は余りに遠く、日本の参戦で今度は日本を頼ろうと十八年二月、ベルリンを出発したのです。そして四月二十八日、インド洋マダガスカル沖で、ポースを乗せたドイツ潜水艦と日本の伊号第二十九潜水艦が合流、スマトラから日本の軍用機で東京入りをしたのが六月十六日でした。朝日新聞は夕刊一面トップに、「チャンドラ・ポース氏来る忽然として東京へ」。この横トッバンで「印度独立に新降火東条首相ら要路と会談」と伝えています。

 東条首相は、このポースに大きな期待をかけたのです。秘書官に「あの愛国者に報いるのも、日本の使命だろう」と語っています。七月四日、シンガポールでインド独立連盟の大会が開かれ、ポースが「対英武力闘争」を叫ぶと、大勢のインド人聴衆は涙を流して競って献金したそうです。翌日、市庁舎前で一万人のインド国民軍を閲兵したのですが、これはマレー作戦で日本車の捕虜になったインド兵で編成されたものです。東南アジア歴訪中の東条首相も閲兵に加わりましたが、ポースは満足そうな東条を見て囁きました。「閣下、三倍、いや五倍にわが軍を増やしたいと思います」。この時東条の心にも「ポースを押し立てて、インドの一角に自由インドの旗を掲げたい」。そんなパラ色の夢がふくらんだのではないでしょうか。インド国民軍は最終的には二万人の大部隊になり、軍司令官に就任したポースも、インパール作戦を熱望するようになるのです。

 もう一人、ポースの激しい戦意、祖国愛に惚れ込んだのが、方面軍司令官の河辺でした。日記に「この人を得た上は、インド進攻作戦は必ず政略的にも有効な成果をおさむべし」と、自信を新たにしています。インパール作戦は勿論、牟田口が軍司令官でなければ始まらなかったでしょう。しかしそれは、河辺の支持があって初めて可能なものでした。そして南方軍総司令官の寺内もまた、インド国民軍との連合作戦で戦局を打開したい。そうすれば政治的効果も大きいと、インパール作戦決行の方向に動いていくことになるのです。

 十一月五日には、東京で大東亜会議が開かれました。八月一日のビルマ、十月十四日のフィリピン独立に続いて、二十一日にはポースの自由インド仮政府がシンガポールで樹立され、大東亜各国の首脳を集めて政治的結集を図ろうとしたのです。東条首相にとっては、戦局の厳しさも忘れさせてくれる晴舞台であり、得意の絶頂の時だったのでしょう。東京・用賀の私邸応接間には、敗戦まで貴族院一号委員会室で開かれた会議の写真が誇らしげに掲げてあったそうです。コの宇型の机の中央には軍服姿の東条が陣取り、両脇には六人の大東亜首脳、南京政府主席汪兆銘、満州国総理張景息、タイ国首相代理ワンワイ、フィリピン大統領ラウレル、ビルマ首相パー・モウ、そしてオブザーバーのポースが座っています。翌日には、大東亜戦争完遂の決意と大東亜共栄圖確立を鴎った共同宣言が発表されましたが、各国の間にはすでにきしみが表われつつあったのです。’

 「顕著な欠席者がいる」と、タイのピプン首相の名前を挙げて、鋭く指摘したのがオーストラリア放送です。日本の傀儡政権の代表ばかりの中にあって、唯一の正統政府はタイでしたが、ピブンは国内の反日気分に配慮し、[自分が出れば日本に屈伏したことになる]と、距離を置きました。病気を理由に欠席し、政治的には無難な王族のワンワイ殿下を代理i席させたのです。占領地の資源は日本の物資動員計画の中に組み込まれ、「現地調達」という名前の日本軍の容赦ない収奪も始まっていました。それは、バー・モウ首相が「日本軍の物資強要は、ビルマの民生を虐げつつある」とこぽすほど、ひどいものでした。そんな中でただ一人、日本に協力し、戦争にも積極的な態度を見せたのがポースだったのです。東条首相にも、「何とかポースの期待に応えたい」という気持ちが強くなっていくわけです。

 連合国陣営もこの時期、相次いで首脳会談を開いています。まず十一月二十二日、カイロにルーズペルト、チャーチル、蒋介石が集まり、「カイロ宣言」で日本が第一次大戦後に獲得した南洋陳島の剥脱、満州、台湾の中国への返還、朝鮮独立を明らかにしました。二十八日のテヘラン会談には、蒋介石に代わってスターリンが出席し、ドイツ降伏後の対日参戦を約束、その代償として千島列島と南樺太領有、旅順、大運での優越的地位を要求しています。連合国の方は、この時すでに勝利を確但し、戦後断面を着々と立案しつつあったのです。

 第十五軍がインパール作戦実施に向けて、最後の詰めともいうべき兵棋演習を実施したのが、昭和十八年も暮れようとする十二月二十二日でした。南方軍からは、稲田に代わって総参謀副長になった綾部橘樹少将が出席しましたが、作戦決行の可否を判断し、寺内総司令官に復命するたです。牟田口は「インパールは天長節までに、きっと占領してご覧にいれる」と意気軒高、綾部にも「是非断行するよう、大本営に具申されたい」と強調します。実は綾部に同行した南方軍の参謀は、第十五軍や作戦参加師団の参謀たちが作戦断面に心から同意していない実情を知り、また補給の観点からも、綾部に強く作戦中止を進言していたのです。綾部自身も、直前まで参謀本部作戦部長をしていて作戦に反対していた一人でした。それが結局、河辺方面軍司令官の確信も確認した上で、「作戦決行」の判定を下し、二十八日に寺内の決裁を受けたのですが、なぜだったのか。綾部は「第一線軍司令官の攻勢意欲をそぐことは好ましくない。また中止の場合、軍内に生ずる混乱を懸念した」。こう言っていますが、軍事的合理性よりも組織の融和を重視したあたり、すでに作戦決行に傾いている寺内総司令官の意向に沿いたい。その気持ちが、強かったのではないでしょうか。

 綾部は昭和十九年一月四日、上京して杉山元参謀総長に作戦の認可を求めました。「インパール作戦は本年二月頃開始し、長くてIカ月、または五週間以内に終了する。その頃からビルマは雨季に入り、今が好機だ」。こう言うのですが、綾部に代わり作戦部長になっていた真田穣一郎少将は、「ビルマ防衛は持久戦によるべきで、そんな危険な賭けに出るべきではない」と反対です。作戦課も一貫して「今や太平洋の対米決戦に全力を結集すべき時だ。ビルマに兵力分散は許されない。インパールの地形を考えると、補給が困難なのは明瞭で、第十五軍にその準備や確信があるとは思えない。断じて中止させるべきだ」との意見でした。

 真田は綾部に、四つの疑間点について質しました。ビルマ南部にイギリス軍が上陸して来た時、インパール作戦中にその対応がとれるか。兵力増加を必要とすることにならないか。劣勢な航空兵力で地上作戦に支障はないか。後方補給の心配はないか。しかし綾部は、「南方軍はいずれも確信を持っている」と答え、「この作戦は寺内総司令官の強い要望によるものだ」。結局は、この一言がインパール作戦を決行に踏み切らせることになります。杉山参謀総長は「寺内のたっての希望であるならば、南方軍の出来る範囲でやらせてもよいではないか」。真田に翻意を促し、一月七日付で大本営の認可となったのです。

 こうしてインパール作戦は正式に動き出したわけですが、陸軍大臣を兼務している東条首相も、真田と同じような質問をしたといいます。しかし、すでに作戦決行を決めてしまった参謀本部の答えも、南方軍同様「問題なし」でした。厳密に検討すれば、どれ一つをとっても、とても決行どころではなかったでしょう。インパール作戦決定に至る経過を見ると、ビルマ方面軍、南方軍、参謀本部にしても、作戦部門は一貫して反対していました。ところが首脳部の方は、作戦計画を綿密に検討することもなく、情に動かされたり、作戦がうまくいけばと、淡い期待をかけての決定になってしまったのです。ここに、最大の問題がありました。

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 南方軍がインパール作戦の実施命令をiしたのは、昭和十九年一月十五日でした。牟田口軍司令官はこれを受けて二十七日、第十五軍の作戦会議を開いて作戦計画を提示したのですが、まず三月八日、柳田中将の第三十三師団が南から攻撃を開始し、インパールのイギリス第四軍を牽制する。次いで十五日、山内中将の第十五師団が中央から、佐藤中将の第三十一師団は北方から急襲的にチンドウィン河を渡河する。第三十一師団はインパール北方のコヒマを占領して、敵の増援を遮断し、その間に第十五師団と第三十一師団がインパールの敵を包囲殲滅する。 こういうもので、初期作戦期間は二十日間とされました。

 しかし、牟田口の最初の計画では、作戦開始は二月、作戦期間もIカ月の予定だったのです。それが三月にずれ込み、作戦期間も短縮されたのは、中央突破を図る第十五師団の前線到着が遅れたためでした。中国戦線で戦っていた十五師団は、タイに着いたところで自動車道路建設に使われましたが、これは当時南方軍総参謀副長だった稲田少将が、牟田口に余計な兵力を与えれば暴走しかねない。それを押さえるための措置だったとも、戦局悪化によるタイ国内の動揺を心配した南方軍が、意図的に第十五師団の出発を遅らせたためだとも曾われています。しかもタイから前線に駆け付けるには千二百・。、東京から福岡あたりまで徒歩行軍しなければならないのです。十五師団主力の到着は、早くても三月十五日とされました。五月の中・下旬から始まるアッサムの雨季を考えれば、逆算してこの日が作戦開始のぎりぎりで、たとえ師団の三分の一が到着しなくても攻撃決行となったのです。しかし、長途の行軍に疲れ、作戦準備も乏しい部隊です。中央突破を図る第十五師団の戦力は、どんなにひいき目に見ても半個師団にも炭たなかったと言われ、この戦力欠如と作戦開始の遅れが最初の誤算となりました。

 それもこれも、牟田口の急襲突破一辺倒の作戦構想、そして飛行機、戦車、重砲と、近代装備のイギリス軍を甘く見たことが原因だったのです。牟田口は口さえ開けば、「なあに、イギリス・インド軍は中国軍より弱い。果敢な包囲、迂回作戦を行えば必ず退却する。補給を重視して、とやかく心配するのは誤りである。マレー作戦の経験に照らしても、果敢な突進こそ戦勝の近道である」。装備の貧弱な植民地軍に勝った経験をひけらかしていましたが、瞬間的な突破力だけを重視し、敵を撃滅するのに必要な戦力を、どうやって機場の要点に集めるのか。その配慮が全く欠けていました。

 しかも急襲突破の成功、この一点に成否をかけた作戦構想は、そのシワ寄せが攻撃力と補給に集中することになったのです。各師団にとって問題は、攻撃部隊を「突進隊」、[猛進隊]と名付けたことでも分かるように、どうやって二十日間、後方補給に頼らずに進撃を続けられるかどうかでした。険しいアラカン山系を登ったり下りたりして攻撃するのですから、重いものは持って行けません。まず重砲など重火器が制限されました。分解して、兵隊たちが背負って運べる運べる高地攻撃用の山砲程度です。第三十一師団が「九四式」と首って、皇紀二千五百九十四年、昭和九年採用の山砲十七門、砲弾は一門当たり百五十発。第三十三師団は『九四式』九門と大砲が少ない代わり、砲弾は一門八百発でした。第十五師団に至っては、威力の小さい連隊砲が六門、砲弾各二百発。四門の山砲は「三一式」、明治三十一年採用という旧式なもので、まあ太平洋戦争を日清戦争で戦うようなものです。もっと深刻なのは、砲弾の不足でした。こっちが一日一門三発ぐらいしか撃てないのに、イギリス軍の方は数千発も撃ち込んできます。結局は、この圧倒的な火力の差が、インパール作戦失敗の大きな原因になったのです。

 兵隊の装備は小銃弾二百四十発、手榴弾六発に、食糧は一日六合として二十日分一斗二升でした。これだけでも三十七、八・。の盧さになります。そこで牟田口がとったのが、ジンギスカンが遠征の軍を起こすに当たって、常に多くの家畜を遵れていった戦法でした。一睨には牛三万瞑、馬二千韻、さらに数百韻の象を動員したと言われますが、これで兵器、弾薬、食糧、資材を運び、食糧が不足すれば、その牛馬を殺して食べる。作戦期間を二十日間としたのも、兵隊が自分で持って行ける範囲内でインパールを攻略すれば、ここは敵の補給基地だから食糧は同咽ないと考えたからでした。牟田口は「蒙古人は野菜はほとんどとらないが、生肉を常食としているから大丈夫なんだ」。こんなことを言っていたそうですが、野菜不足は多くの脚気患者を生むことになります。

 そして「ジンギスカン戦法」は、あくまで机上の計算に過ぎなかったのです。ビルマの牛はほとんどが農耕用に使われていて、日本の牛のように荷物を運んだ経験がありません。まあ、これだけ日水軍に徴発されれば、バー・モウ首相が「民生を虐げている」と嘆くのも分かりますが、口本の兵隊の方も農村出身者以外はほとんど牛に触ったことさえありません。各連隊は二百五十人ほどの「駄牛中隊」を編成し、まず牛に慣れることから始め、次に鞍をつけることに牛を馴らし、その鞍に荷物を積んで進むことを教えなければならなかったのです。牛の世話に追われて、その分戦闘要員が不足することになりました。

 どうにかチンドウィン河を渡っても、アラカン山系の険しい山には、牛や馬の食べる牧草が生えていません。牛両用の飼料は携行していませんから、見る見る痩せ細り、途中で倒れるものが続出したのです。積んでいた弾薬や食糧の大半はそのまま放置され、歩兵用の弾薬などは最初の携行量の半分以上も戦場に届かなかったと言われます。象はジャングルに入る前に引き返し、生きて再び阿を渡って帰ってきた牛はなく、馬も半分ほどに減っていたそうです。

 その上、万一作戦が長引いた場合の後方補給が用意されていなかったのです。タイからビルマヘの軍事鉄道としては、映画『戦場にかける橋』で有名になった奉緬鉄道が、前年の昭和十八年十月に完成していました。
全長四百二十五km。
険しい国境山岳地帯とクワイ河沿いのジャングルを切り開いた難工事で、栄養失調やコレラ、マラリアなどで連合軍捕虜一万人余り、現地の労務者三万人が死亡し、
戦後、日本車の残虐行為として、工事関係者111人が戦犯の罪に問われています。
インパール作戦の場合、問題は、奉緬鉄道の駅からチンドウィン河まで130kmから160kmもあったことです。
当然自動車輸送に頼らなければならず、第十五軍は自動車中隊百五十、輜重兵(しちょうへい:兵站を主に担当する日本陸軍の後方支援兵科の一種)中隊60を要求したのですが、日本にはもうそんな力はありません。
南方軍の内示は、自動車中隊二十六、輜重兵中隊14と大幅に減らされました。
それも遠くシンガポールや太平洋戦線から転用するというのですから、インパール作戦にはとても問に合わず、実際は「紙に書いた数字」に過ぎません。
第十五軍司令部にも、前線へ送る食糧、弾薬どころか、その手段さえなかったわけです。


 さらに開題なのは、牟田口が作戦会議に集めたのは各師団の参謀長だけで、三人の師団長は呼ばなかったことです。牟田口はかねがね「作戦不成功の場合を考えるのは、作戦に疑念を持つことであり、必勝の信念と矛盾する」。こう言っていましたから、階級が同じ中将で、何かと理屈を並べる師団長の反論など聞きたくもなかったし、一気に作戦を押しつける積もりだったのでしょう。
しかし、戦闘責任者の師団長が軍司令官の意図も作戦内容も十分納得しないまま戦うことになり、作戦の円滑を損なう結果になっていきます。第三十三師団長の柳田は、幕僚に「大変な戦になるぞ」と洩らしていましたし、第十五師団長の山内も重火器制限を聞いて、手記に「対支那戦法脱せざる感あり」。近代装備のイギリス軍相手の戦闘に不安を書いていますが、本当にその通りになるのです。


 山内は、自分の部隊が長途の行軍に疲れ切っていることを知っていました。せめて食糧だけは、少しでも余計に持たせてやりたいと思ったのでしょう。「糧食二五日分の携行法」として、「七日分は各自携帯、中隊は二人一級で二十五々。担ぐもの三十組を作り、これで八日半分携行する。駄馬で四日半分持って行き、連隊に牛二百五十頭を支給、これで二口分を携行し、牛を食うことによって三日分に代用する」。どうやって二十五日分にするか、苦心のほどを書いていますが、兵隊たちも軽業師的な作戦に、一様に不安を感じなから戦場に向かいます。

 実は、インパール作戦がまさに始まろうとしている時、その三日前の三月五日夜、重大な警報が出ていたのです。ウィングート少将率いる空挺部隊がビルマ北部、第十五軍の背後に降下して来たのです。ビルマ防空を担当する罫五飛行師団長の田副登中将は、すぐ牟田口の所に駆け付け、「インパール作戦を中止し、この敢に当たるべきだ」。こう進言したのですが、牟田口は聞きません。「単なる後方撹乱だろう」と言うのです。田副は空からの偵察で、集城資材を空輸していることを掴んでいました。しかも第五飛行師団は、一月に爆撃機五十四機が南方戦線に転用され、実働可能機数は百機ほどに減っています。「敵は飛行場を建設するでしょう。そうなればビルマは内側から混乱し、インパール部隊への補給も中絶することになります」。第十五軍の援嘆が出来なくなると訴えたのですが、牟田口の作戦計画には最初から航空支援は入っていません。飛行師団に求めたのはチンドウィン河渡河の際の戦闘機による援護だけで、飛行機の力というものを全く軽視していました。『敵は自ら求めて袋の鼠になった。虎の子の空挺を降ろしてきたことは、これ以上の幸いはない。空挺作戦に注意を奪われている虚に乗じて、インパール攻略を断行する」と言うのです。田副はラングーンにも飛んで、河辺方面軍司令官にも作戦中止を求めたのですが、河辺は「インパール作戦は始まったばかりだ。たとえ方面軍がやめると言っても、もはや大本営はお許しにならないだろう」と、受け付けません。

 ところが、この空挺部隊はそんな生易しいものではなかったのです。イギリス軍はまず百機のグライダーに二個旅団、九千人を乗せ、グライダーは使い捨てにして、兵器、弾薬と共に大量の築城資材を空輸していました。強固なコンクリート陣地を作り上げると、飛行場建設にかかり、さらに二個旅団を送り込んで来たのです。イギリス第四軍司令官のスリム中将は、空からの偵察で日沸軍のインパール作戦の動きを的確に掴んでいました。手薄になった第十五軍の背後に空挺部隊を送り、ビルマ北部、中部一帯から日水軍の一掃を狙った作戦だったのです。

 深刻な影響は、二週間後には早くも出てきました。高松宮海軍大佐は三月十九日の日記に、北部ビルマに五箇所の飛行場が出来、この方面の第十八師団は完全に補給路を断たれ、インパール作戦の袖給路も脅威を受けるようになった。「作戦ノ成否ニモ疑問ヲ懐カルルコトトナレリ」と書いています。高松宮は海軍の参謀ですから、当然陸軍の参謀から聞いた情報なのでしょうが、参謀本部がそこまで分かっていながら、なぜすぐ方面軍に適切な指示をしなかったのか。インパール作戦に増援予定の一個師団半は、空挺部隊との戦闘にかかりっきりになり、ただでさえ劣勢の航空部隊も、この攻撃に手いっぱいになりました。そしてインパール作戦の部隊は、「上空を飛び回っているのはイギリス機だけ」と嘆くことになり、空からの攻撃で大きな打撃を受けることになるのです。
私が「高松宮日記」を貌んでいつも感心するのは、高松宮が実によく情報を集め、しかも的確な分析をしていることです。陸海軍首脳部がこれくらい情報を大切にしていたら、ずいぶん違っていたのではないでしょうか。


 それでも三月八日から始まったインパール作戦は、最初だけは順調に進みました。南から攻撃を開始した第三十三師団は、十三日夕刻にはトンザン、シングルを占領してインパール街道を遮断し、イギリス第十七師団を狭い谷の中に包囲したのです。十五日には第十五、第三十一師団のチンドウィン河渡河も無事に成功し、それぞれインパール北方とコヒマを目指して進撃していきました。

 しかし、攻撃力の差は歴然でした。第三十三師団は包囲はしたものの、戦車を先頭に立てたイギリス軍の反撃に死傷者が続出したのです。第二百十五連隊長は三月二十五日、「暗号書ヲ焼キ、軍旗ヲ処理シテ、全員玉砕の覚悟ニテ奮闘ス」と電報してきました。連隊長の気持ちは最後の「奮闘ス」にあったと言われますが、柳田師団長は連隊全滅の危機ととり、二・。西方に撤退して、退路を開放するよう命じたのです。イギリス軍はそこから撤退していきましたが、柳田が牟田口に宛てて「我編成装備は極めて劣弱にして、敵に比し総合戦力不十分。徒に人的消耗を来し、今やインパール攻略は不可能に近く、仮令、之が攻略なるも爾後の防御困難なり」。こういう電報を打って「作戦中止」を具申したものですから、牟田口はカンカンです。柳田とすれば「敵に戦車があるのに、こちらは徒手空拳」の思いだったのでしょうが、「戦意不足」と見倣され、五月十六日に解任されます。

 失敗の連続だったインパール戦の中で、見事な戦いで「名将」と言われたのが第三十一師団宮崎支隊の宮崎繁三郎少将です。日本陸軍の伝統といえば「白兵突撃」ですが、宮崎はそんな画一的な戦闘法はとらず、兵隊たちの特技で戦わせたのです。手榴弾投擲の得意な兵隊には手榴弾だけ、射撃が得意なら弾丸をたっぷり持たせ、銃剣術に優れていればその長所を生かす配置をして、四月六日にはコヒマを占領しました。コヒマは、鉄道が通っているディマブールと、インパールとを結ぶ唯一の陸路の中間にある要衝です。第十五、第三十三師団によるインパール包囲態勢も出来、大本営は『もうすぐ攻略だ』と鳴り物入りで発表しましたが、日本車の進撃もそこまでだったのです。四月半ばを遜ぎると制空権は完全に奪われ、猛烈な砲爆撃に曝されて攻撃力は急速に低下していきました。

 しかも、一見順調に見えた日本軍の進撃は、イギリス軍にとっては予定の行動だったのです。スリム中将は、第十五軍の後方に空挺部隊を送ると共に、十五軍正面の部隊には後退作戦をとらせました。日本軍に険しい山越えをさせて疲れさせ、インパール盆地に誘い込んで、補給路が延び切ったところで叩こうというのです。形の上では日本軍が包囲していても、イギリス軍の抵抗は円筒陣地を構築して頑強でした。砲兵を真ん中に置いて、その周りを円を描くように戦車、重火器で固め、こうした防御陣地が蜂の巣のように配置されています。陣地同士は無線で連絡を取り合い、上空には飛行機がひっきりなしに飛んできて、攻撃、補給に当たります。まあ、どっちが包囲しているのか、分からないようなものでしたが、戦線が膠着してくれば、補給無視がまず糧食欠乏となって、じわじわやって来ました。

 コヒマでは、一面のテニスコートを挾んで、わずか40m~50mの間に日英両軍が対峙していたんだそうです。
話し声も聞こえるし、朝には朝食の匂いがプーンとして、すきっ腹にこたえました。
わずかにありついたのが、空からの『敵さん給与』です。
イギリス軍輸送機が色とりどりのパラシュートで補給物資を投下したのですが、お互いの第一線が余りにも近過ぎたため、かなりの量が日本軍の方に落下しました。
茶色の麻袋を開けると一斗缶が四個。
その一つずつにバン、ミルク、煙草に缶詰、チョコレートからブランデーまでぎっしり詰まっています。
それに引き替えわが兵糧といえば、焼き米に岩塩。
それさえなくなって、兵隊たちは
牟田口が「食欠乏せぱ、敵を蹴散らしてこれを取れ」。こう言っていたのを知っていましたから、
「冗談じゃねえ。てめえがここまでやって来て、蹴散らしてみろってんだ。無駄口ばかり叩きやがって…」と、怒ったそうです。

 牟田口も焦りを感じて、四月二十一日にインパール総攻撃を決行することにして、十七日、佐藤第三十一師団長に宮崎支隊を第十五師団に増強するよう命じたのです。しかし、コヒマ攻防戦が激化している時で、佐藤とすればとんでもない話です。「兵力抽出不可能」と返電し、拒否をしました。命令違反でしたが、牟田口も統率力がないと思われるのがいやだったのでしょう。表沙汰にせず、二十九日に「抽出中止命令」を出しましたが、この日は牟田口が「インパールは天長節までに必ず占領してご覧にいれる」。こう豪語していた、まさにその日でした。そして日が経てば経つほど、敵はどんどん増強されていくのに、日本軍の戦力は四〇%前後に低下、弾薬の補給もほとんどなく、ただ消耗を重ねるだ肘になっていったのです。

 それにしても驚くのは、ビルマ方面軍、南方軍の上級司令部が、この日までインパールの戦場に一人の参謀も派遣していなかったことです。実情を知らないままに楽観していましたが、それが愕然とすることになったのは、五月三日に前線を視察してきた方面軍補給担当参謀後勝少佐の報告でした。泰彦三郎参謀次長が南方各地を視察中で、そのため初めて参謀を出したのですが、その報告は「彼我の戦力、補給能力、敵軍の抗戦意欲などを考えると、敵軍の自主的降伏、または退却という奇蹟が起こらぬ限り、攻略は不可能である」。さらに「補給と雨季の状況を考えれば、作戦遂行の限度は五月末までである。故に、一応全力をあげて攻撃を続行するが、事の成否に拘らず、五月来には作戦を終了することが肝要である」と言うのです。

 この報告には、秦参謀次長に随行した参謀本部作戦扉作戦班長の杉田一次大佐か立ち合っていました。この人は戦後、自衛隊陸将になり統合幕僚会議の議長を務めた人ですが、四月に作戦班長になったばかりで、代々作戦里で占めてきたこのポストに中学出の英語組、情報畑の杉田を持ってきたのは、戦局の悪化でやっと情報の大切さに気が付いたのでしょう。杉田には意外な報告でした。方面軍司令官の河辺から「インパールは牟田口に任せておいて大丈夫です」と、聞いたぱかりだったからです。杉田は後少佐に細かく質問した後、自分の目で見て来た後の報告は正しいと見て、参謀本部に「インパール作戦危機」を打電したのです。この情報はすぐ高松宮の耳に入ったとみえ、五月五日の「高松宮日記」には「陸軍デハ『インパール』作戦ノ報導ヲ薄クシ、支那河南作戦ノ報導ヲ以テ打消スベク方針ヲ決ス」とあります。太平洋戦線の玉砕続きを打ち消すため、連日新聞紙面を派手に飾ってきたインパール報道は、こうして次第に姿を消していくのです。

 秦参謀次長の南方視察報告は五月十五日、東条参謀総長以下陸軍首脳部出席の席で行われました。東条はトラック島の連合艦隊根拠地が壊滅的な打撃を受けた直後の二月二十一日、「国務と統帥を一体化させる必要がある」として参謀総長になり、海軍大臣の嶋田繁太郎にも軍令部総長を兼任させていました。軍の作戦については、陸軍大臣を兼務している東条といえども口出し出来ず、戦局の悪化で 「これでは戦争遂行も覚束ない(おぼつかない)」と思ったのですが、異常ともいうぺき権力の集中は、陸軍部内でさえ「東条幕府だ」、「権力亡者だ」と、大変評判の悪いものでした。

 それはともかくとして、奉は「インパール作戦成功の公算、低下しあり」と報告したのです。杉田大佐の実感は「もうとてもダメだ」でしたが、突然ショック与えてはというので、婉曲な表現に『作戦中止』の含みを持たせたのだそうです。ところが、東条は激怒しました。『どこが不成功なのか、何か悲観すべきことがあるのか』。居丈高に秦に詰め寄り、「若年の一参謀の報告を僑じて啼って来るとは何事か」と、満座の中で叱り付けたのです。種村大佐は『大本営機密日誌』に、「総長としては、この作戦の成功には政治的にもかけていた期待が大きかっただけに、気に入らなかったのであろうが、すぐ前の三笠宮にいっているようでもあった。一座はすっかり白けきって解散した」と書いています。つまり、参謀木部参謀として出席していた三笠宮少佐の口から天皇の耳に入り、ますますの戦局の悪化で天皇の信頼を失い、政権維持が難しくなるのを恐れたというのです。

 確かに東条にとっては、この時期、インパール作戦の成功は唯一と言っていいほどの光明だったのでしょう。河辺方面軍司令官に「インパール作戦は今や世界的問題なり。ビルマ方面軍はインパールを攻略すべし」と命令したのです。東条の「インパール作戦継続」の命令は、「インパールの悲劇」を最小限に食い止める最初のチャンスをつぷしただけではなく、かえって第十五軍を督励し、苛酷な戦闘を強いる結果になっていきます。

 インパールの雨季は、例年より早くやって来ました。前線への補給は絶たれ、田副第五飛行師団長のもとには、空中補給を依頼する佐藤第三十一師団長の悲痛な電報が届きました。「弾一発、米一粒モ補給ナシ、敵ノ弾、敵ノ糧食ヲ奪ッテ攻撃ヲ続行中。イマ頼ミトスルハ空中ヨリノ補給ノミ。敵ハ糧食弾薬ハモトヨリ武装兵員マデ空中輸送スルヲ眼前二見テ只々慨嘆ス」。結核で病床に倒れていた山内第十五師団長からも、緊急電が入ってきました。「第一線ハ撃ッニ弾ナク今ヤ豪雨ト泥淳ノナカニ傷病ト飢餓ノ為二戦闘カヲ失ウニ至レリ。第一線部隊ヲシテ此二立チ至ラシメタルモノハ実二軍ト牟田ロノ無能ノ為ナリ」。しかし第五飛行師団の実働可能複数は百機にも満たず、それも交通線を守るために、ウィングート兵団の攻撃にかかりっきりになっていたのです。

 第三十一師団の兵隊たちは、『コヒマ戦記』と名付けた、こんな即席の歌を歌っていたそうです。「昼は飛行機夜は迫これは迫撃砲のことですが雨と降りくる弾の中今日も出て行く肉攻班お国のためとはいいながらほんとにほんとにご苦労ね』。そして「雨のアラカンどこまでも担架かついでさまよえど米の補給はさらになし糧を求めて移動するほんとにほんとにご苦労ね」と続きます。第三十一師団には、四月下旬にジープ十五台で山砲弾が五百発、五月に入ってジープ三台でわずかな「陣中見舞」が届いただけでした。佐藤師団長は痩せ衰え、破れた軍服で雨に打たれなから歌う兵隊を見て、胸ふさかれる思いだったのでしょう。このままでは師団が壊滅すると、五月二十五日、第十五軍に「師団ハ今ヤ糧食絶工山砲及歩兵重火器弾薬モ悉ク消耗スルニ至レルヲ以テ遅クモ六月一日迄ニハ『コヒマ』ヲ撤退シ補給ヲ受ケ得ル地点迄移動セントス」と打電したのです。

 これには、さすがの牟田口も驚いたようです。三十一日、軍参謀長に「貴師団が補給困難ヲ理由ニ『コヒマ』ヲ放棄セントスルハ諒解二答シムトコロナリ、尚十日間現態勢ヲ保持サレタシ・・・断シテ行ヘハ鬼神モ避ク」。こう打電させたのですが、佐藤はもう聞きません。「コノ重要方面二軍参謀モ派遣シアラサルヲ以テ補給皆無、傷病者続Iノ実情把握シ居ラサルモノノ如シ、状況ニョリテハ師団長独断処置スル場合アルヲ承知セラレタシ」。こう返電して、宮崎少将に殴を任せ、六月一日から独断撤退を開始したのです。

 これまで個人の戦線離脱はありましたし、小人数の部隊がはぐれて任地を離れたこともありました。しかし戦略単位の一個師団が、一体となっ戦線を離脱したケースはありません。陸軍刑法では「死刑」に当たる罪です。佐藤は「補給無視を責める」という名のもとに、覚悟の行動だったのでしょう。「命令拒否」の決意を示すため、撤退と同時に無線を封止して第十五軍との連絡を断ってしまったのです。牟田口としては、軍司令官の体面にも関わる不名誉な問題です。六月二日。  「師団主カハ補給ヲ受ケタ後、第十五師団ト連携シ、インパール攻撃ノ準備ヲセョ」。こう命令して、コヒマから七十・。ほど離れたウクルルまでの後退を追認したのですが、命令違反を回避させる措置でした。

 インパールの戦いで、「作戦決定」以上に無責任だったのが、「作戦中止」の決断だったと言ってもいいでしょう。方面軍司令官の河辺が、前線視察に出たのは五月二十五日でした。自分の目で見て判断するためでしたが、どの師団もひどい状況なのはすぐ分かったはずなのです。ですから六月五日、頬がこけ、目を血走らせている牟田口を見て、「もし牟田口が作戦中止を進言するなら、それを承認する気持ちでいた」と言います。とろが牟田口は、何度かロまで出かかって躊躇する様子は見せたものの、結局は結核の山内第十五師団長の更迭と、遠慮がちに兵力増加の要望を申し出ただけでした。

 牟田口は後で「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すぺく、脈をとりに来たことを十分承知したが、どうしても将軍に吐露することが出来なかった。私はただ、私の風貌によって察知して賃いたかったのである」。こう言っていますが、阿辺は確かめることもせずに帰途につき、「中止決断」の最後のチャンスは失われたのです。河辺には、前線で握手したインド国民軍将兵の顔が焼き付いていました。「若し冷静にこの戦況を客観することが許されるならば、この時既に予は作戦中止の決心に出たであろう。しかし、この作戦には私の視野以外にさらに大きな性格があった。なんらか打つべき手の一つでも残っている限り、最後まで戦わねばならぬ。そしてチャンドラ・ポースと心中するのだ、と予は自分に言い聞かせた」。二人とも「もうダメだ」と分かっていながら、腹の探り合いに終始し、『敗戦』を口に出す勇気がなかったのです。

 第三十一師団の退却は続いていました。佐藤師団長はウクルルにも糧食がないと分かると、軍の補給点になっているフミネに向けて後退を続けたのです。六月二十二日には、遮断していたコヒマ・インパール街道が突破され、戴戦車が続々とインパール盆地に進入して来ました。牟田口も堪忍袋の緒を切らして、翌日、河辺方面軍司令官に「情状酌量ノ余地ナシ、佐藤ヲ召喚シ、軍法会議ニカケテ厳重二処断セヨ」。こう電報を打ちましたが、破滅的な状況になっていることは牟田口にもよく分かっていました。第十五軍参謀長が牟田口の意中を察して、二十六日、方面軍に対する「作戦中止」具申の文案を作成すると、牟田口は何も言わずに決裁し、すぐ打電させたのです。大本営にも三十日、南方軍から「インパール作戦ハ逐次コレヲ抑制スルノ要アルヤモ知レズ」。及び腰ながらも「作戦中止」の許可を求める電報が届き、さすがの束条参謀総長もあきらめたのでしょう。翌日の七月一日、天皇に上奏して裁可を得ると、インパール作戦中止命令は五日、牟田口に伝達されたのです。佐藤師団長の罷免もこの日発令されましたが、佐藤は「牟田口と、河辺と、南方軍と、大本営と、バカの四乗なり」と言ったそうです。

 この決定までに、何と時間のかかったことか。しかし作戦は中止されても、悲惨な撤退はまだまだ続いていたのです。マラリアに赤痢、そして飢えに喘ぐ兵隊たちは、猛烈な豪雨の中、三々五々と長蛇の列を作り、泥濘(でいねい:ぬかるみ)の道をよろめきながら、ひたすら歩きました。イギリス軍の爆撃、戦車に追われ、山道にハシゴをかけ、木の根を伝って逃げましたが、小銃は捨てても飯倉だけは放さなかったそうです。道端には、行き倒れの兵隊が増えていきました。虚ろな目を間いたまま、願中に群がる蝿を追い払う気力もなく、忍び寄る死を待つだけ。ボロボロの軍服の兵隊が夢遊病者のように寄ってきて、「兵隊さん、お願いです。米を…」とすがります。兵隊が兵隊を見て「兵隊さん」と言う。まさに「兵隊乞食」でした。

 朝日新聞記者として従軍した丸山静雄は、爆音が聞こえて、橋桁の下に駆け込むと、兵隊が一人寝ています。敵機が去ってホッとしてその兵隊を見ると、白骨の兵隊でした。頭蓋骨が戦闘帽をかぷり、白骨の手が手袋をはめ、白骨の足が靴を履いていると言うのです。丸山は「インパール作戦従軍記」に、書いています。

 「死体はポツンと、ただ一体だけ横たわっているようなことはなく、一体の死体のあるところには数十の死体が続いていた。人間は孤独であるとか、孤独を愛するなどというが、やはり一人ぽっちでは死ねないのであろう。よく見ると、死体の横たわっている側はやや高く、山径に面して勾配があり、あたりにはあまり木がなく、比較的明るくひらけていた。濃密なジャングル内の薄暗く、ジメジメした地域や湿地帯にはあまり死体はなかった。やはり、こざっぱりした少しでも美しいところで最後は息を引きとりたかったのであろう」。悲しい話です。

 大本営は八月十二日、インパール戦の敗北を「インパール戦線整理」と発表しました。「コヒマ及インパール平地周辺に於て作戦中なりし我部隊は八月上旬印緬国境付近に戦線を整理し、次期作戦準備中なり』。こう発表したのですが、河辺と牟田口は責任を問われて三十日付で参謀本部付となり、六月十日に第十五師団長を解任された山内中将は八月五日に病死していました。佐藤中将については、牟田口が軍法会議を主張し、佐藤も「望むところ」の態度を見せていましたが、河辺は軍医に『急性精神過労症』と診断させ、不起訴にしたい意向をとり続けたのです。大本営は最終的に「苛烈な戦局下における精神錯乱」として不起訴にし、十一月二十四日付で予備役編入、即日召集してスマトラの軍政顧問にしています。

 しかし、どうでしょう。佐藤の独断退却は、どんな理由があったにせよ明らかな命令違反であり、当然軍法会議にかけてきちんと究明すべきだったのです。自分の部下の命は救ったかも知れませんが、その退路に布陣していた友軍将兵を恐慌状態に巻き込みました。防衛庁の記録によると、佐藤の第三十一師団の残存兵力約五千、損耗率六七%に対し、第十五師団は約三千三百人、七八%、第三十三師団が約二千二百人で八四%。この数字は、他の二師団が側背から攻撃を受けることになって、犠牲を多くさせる結果になったことを物語っています。そして一見、温情的ともとれる措置は、陸軍史上でも例のない不祥事を表沙汰にしたくなかった。「陸軍全体の名誉」を重んじたものだったのです。

 インパールの日水軍将兵は、圧倒的な戦力の違いの中で実によく戦いました。悲惨な敗戦の責任は、全て牡損な作戦計画を強行した牟田口にありましたが、当の本人は最後まで自己弁護に終始したのです。昭和四十年代、新聞社やテレピ局、雑誌社を訪ねては、『わが作戦に誤りなし』と吹聴して回る牟田口の姿が見られました。そして丸山記者の「インパール作戦従軍記」を読むと、「牟田口の下に、この将軍あり」といった感じの、ひどい将軍の話が出てきます。

 第三十三師団の北側からバレルを目指した山本支隊は、戦車三十台、重砲四十門を持つ、第十五軍の中では唯一の「火力突進隊」でした。インパールヘの進攻ルートのうち、ここだけが舗装道路になっていて、火力と機動力を集中して強行突破を図ろうとしたのです。ところが支隊長の山本募少将は、尾根の陰に石で何重にも囲った横穴式の壕を司令部にして、そこに閉じ催もったまま。丸山記者は山本が外に出たのを見たのは、上級の将軍が視察に来た時、恐らく河辺だったのでしょうが、その一回だけだったと言います。理由として「将というものは、血を目にすべきではない。それによって憐慾の俯を起こし、指揮統率にためらいが出るようなことがあってはならない』。こんなことを言っていたそうですが、将兵は飢えているというのに、自分には四人もの食事係をつけていました。

 それでいて、部下に対する命令は峻烈で、一度攻撃を命じると、目標の陣地を奪うまで同じ何度も部隊に攻撃を命じたというのです。失敗した指揮官は司令部に呼び付けられ、兵隊たちが「反省のテント」と呼ぶようになった、小さな薄暗いテントで何日も正座して反省させられます。そして「最後の突撃」を命じられ、悄然として前線に戻って行ったといいます。本人は「安全第一」なのですから、無事日本に戻り、上には覚えがよかったのか、昭和二十年四月に中将に昇進、第二百十四師団長になっています。

 インパール作戦の失敗は、ビルマ防衛全体の破綻を招きました。フーコン渓谷でも雲南でも反撃が始まり、日水軍は敗走を重ねなければなりませんでした。ビルマ独立で国防相になっていたアウン。サンは、これを見て秘かに抗日勢力を集めて「反ファシスト人民自由連盟‘を結成したのです。日本の都合のいいように使われている傀儡政権の実態に、『亡霊のようで猿芝居みたいな独立。幻想に過ぎない』と言っていたそうです。真の独立への最短距離のためには、誰とでも組む戦略でしたが、敗北が決定的になってきた日本とは心中するわけにはいかなかったのでしょう。昭和二十年三月七日、ラングーンでイギリス軍攻撃に向かうビルマ国軍の出陣式が行われた時、アウン・サンは来賓の日本車幹部の前で、演説の最後をこう締め括りました。『最も近くの敵と戦え』。照準は日本軍でした。十日後の十七日、国軍と地下組織は抗日のため、ビルマ全土で一斉蜂起したのです。日本の敗戦後も、独立に向けてイギリスと交渉していましたが、悲願達成が半年後に迫った昭和二十二年七月十九日、政敵に暗殺されました。三十二歳でしたが、今もこの日は「殉国者の日」としてミャンマー国民の休日になっています。

 一方、インパール作戦に参加したインド国民軍も、大きな打撃を受けました。ビルマまで辿り着いた兵士は、約二千人だったと言われます、日本の敗戦で夢破れたポースは、今度はソ連に援助を求めようと、ラングーンから台湾経由で日本に向かおうとしましたが、昭和二十年八月十八日、搭乗換が台北飛行場を離陸直後に墜落して亡くなりました。四十八歳でした。

 そして日本では、インパール作戦中止二日後の昭和十九年七月七日、サイパン島が陥落し、さしもの権勢を跨った東条も内閣総辞職に追い込まれるのですが、一月は「サイパン陥落と東条内閣総辞職」というテーマでお話します。

(当ブログのコメント)本当の強さとは暴力以前に全ての情報に真剣に向き合って、隙の無い作戦が立てられる者が持つものであって、東条英機にはその強さは全く無かった。最後には、やさしい拳銃自殺にさえも失敗した弱い人間だったと思う。


2017年10月1日日曜日

有り得ないと言いきれない北朝鮮戦争の話

有り得ないと言いきれない北朝鮮戦争

 以下の空想の話は、全く有り得ないとも言い切れない北朝鮮戦争の話です。

1.話の始まり

 北朝鮮は、核兵器と弾道ミサイルを開発していた。
そして、アメリカ合衆国との間で、互いを威嚇する合戦を開始していた。

北朝鮮は弾道ミサイルを日本上空を通過させる威嚇実験を何度か繰り返した。
しかし、技術力の不足は否めず、北朝鮮が予期しなかったミサイルの軌道のコントロールの外れにより、とうとう、途中通過の予定だった日本の新潟県にミサイルが落下してしまった。

 そのミサイル落下を受けて安倍政権は、「北朝鮮と戦争を始めて日本国憲法の戦争放棄条項を破棄する絶好の好機だ」と考えた。そのため、安倍政権は、北朝鮮のミサイル落下を北朝鮮による日本への攻撃とみなし、北朝鮮に対して、宣戦布告をした。

 アメリカは、安倍政権からの北朝鮮戦争の支援の要請を受けて、海軍と、空母に戦闘機を搭載して空軍を、北朝鮮攻撃のために北朝鮮に向かわせた。
そして、アメリカは日本の自衛隊をアメリカ軍の指揮下に入れ、北朝鮮戦争の準備を整えた。

 そのアメリカの動きを見て、中国が、「北朝鮮支援」という名目で、かねてから北朝鮮国境に準備していた中国軍を北朝鮮に侵入させた。中国が北朝鮮の政権を停止させて実質的に北朝鮮を支配するためであった。
 一方、同様にロシアが、かねてから北朝鮮国境に準備していたロシア軍を北朝鮮に侵入させた。北朝鮮を中国だけに支配させず、ロシアも支配できる有理な立場を築くためであった。
 アメリカは、北朝鮮沖で空母を待機させ、戦闘機を北朝鮮上空に飛来させ北朝鮮の制空権を支配しようとした。北朝鮮の支配を中国とロシアだけに行わせずにアメリカも北朝鮮支配への発言権を得るためであった。
 こうして、北朝鮮は、中国とロシアに占領され、北朝鮮政権は崩壊した。
 そして、北朝鮮の占領軍の間で、今後の北朝鮮の占領政策を議論する協議が開始された。アメリカ軍も、北朝鮮に密接な国である韓国を支援する名目で、韓国とともに、その占領協議に参加できた。
しかし、日本の安倍政権は、韓国や中国の反対により、北朝鮮の占領協議に参加できなかった。安倍政権と親密な関係にあるロシアは、日本の参加に賛成したが、、、

2.北朝鮮戦争の終結
 こうして、北朝鮮戦争は終結し、北朝鮮は、実質的に占領軍を代表する中国に占領支配され、ロシアとアメリカと韓国が占領協議に参加した。日本は占領協議から除外された。

2017年5月29日月曜日

ル・モンドの記事から「共謀罪」について

ル・モンドの記事から「共謀罪」について
ル・モンド、5月27日

 テロリズムと組織犯罪を防止するためという口実の下に、日本政府はきわめて問題の多い法律的な利器を準備している。

 あらゆる形態の「謀略」に対するこの法案についての採決が5月23日に衆院で行われ、参院では法案は6月中旬に採決される予定である。

 この法律が施行されると、テロリスト的あるいは犯罪的な活動の準備または実現に関与した個人あるいは集団は捜査の対象となる。

 安倍晋三首相によれば、2020年の東京五輪に向かってテロリズムとの闘いの枠組みを作りあげることは彼の「責任」だということである。

 この法案を通すことは、彼の説明によれば、2000年に国連で採択された国際的な組織犯罪に対する協定の批准のために不可欠だという。

 同趣旨の法案は2003年と2005年にも提案されたが廃案となった。
日本は世界で最も安全な国の一つであり、2002年以降犯罪発生率は減り続けている。
 なぜこの法案が急に出て来たのかは国民の間に大きな不安を掻き立てている。
採否についての国論は二分されており、法案の説明が欠けていることには不満が高まっている。
国会前では何百人もの人々が抗議行動をしている。

 人権擁護のための諸団体、弁護士、ジャーナリスト、学者たちの組織は、現行の法律で国連の協定批准には十分であるとしている。
 彼らはこの法律が反政府的な活動にかかわるすべての市民に対する恣意的な監視を合法化するという隠された目的のためのものであることを懸念している。
この分野については、警察はすでに十分な裁量権を享受している。

 憲法学者飯島滋明はこの法案のうちに「憲法の三大原則、人権の尊重、平和主義、国民主権」に対する脅威を見ている。

 法案は1925年の治安維持法を想起させる、と飯島氏は指摘する。
 治安維持法採択の前にも政府はこの法律は共産主義者だけを対象にするものだと言明した。
 しかし、1930~40年代において治安維持法は全国民に対して厳格な監視を行い、軍国主義の勃興に反対する人々を沈黙させるために活用された。
この軍国主義のキーパーソンの一人が戦犯となったのちに1957年に首相となった岸信介(安倍晋三の祖父)である。
この祖父を安倍首相は尊敬している。

 安倍首相が提出した法案は訴追できる277の犯罪リストを含んでいる。
 その多くは知的財産権侵害や許可なしの競艇参加とか国有林での植物伐採のようなテロリズムとの関係が見出し難いものである。

 法務大臣金田勝年は地図と双眼鏡を携行して公園を訪れた人間もテロ準備の容疑者となりうるとまで述べた。

 この法案については国連も不安を感じている。
5月18日付の書簡において、国連のプライバシーについての特別報告者Joseph Cannataciは「『計画』と『準備行動』を構成するものの定義の曖昧さゆえに、法案が恣意的に適用されるリスクに対する懸念」を明らかにした。
氏はまた「テロリズムとも犯罪ともいかなる関係も見られない」犯罪のリストが含まれていることに疑義を呈し、
「プライバシーと表現の自由の保護に対する不適切な抑圧」のリスクを指摘している。

 しかし、菅官房長官はこの書簡は「まったく不適切であり、われわれは厳重に抗議する」と反論している。
驚くべき反応である。
というのは、日本は他のことについては国際法の順守をこれまで強く訴えてきていたからである。

2017年5月13日土曜日

【衆院法務委】枝野議員が共謀罪法案の矛盾を指摘し法案の出し直しを訴え

【衆院法務委】枝野議員が共謀罪法案の矛盾を指摘し法案の出し直しを訴え
2017年05月12日

 衆院法務委員会で12日に行われた共謀罪法案(組織犯罪処罰法改正案)の質疑で、枝野幸男議員が法案の矛盾を指摘した。

 枝野議員は、強盗予備罪の法定刑を林刑事局長に質疑。

 林刑事局長は、「強盗予備罪は2年以下の懲役。強盗を対象犯罪とするテロ等準備罪(共謀罪)は5年以下の懲役または禁錮」と答弁。

 なぜ、共謀罪の方が刑が重くなるのかという問いに対しては、

 林刑事局長: 「犯罪集団が計画し、実行準備行為まで行う違法性と単独の予備行為を比較した場合はテロ等準備罪の違法性が高い認識を持っている」 と、
組織的に計画し犯罪が実行されるため違法性が高い
と理由を説明。

 これらの答弁を受けて、枝野議員は、
「逆転しているものがないか」と指摘。 
「同じ組織的に行われる犯罪であっても、
 犯罪実行に至るまでのプロセスが複数の幹部で相談して計画をして進めた場合は、共謀罪で5年以下の懲役または禁錮。

ところが組織を使っても、
1人のリーダーがトップダウンで誰にも相談せず指示したら、予備段階まで行って初めて2年以下の懲役。
明らかに矛盾じゃないか」

と同じ組織犯罪でも刑の重さが違う事例があることを指摘した。

 これに対して林刑事局長は長々と答弁するが、

 枝野議員は「論点をずらしている」と述べ、
「270いくつもの新たな犯罪をつくるのだから、1個1個われわれも大至急調べているが、
もう1度撤回してこうした矛盾が生じないように精査を最低限やってもらわないとおかしい」
と法案を撤回するよう強調した。

 また、枝野議員は、
 犯罪の実行に着手したが、途中で気が変わって犯罪の実行を中止した場合にも言及。
「殺人の故意で実行に着手したのち、自分の意志で中止して人の死に至らなかったが傷害は成立している。
中止未遂か」と質疑。

 この場合の処遇を林刑事局長は、
「実行着手に至っているが、致命傷を与える打撃の前に中止している。こういった場合に中止犯が成立する」
と答弁。

 続けて枝野議員は、 
共謀罪が成立しているが殺人などの犯罪の実行の着手に至らなかった場合の処遇を聞くと、

 林刑事局長は
「テロ等準備罪についてはすでに成立しているので、その刑事責任は免れない。
その者が自首した場合は刑の必要的減免が認められる」
と自首しなければ中止犯が認められないことを説明した。

 これについて枝野議員は、
「やっぱりラフなつくりだと思う」と法案を批判。
「自首しないと必要的刑の減免を受けられないならば、実行の着手まで行った方がいいのかなとならないか」と述べ、
「そもそも一般人が対象になるかならないのか以前の問題として、
この法案は欠陥法なので、 出し直して整理し直さないととてもではないがまっとうな刑事法制にならない」
と共謀罪法案の作り直しを訴えた。



【 特定秘密保護法、自由主義社会からの脱落への途を歩み出した日本 】
AP通信 / ワシントンポスト 11月26日
(自由・平等を保障する民主主義に、キバをむき始めた安倍政権
「日本の報道の自由に対する深刻な脅威」国外の有識者からも深刻な懸念
国民の監視の目が届かないところで、国民の目に触れることなく、自分たちが望む形にこの国を変えてしまうための環境づくり)
・・・
 この法律が施行されれば、政府は原子力発電所に関する情報について、テロリストの攻撃目標になる恐れがあるとの理由で、大切な情報のほとんどを機密扱いにしてしまうことも可能である、このような批判的な意見もあります。

台湾、報道自由度で世界50位 2年連続で後退も日本より高評価 (2014/2/12)
(「国境なき記者団」(RSF)が12日発表した2014年のワールド・プレス・フリーダム・インデックス(世界の報道自由度ランキング)で、報道の自由度が最も高い上位3位はフィンランド、オランダ、ノルウェーであった。
イギリス(33位)、アメリカ合衆国(46位)、台湾(50位)、韓国(57位)、 日本(59位)、 香港(61位)、ウクライナ(127位)、北朝鮮(178位)、)
日本は韓国よりも北朝鮮に近い


(2015年2月12日)国境なき記者団の2015年2月の発表では、報道の自由度の順位で日本の順位が更に下がり、61位になり、更に北朝鮮に近づいた
ドイツ     12位
イギリス    34位
フランス    38位
アメリカ合衆国 49位
台湾    51位
ルーマニア 52位
モンゴル  54位
クロアチア 58位
韓国   60位
日本   61位
ガイアナ 62位
レバノン 98位
北朝鮮 179位


2016年の国境無き記者団の発表では、日本の報道の自由度は72位に転落した。
ハンガリー  67位
ボスニア・ヘルツゴビナ 68位
ホンコン 69位
韓国   70位
タンザニア 71位
日本 72位


2017年の国境無き記者団の発表では、日本の報道の自由度は72位を維持したが韓国より9位劣る。
2017年04月27日

日本は韓国よりも9位ランクが劣る。
1: ノルウェー 
2: スウェーデン
3: フィンランド
4: デンマーク
5: オランダ(ネーデルランド)
6: コスタリカ
7: スイス
・・・
44: コモロ
45: 台湾
46: ルーマニア
47: マルタ
48: ボツワナ
49: トンガ
50: アルゼンチン
・・・
55: モーリタニア
56: モーリシャス
57: マダガスカル
58: セネガル
59: ドミニカ共和国
60: ガイアナ
61: ニジェール
62: エルサルバドル
63: 韓国
64: ジョージア
65: ボスニア・ヘルツェゴビナ
66: セルビア
67: フィジー
68: レソト
69: モンゴル
70: マラウイ
71: ハンガリー
72: 日本
73: 香港
74: クロアチア

日弁連は共謀罪に反対します(共謀罪法案対策本部)


治安維持法によるあらたな取締対象を開拓
 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。
(1935年から1936年にかけて、予算減・人員減があった)
 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。 

治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。

 1940年1月 「生活図画事件」
(生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。)


 1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である 教学局(1928年の学生課) が文部省外局として設置され, 学問研究に対する統制 の中枢をなした。

算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である 批判的精神を除却(除去)し た合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずに ゆっくりと 国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。

戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは, 国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
 科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
 したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で 大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である ,という認識であった。


1945年
 占領軍の指揮官のマッカーサーは、日本の徹底改革&天皇制維持の姿勢を決めていた。ワシントン政府は、日本の改革・天皇制いずれにもフラフラしてた。結局はマッカーサーが独断専行で決めていく。

 そのマッカーサーを、日本国民は熱烈歓迎する。
ここで労働基準法を作り組合活動を合法化し、戦前・戦中に拘束されていた社会主義者・共産主義者が釈放される

1945年10月4日、
 マッカーサーから治安維持法(共謀罪)の廃止を要求された日本の東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した。
 すなわち、日本の支配層は、敗戦後に、弾圧した国民の復讐を恐れ、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした

 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法(共謀罪)も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。


「児童を保護するため」と言った児童ポルノ規制法は、実際は、
「児童ポルノ単純所持罪は児童を逮捕するための法律かも」
でした。
(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計のうち、「平成25年中の少年非行情勢について」の報告による)

同様に、「国民をテロから保護するため」と言うテロ準備罪は、
「国民を逮捕するための法律」のようです。

もう一度言う、福島原発事故の主犯は安倍晋三だ! 第一次政権時に地震対策拒否、事故後もメディア恫喝で隠蔽…
2016.03.11
『京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員(共産党)は、2006年3月に、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問。第一次安倍政権が誕生 して3カ月後の2006年12月13日には「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に 提出。「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性 があることを指摘した。

 同年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名での答弁書では、吉井議員の以下の質問に以下の返答をした。
(吉井):「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか。」
(安倍):「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である。」』 



また自民党は、テロ準備罪(治安維持法)の成立に向けて、以下の憲法改悪案で運用したいと考えているようです。
(憲法36条)公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
自民党案では:「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁ずる。」に変えます。
テロ準備罪(治安維持法)の運用等で止むお得ないと総理大臣(安倍)が判断した場合は、拷問を許可するようです。 


2017年5月1日月曜日

戦時に在留敵国国民を排除するために共謀罪は使えない

在留敵国国民の敵対行為の排除のルール

「戦争法制のもとの民衆」から引用:
 現在、この国には朝鮮籍及び韓国籍を有する在日朝鮮人が約65万人いるといわれてい る。

彼らの多くは、現にこの国で生まれ、育ち、そして一生をこの国で終えようとしてい る人々である。
・・・・
 彼らは、ジュネーブ条約や第1及び第2追加議定書(追加議定書は今国会において批准 の予定されている条約である)の対象とされてしまう。

そもそもジュネーブ条約や追加議 定書は、戦争状態・交戦状態を前提にしたうえで戦闘員や非戦闘員の人道的取扱い等を求 めたものであり、
敵性外国人の権利制限や抑留を当然の前提として予定している。
 ジュネ ーブ第3条約は外国人捕虜に関する条約であり、
敵性外国人中、戦闘員は捕虜として扱わ れる(追加議定書44条)。
 他方、ジュネーブ第4条約は戦時における文民の保護に関する
条約であり、

敵性外国人中、非戦闘員は一般的保護のもとにおかれるものの、逮捕勾留が 認められている(追加議定書75条)。

戦時における文民の保護に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第四条約)

第一編 総則

・・・

第四条〔被保護者の定義〕

 この条約によって保護される者は
紛争又は占領の場合において、
いかなる時であると、また、いかなる形であるとを問わず、
紛争当事国又は占領国の権力内にある者で
その紛争当事国又は占領国国民でないものとする。


(当ブログのコメント)
 このジュネーブ条約によって、戦時に在留敵国国民を「被保護者」として敵対行為を排除することができる。
在留敵国民を排除するためには、このジュネーブ条約(第4条約)が優先される。

 北朝鮮と戦争になった場合に、潜在的にテロを実行する(日本を攻撃する) 在留敵国国民は、戦争法であるジュネーブ条約に従って扱わなければならない。
 ジュネーブ条約に従い、在留敵国国民は、北朝鮮との戦争が終わった時点で、排除を解除して解放しなければならない。
 共謀罪には、日本が北朝鮮に開戦した場合に日本にテロを企てた北朝鮮国民を、終戦時に解放する規定が無い。

 戦時にはジュネーブ条約が優先されるため、共謀罪は、テロを企てた北朝鮮国民に適用することができない。テロを企てた北朝鮮国民を拘束するには、ジュネーブ条約だけで十分である。共謀罪はジュネーブ条約に対応していないので、戦時の北朝鮮国民によるテロ対策には使えない



第五条〔抵触行為〕

 紛争当事国の領域内において、
被保護者が個人として紛争当事国の安全に対する有害な活動を行った明白なけん疑があること又はそのような活動に従事していることを当該紛争当事国が確認した場合には、
その被保護者は、この条約に基く権利及び特権でその者のために行使されれば当該紛争当事国の安全を害するようなものを主張することができない

②  占領地域内において、被保護者が間ちょう若しくは怠業者(サボタージュを行う者)又は個人として占領国の安全に対する有害な活動を行った明白なけん疑がある者として抑留された場合において、軍事上の安全が絶対に必要とするときは、その被保護者は、この条約に基く通信の権利を失うものとする。

③  もっとも、いずれの場合においても、前記の者は、人道的に待遇されるものとし
また、訴追された場合には、この条約で定める公平な且つ正式の裁判を受ける権利を奪われない。
それらの者は、また、それぞれ紛争当事国又は占領国の安全が許す限り、すみやかにこの条約に基く被保護者の権利及び特権を完全に許与されるものとする。

第六条〔適用の始期及び終期〕

 この条約は、第二条に定める紛争又は占領の開始の時から適用する。

②  この条約は、紛争当事国の領域内においては、軍事行動の全般的終了の時にその適用を終る




【 特定秘密保護法、自由主義社会からの脱落への途を歩み出した日本 】
AP通信 / ワシントンポスト 11月26日
(自由・平等を保障する民主主義に、キバをむき始めた安倍政権
「日本の報道の自由に対する深刻な脅威」国外の有識者からも深刻な懸念
国民の監視の目が届かないところで、国民の目に触れることなく、自分たちが望む形にこの国を変えてしまうための環境づくり)
・・・
 この法律が施行されれば、政府は原子力発電所に関する情報について、テロリストの攻撃目標になる恐れがあるとの理由で、大切な情報のほとんどを機密扱いにしてしまうことも可能である、このような批判的な意見もあります。

台湾、報道自由度で世界50位 2年連続で後退も日本より高評価 (2014/2/12)
(「国境なき記者団」(RSF)が12日発表した2014年のワールド・プレス・フリーダム・インデックス(世界の報道自由度ランキング)で、報道の自由度が最も高い上位3位はフィンランド、オランダ、ノルウェーであった。
イギリス(33位)、アメリカ合衆国(46位)、台湾(50位)、韓国(57位)、 日本(59位)、 香港(61位)、ウクライナ(127位)、北朝鮮(178位)、)
日本は韓国よりも北朝鮮に近い


(2015年2月12日)国境なき記者団の2015年2月の発表では、報道の自由度の順位で日本の順位が更に下がり、61位になり、更に北朝鮮に近づいた
ドイツ     12位
イギリス    34位
フランス    38位
アメリカ合衆国 49位
台湾    51位
ルーマニア 52位
モンゴル  54位
クロアチア 58位
韓国   60位
日本   61位
ガイアナ 62位
レバノン 98位
北朝鮮 179位


2016年の国境無き記者団の発表では、日本の報道の自由度は72位に転落した。
ハンガリー  67位
ボスニア・ヘルツゴビナ 68位
ホンコン 69位
韓国   70位
タンザニア 71位
日本 72位


2017年の国境無き記者団の発表では、日本の報道の自由度は72位を維持したが韓国より9位劣る。


日弁連は共謀罪に反対します(共謀罪法案対策本部)


治安維持法によるあらたな取締対象を開拓
 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。
(1935年から1936年にかけて、予算減・人員減があった)
 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。 

治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。

 1940年1月 「生活図画事件」
(生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。)


 1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である 教学局(1928年の学生課) が文部省外局として設置され, 学問研究に対する統制 の中枢をなした。

算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である 批判的精神を除却(除去)し た合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずに ゆっくりと 国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。

戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは, 国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
 科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
 したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で 大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である ,という認識であった。


1945年
 占領軍の指揮官のマッカーサーは、日本の徹底改革&天皇制維持の姿勢を決めていた。ワシントン政府は、日本の改革・天皇制いずれにもフラフラしてた。結局はマッカーサーが独断専行で決めていく。

 そのマッカーサーを、日本国民は熱烈歓迎する。
ここで労働基準法を作り組合活動を合法化し、戦前・戦中に拘束されていた社会主義者・共産主義者が釈放される

1945年10月4日、
 マッカーサーから治安維持法(共謀罪)の廃止を要求された日本の東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した。
 すなわち、日本の支配層は、敗戦後に、弾圧した国民の復讐を恐れ、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした

 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法(共謀罪)も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。


「児童を保護するため」と言った児童ポルノ規制法は、実際は、
「児童ポルノ単純所持罪は児童を逮捕するための法律かも」
でした。
(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計のうち、「平成25年中の少年非行情勢について」の報告による)

同様に、「国民をテロから保護するため」と言うテロ準備罪は、
「国民を逮捕するための法律」のようです。

もう一度言う、福島原発事故の主犯は安倍晋三だ! 第一次政権時に地震対策拒否、事故後もメディア恫喝で隠蔽…
2016.03.11
『京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員(共産党)は、2006年3月に、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問。第一次安倍政権が誕生 して3カ月後の2006年12月13日には「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に 提出。「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性 があることを指摘した。

 同年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名での答弁書では、吉井議員の以下の質問に以下の返答をした。
(吉井):「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか。」
(安倍):「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である。」』 



また自民党は、テロ準備罪(治安維持法)の成立に向けて、以下の憲法改悪案で運用したいと考えているようです。
(憲法36条)公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
自民党案では:「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁ずる。」に変えます。
テロ準備罪(治安維持法)の運用等で止むお得ないと総理大臣(安倍)が判断した場合は、拷問を許可するようです。 


2017年4月27日木曜日

世界報道自由度ランキングby国境なき記者団

世界の報道の自由度ランキング2017、日本はG7で最下位
2017年04月27日

日本は韓国よりも9位ランクが劣る。

1位から順位別

1: ノルウェー
2: スウェーデン
3: フィンランド
4: デンマーク
5: オランダ(ネーデルランド)
6: コスタリカ
7: スイス
8: ジャマイカ
9: ベルギー
10: アイスランド
11: オーストリア
12: エストニア
13: ニュージーランド
14: アイルランド
15: ルクセンブルク
16: ドイツ
17: スロバキア
18: ポルトガル
19: オーストラリア
20: スリナム
21: サモア
22: カナダ
23: チェコ
24: ナミビア
25: ウルグアイ
26: ガーナ
27: カーボヴェルデ
28: ラトビア
29: スペイン
30: キプロス
31: 南アフリカ
32: リヒテンシュタイン
33: チリ
34: トリニダード・トバゴ
35: アンドラ
36: リトアニア
37: スロベニア
38: 東カリブ諸国機構
39: フランス
40: イギリス(UK)
41: ベリーズ
42: ブルキナファソ
43: アメリカ(USA)
44: コモロ
45: 台湾
46: ルーマニア
47: マルタ
48: ボツワナ
49: トンガ
50: アルゼンチン
51: パプアニューギニア
52: イタリア
53: ハイチ
54: ポーランド
55: モーリタニア
56: モーリシャス
57: マダガスカル
58: セネガル
59: ドミニカ共和国
60: ガイアナ
61: ニジェール
62: エルサルバドル
63: 韓国
64: ジョージア
65: ボスニア・ヘルツェゴビナ
66: セルビア
67: フィジー
68: レソト
69: モンゴル
70: マラウイ
71: ハンガリー
72: 日本
73: 香港
74: クロアチア
・・・
88: ギリシャ
89: キルギス
90: ペルー
91: イスラエル
・・・
99: レバノン
100: ネパール
101: ギニア
102: ウクライナ
103: ブラジル 
・・・
124: インドネシア
125: アンゴラ
126: オマーン
127: フィリピン
・・・
131: ミャンマー
132: カンボジア
133: モロッコ
134: アルジェリア
135: パレスチナ
136: インド
・・・
142: タイ
143: ガンビア
144: マレーシア
145: 南スーダン
146: バングラデシュ
147: メキシコ
148: ロシア
149: タジキスタン
150: エチオピア
151: シンガポール
・・・
154: コンゴ(旧ザイール)
155: トルコ
・・・
175: ベトナム
176: 中国
・・・
180: 北朝鮮


母子家庭の原因の離婚の原因は貧困
を参照。

(家計の金融行動に関する世論調査:2人以上世帯調査)時系列データ(問2(a))


http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/Xlsdl.do?sinfid=000026271631
厚生労働省の毎月勤労統計調査の統計表一覧、季節調整済指数及び増減率11(実質賃金 季節調整済指数及び増減率、現金給与総額(5人以上))から(1月-3月)データを抽出


総務省統計局家計消費指数 結果表(平成22年基準)の、総世帯の家計消費指数のデータから、実質家計消費指数を抽出

http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa14/index.html

(貧困家庭が離婚し母子家庭になると考えられる。離婚しなかったらもっと貧困。)

 先進国の北欧をはじめとするヨーロッパでは、大学の授業料が無料というだけでなく、大学生に生活費が支給されます。つまり、大学に行きたい人は誰でも生活が保障されて通学することができるのです。 

 それに対して、最近の日本では:
(1)安倍晋三政権は2013年から、貧困層への生活保護基準引き下げ(保護費削減)を実施。
(2)来年度(2015年)は子育て給付金中止、低所得者向けも圧縮ですって。 
(3)「無料塾」継続困難に 来年度(2015年)から国の補助減
琉球新報 9月5日(金)配信
(4)生活保護世帯の学習支援事業 2015年度から国庫補助半減

(5)生活保護のうち家賃として支払う「住宅扶助」について2015年度から引き下げ、2017年度には2014年度と比べ約190億円減額する。
(2015年度予算で食費など生活費に充てる「生活扶助」の約260億円減額も決まっている。そのため、2015年度は実質では計約320億円の減額となる。)
(6)東京都渋谷区が,年末年始の貧困者への炊き出し(食事の提供)をさせないことを目的に宮下公園など3公園を閉鎖

(7)防衛費、補正予算倍に 「経済対策」名目に拡充(2015年1月8日)
 アメリカでは、「徴兵制はいらない。貧困があるから」と言われていて、まさに国家規模の「貧困ビジネス」が戦争になっているわけです。 

(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計の、各年度の「少年の補導及び保護の概況」の報告による)

(注目)2015年の小学生の家庭内暴力の増加率は児童虐待件数の増加率の2倍以上あり増加率が大きく異なるので、小学生の家庭内暴力の原因は家庭内には無く、家庭外に原因があると考える。

【 特定秘密保護法、自由主義社会からの脱落への途を歩み出した日本 】
AP通信 / ワシントンポスト 11月26日
(自由・平等を保障する民主主義に、キバをむき始めた安倍政権
「日本の報道の自由に対する深刻な脅威」国外の有識者からも深刻な懸念
国民の監視の目が届かないところで、国民の目に触れることなく、自分たちが望む形にこの国を変えてしまうための環境づくり)
・・・
 この法律が施行されれば、政府は原子力発電所に関する情報について、テロリストの攻撃目標になる恐れがあるとの理由で、大切な情報のほとんどを機密扱いにしてしまうことも可能である、このような批判的な意見もあります。

台湾、報道自由度で世界50位 2年連続で後退も日本より高評価 (2014/2/12)
(「国境なき記者団」(RSF)が12日発表した2014年のワールド・プレス・フリーダム・インデックス(世界の報道自由度ランキング)で、報道の自由度が最も高い上位3位はフィンランド、オランダ、ノルウェーであった。
イギリス(33位)、アメリカ合衆国(46位)、台湾(50位)、韓国(57位)、 日本(59位)、 香港(61位)、ウクライナ(127位)、北朝鮮(178位)、)
日本は韓国よりも北朝鮮に近い


(2015年2月12日)国境なき記者団の2015年2月の発表では、報道の自由度の順位で日本の順位が更に下がり、61位になり、更に北朝鮮に近づいた
ドイツ     12位
イギリス    34位
フランス    38位
アメリカ合衆国 49位
台湾    51位
ルーマニア 52位
モンゴル  54位
クロアチア 58位
韓国   60位
日本   61位
ガイアナ 62位
レバノン 98位
北朝鮮 179位


2016年の国境無き記者団の発表では、日本の報道の自由度は72位に転落した。
ハンガリー  67位
ボスニア・ヘルツゴビナ 68位
ホンコン 69位
韓国   70位
タンザニア 71位
日本 72位



日弁連は共謀罪に反対します(共謀罪法案対策本部)


治安維持法によるあらたな取締対象を開拓
 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。
(1935年から1936年にかけて、予算減・人員減があった)
 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。 

治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。

 1940年1月 「生活図画事件」
(生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。)


 1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である 教学局(1928年の学生課) が文部省外局として設置され, 学問研究に対する統制 の中枢をなした。

算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である 批判的精神を除却(除去)し た合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずに ゆっくりと 国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。

戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは, 国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
 科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
 したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で 大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である ,という認識であった。


1945年
 占領軍の指揮官のマッカーサーは、日本の徹底改革&天皇制維持の姿勢を決めていた。ワシントン政府は、日本の改革・天皇制いずれにもフラフラしてた。結局はマッカーサーが独断専行で決めていく。

 そのマッカーサーを、日本国民は熱烈歓迎する。
ここで労働基準法を作り組合活動を合法化し、戦前・戦中に拘束されていた社会主義者・共産主義者が釈放される

1945年10月4日、
 マッカーサーから治安維持法(共謀罪)の廃止を要求された日本の東久邇内閣は、それを拒絶し総辞職した。
 すなわち、日本の支配層は、敗戦後に、弾圧した国民の復讐を恐れ、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした

 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法(共謀罪)も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。


「児童を保護するため」と言った児童ポルノ規制法は、実際は、
「児童ポルノ単純所持罪は児童を逮捕するための法律かも」
でした。
(このグラフの元データは、警察庁の生活安全の確保に関する統計のうち、「平成25年中の少年非行情勢について」の報告による)

同様に、「国民をテロから保護するため」と言うテロ準備罪は、
「国民を逮捕するための法律」のようです。

もう一度言う、福島原発事故の主犯は安倍晋三だ! 第一次政権時に地震対策拒否、事故後もメディア恫喝で隠蔽…
2016.03.11
『京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員(共産党)は、2006年3月に、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問。第一次安倍政権が誕生 して3カ月後の2006年12月13日には「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に 提出。「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性 があることを指摘した。

 同年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名での答弁書では、吉井議員の以下の質問に以下の返答をした。
(吉井):「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか。」
(安倍):「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である。」』 



また自民党は、テロ準備罪(治安維持法)の成立に向けて、以下の憲法改悪案で運用したいと考えているようです。
(憲法36条)公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
自民党案では:「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁ずる。」に変えます。
テロ準備罪(治安維持法)の運用等で止むお得ないと総理大臣(安倍)が判断した場合は、拷問を許可するようです。 


2017年4月16日日曜日

「共謀罪」ある弁護士の懸念 父親が治安維持法で逮捕

「共謀罪」ある弁護士の懸念 父親が治安維持法で逮捕
黄澈 2017年4月5日 朝日新聞デジタル

 「新たな言論弾圧の道具になりはしないか――」。政府が「共謀罪」の趣旨を盛り込み、6日に国会での審議入りが見込まれる組織的犯罪処罰法改正案に、愛知県岡崎市の弁護士天野茂樹さん(71)は警鐘を鳴らす。弁護士だった父は戦前・戦中に言論弾圧に使われた治安維持法の被害者。歴史の教訓から法案に不信の目を向ける。

共謀罪→

 父の名は天野末治(1901~76)。小作料減免を求める農民を弁護し、30年には三信鉄道(現・JR飯田線)工事で働いた朝鮮人労働者が賃金不払いを理由に起こしたストを支援。弱者の側に立つ弁護士だった。

 治安維持法違反容疑で逮捕されたのは33年。同法違反容疑で共産党員が大量検挙された「3・15事件」(28年)などで被告の弁護人を務めた「日本労農弁護士団」の約25人が一斉検挙されたとき(日本労農弁護士団事件)だ。末治さんもその一人。「焼けた火箸を突きつけられて『言う通りに話せ』と脅されたよ」。当時の話を茂樹さんにそう語ったという。

 「国体」(天皇を中心とした国のあり方)の変革や私有財産制度の否定を目的とする結社を禁じた治安維持法。「3・15事件」を機にした改正で、懲役10年だった最高刑は死刑に引き上げられ、「目的遂行罪」が導入された。

 目的遂行罪とは、ある行為が結社の目的遂行のためになっていると当局が見なせば、本人の意図に関わらず罪にできるものだ。治安維持法に詳しい森正・名古屋市立大名誉教授(憲法)は「日本労農弁護士団事件では、被告人との接見や法廷外の救援活動に加え、法廷での弁護活動までも『共産党の目的遂行のためにする行為』とされた」と指摘。「弾圧を恐れる弁護士を萎縮させ、言論統制を司法の場にまで浸透させる効果をもたらした」と話す。

 末治さんは執行猶予付きの判決を受け、弁護士資格を剝奪(はくだつ)された。39年に復帰したが、もはや、まともな弁護活動は不可能だった。41年の法改正で、治安維持法事件の担当弁護人は国が指定した弁護士からしか選べなくなった。

 6日に審議入りする法案は、処罰対象をテロ集団に限ってはいない。政府は「一般市民は対象にならない」と説明しているが、法務省は「正当に活動する団体が犯罪を行う団体に一変したと認められる場合、処罰対象になる」との見解も示している。

 治安維持法や特高警察について研究している荻野富士夫・小樽商科大特任教授(日本近現代史)は「組織的犯罪集団の認定や正当団体の犯罪集団への移行は、いずれも警察側が判断し、拡大解釈の危険性が大いに残る。恣意(しい)的な運用ができた『目的遂行罪』を武器に、特高警察が治安維持法の適用を際限なく広げていった過去を想起すべきだ」と指摘する。

 茂樹さんも思う。「戦前の政府は『無辜(むこ)の民は対象にしない』と説明していたのに、取り締まりは社会運動や宗教団体にまで広がり、正当な裁判も受けられなくなった。国民が反対しにくい『テロ対策』を口実とした法律が、政府に批判的な市民団体などに適用されていかないか、心配だ」

 父の影響を受け、自らも弁護士の道を選んだ茂樹さん。父は「あんな暗い時代を、二度と繰り返してはいけない」と語っていた。茂樹さんは今、その言葉の重みをかみ締めている。(黄澈) 

日本:テロ対策の名の下、市民を抑圧する法案に反対する
2017年3月28日 [アムネスティ日本支部声明]

 アムネスティ・インターナショナル日本は、組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案は市民を抑圧するおそれがあるとの理由から、本法案の成立に強く反対する。

 この法案は、いわゆる「共謀罪」法案として、犯罪の実行を準備した段階で処罰を可能にするものである。
国際組織犯罪防止条約(通称パレルモ条約)の批准にむけて国内法を整備するために成立が必要と政府は主張している。しかし、多くの報道機関、弁護士会、研究者や市民団体から、共謀の定義、犯罪集団の定義が曖昧であるため適用範囲が拡大解釈されかねず、健全な市民活動が萎縮すると批判されている。

 犯罪の成立には構成要件として実行行為が必要である。しかし、法案では、実行に着手する前の準備行為を「実行準備行為」とし、犯罪の構成要件としている。
「計画に基づき資金又は物品の手配、関係場所の下見その他の計画をした犯罪を実行するための準備行為」(同法案6条の2第1項)と定め、単に私用である場所に訪れた場合や、私物の購入だけでも、準備行為とみなされるおそれがある。
条文の定めだけでは何をもって準備行為を特定するのか明確でなく、捜査機関が法を恣意的に運用すれば特定の市民を狙い撃ちにすることが可能となる。

 また、共謀の現場を偶然見つけることは不可能に近い。共謀の事実を把握するため、日常的な監視行為が必要となるであろう。
盗聴やインターネット経由による情報が集約され、個人のプライバシーはなくなり、警察権力の拡大によって市民活動が委縮し、市民の表現の自由が抑圧されるおそれがある。

 さらに、組織的犯罪集団の特定が明確でなければ、個人の表現の自由だけでなく団体の表現や結社の自由にも侵害が生じる危険性がある。
そもそも、パレルモ条約は反社会的組織の資金源を断つなど国際的に暗躍する組織犯罪の取り締まりが目的であって、市民団体が対象となることは想定されていない。
法案においても、団体として共同の目的が犯罪の実行にあるものが想定されている(同法案6条の2第1項)。
これまでの政府の見解によれば、正当な目的で設立された団体であっても、共謀が行われた時点で犯罪を実行する団体へと変容すれば該当するという。

 確かに、法を犯す組織集団は取り締まり対象とすべきだ。しかし同法案のもとでは、市民の人権のために政府を批判する人権活動家やそれを支援する団体も、政府の一方的な判断によって組織的犯罪集団とみなされる懸念は拭えない。
人権尊重のために立ち上がる市民の活動や、それを支援する団体の活動は、たとえそれが政府への抗議行動であっても表現の自由・結社の自由によって保障されなければならない。

 政府に対し、声を上げることが許される社会が、表現の自由を守る健全な民主主義社会の在り方である。
パレルモ条約を批准するためという理由でこの「共謀罪」法案が成立すれば、すでに批准している自由権規約第19条の表現の自由や第22条の結社の自由を侵害することにつながると、アムネスティは強く懸念する。
本法案が市民を抑圧する道具とならないよう、成立に対し強く反対する。

2017年3月28日
公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本 

治安維持法によるあらたな取締対象を開拓
 1937年6月の思想実務者会同で、東京地裁検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特高警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。
(1935年から1936年にかけて、予算減・人員減があった)
 そのため、あらたな取締対象の開拓がめざされていった。 

治安維持法適用対象を拡大し、宗教団体、学術研究会(唯物論研究会)、芸術団体なども摘発されていきます。

 1940年1月 「生活図画事件」
(生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。)


 1940(昭和15)年の第二次近衛内閣に至り,先の総動員本部は解散されて,生活組織を基礎に全国民を対象とする 大政翼賛会 の組織による運動が実施されることになった。

・・・
 1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である 教学局(1928年の学生課) が文部省外局として設置され, 学問研究に対する統制 の中枢をなした。
・・・
算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である 批判的精神を除却(除去)し た合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずに ゆっくりと 国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。
・・・
戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは, 国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
 科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
 したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で 大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である ,という認識であった。



なぜ報道されない?安倍首相も属する極右団体『日本会議』が政治を牛耳ってる

知らぬは国民ばかり?──閣僚の4分の3が所属し、日本の政治を牛耳る右派団体「日本会議」の存在は、国内のマスメディアでは殆ど報道されないためにその存在も一般的に知られてはいません。
海外メディアが「極右」認定し、危機感を募らせる「日本会議」についてまとめます。

更新日: 2015年10月08日

日本の政治に重大な影響力をもつ国内最大右派団体がある

フランスの週刊誌L'Obs(旧 Le Nouvel Observateur)に掲載された "LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE(アベシンゾーの隠された顔)" という記事の内容に注目が集まっている。

"英 The Economist紙 や仏 L’Obs 誌 などが相次いで、日本の危険な右翼団体「日本会議」が、安倍政権の政策に大きな影響を与えていると報じている。"

出典
 ナショナリズム団体「日本会議」の危険性:エコノミスト紙や仏誌が相次いで指摘 | THE NEW CLASSIC [ニュークラシック]

"世界第三の経済大国である日本は、数か月前から、(総理大臣、安倍晋三も含めて)閣僚の4分の3が、歴史修正主義で権威主義の極右団体、「日本会議」と呼ばれる、目立たないが影響力のある団体に属している"

出典
 LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE

"大手メディアは、元々ローカルだったこの団体を見下していた。
2012年12月の安倍内閣の指名と、さらに昨年秋の内閣改造後、日本会議所属の閣僚の数がさらに増えて、その強大さに面食らうまでは。
それまでは田舎の、片隅のものと見なされていたこの極右団体が、日本の政治の中心にいたのだ。"

出典
 LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE

フランスの週刊誌L'Obs 「日本会議」と「安倍首相」 ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-135… 日本人の知らない間に「安倍首相」は世界に最も知られた首相となるだろう。 それがどういう意味を持つかを 国民は考える必要がある。 pic.twitter.com/uclUa2jAIk  

閣僚の4分の3が所属する右派団体、日本会議とは

「日本会議」6大スローガン:
1.憲法改正
2.教育基本法改正
3.靖国公式参拝の定着
4.夫婦別姓法案反対
5.より良い教科書を子供たちに
6.日本会議の主張の発信

"日本会議(にっぽんかいぎ)は、日本の任意団体であり、保守主義団体"

出典
 日本会議 - Wikipedia

前身団体である「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」とが統合し、平成9年5月30日に設立された全国規模の団体です。

"2002年9月以来、「10万人ネットワーク」(設立5周年事業リーフレット)を目指して活動を続けている。
また、これに協力する「日本会議国会議員懇談会」(現在242人、会長・麻生太郎衆議院議員)を持ち、
国会と地方議会に強い影響力がある。"

出典
 日本会議とは - はてなキーワード

"1997年の発足以来、「誇りある国づくり」をスローガンに、
「憲法改正」
「侵略戦争否定」
「愛国思想の育成」
「ジェンダーフリー批判」
「権利偏重批判」
「道徳教育強化」
などのファナティックな保守的主張を展開してきた。"

出典
 安倍内閣と一体の右派組織「日本会議」究極の狙いは徴兵制だった! | ビジネスジャーナル

"明治・大正・昭和の元号法制化の実現、
昭和天皇御在位60年や今上陛下の御即位などの皇室のご慶事をお祝いする奉祝運動、
教育の正常化や歴史教科書の編纂事業、
終戦50年に際しての戦没者追悼行事やアジア共生の祭典の開催、
自衛隊PKO活動への支援、
伝統に基づく国家理念を提唱した新憲法の提唱など、
30有余年にわたり正しい日本の進路を求めて力強い国民運動を全国において展開"

出典
 日本会議とは ≪ 日本会議

「日本会議」の活動内容。同団体公式ホームページより。

"政界には日本会議を支持する「日本会議国会議員懇談会(日本会議議連)」があるが、
そこには安倍政権の主要メンバーがズラリ"

出典
 日刊ゲンダイ|19閣僚中15人がメンバー 最大右翼組織「日本会議」の危険度

現在の安倍内閣のメンバーのうち、安倍首相や麻生財務相をはじめ実に4分の3が日本会議議連に所属しています。

出典
 www.sankei.com

2014年12月24日に発足した第三次安倍内閣、そのメンバーのほとんどが日本会議の関係者…。

"日本会議は、日本国憲法、とりわけ不戦と戦力不保持を定めた憲法9条への攻撃を続け、
「国防体制」充実のための改憲を主張。"

出典
 政権に巣食う改憲・右翼団体「日本会議」勢力/主張・言動に見る異常

"男女の社会的差別をなくす「ジェンダーフリー」の運動や教育が世界で広がっていますが、これを否定しているのも日本会議です。"

出典
 政権に巣食う改憲・右翼団体「日本会議」勢力/主張・言動に見る異常

男女共同参画や夫婦別姓の動きに関しても「家庭や社会秩序を壊すもの」として激しく批判をしています。

"集団的自衛権の行使を容認し、
自衛隊法の改正など有事法制を整備して、
軍備強化で世界平和に貢献するという方針も、
日本会議が目指す「誇りある国づくり」の一環だ。"

出典
 日刊ゲンダイ|19閣僚中15人がメンバー 最大右翼組織「日本会議」の危険度

日本会議

http://www.nipponkaigi.org/

国会議員約260名をはじめ経済界、学界、宗教界など各界代表や北は北海道から南は沖縄に至る全国47都道府県の代表約1000名が結集。
20年の国民運動の成果を引き継ぎ、美しい日本を再建し誇りある国づくりを目指した新しい国民運動がスタートしました。

「日本会議」公式ホームページ。

一般国民に「日本会議」の名がほとんど知られていないワケ

出典
 www.nipponkaigi.org

日本会議の機関紙「日本の息吹」

"世界的にも影響力の高い雑誌が、次々と日本会議に危機感を表明してるにもかかわらず、
その報道は日本国内においてはそれほど目立たない。"

出典
 ナショナリズム団体「日本会議」の危険性:エコノミスト紙や仏誌が相次いで指摘 | THE NEW CLASSIC [ニュークラシック]

"その出発から、日本会議はレーダーに現れないようにあらゆる注意を払ってきた。
広告も出さないし、テレビにも出ない。
戸別訪問的な活動をしながら、視線の及ばないところで前進していた。
その集会はメディアに開かれていない。
そして、会員たちには会談の間も、写真を撮る権利もない。"

出典
 LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE

"例えば、「改憲」という目標。
この目標を達成するため、日本会議には
「美しい日本の憲法を作る国民の会」(通称1000万人ネットワーク)をはじめとし、
「新憲法研究会」や
「二十一世紀の日本と憲法有識者懇談会」(通称 民間憲法臨調)など、複数の別働団体を擁している。"

出典
 日本会議は何を目指すのか?――シリーズ【草の根保守の蠢動 第2回】 | ハーバービジネスオンライン

"「新しい歴史教科書をつくる会」、
「北朝鮮拉致家族を救う会」
「北朝鮮拉致家族を救うブルーリボンキャンペーン」
などの本体である。"

出典
 日本会議とは - はてなキーワード

「日本会議」という名を出さず、同様の思想を持つ別団体を次々と立て活動しているのも特徴のようです。

"これら各種別働団体は、特段、日本会議であることは名乗らないものの、日本会議系団体であることを隠しもしない。
ただ、あくまでも別働部隊として、個別にシンポジウムを開催したり署名活動を行ったり、街頭演説を行たりと実にさまざまなチャネルで、自分たちの主張を繰り返し展開している。"

出典
 日本会議は何を目指すのか?――シリーズ【草の根保守の蠢動 第2回】 | ハーバービジネスオンライン

第三次安倍内閣の日本会議系団体所属状況。
タップで拡大

出典hbol.jp

第三次安倍内閣の日本会議系団体所属状況。

"「日本会議」の役員77人のうち、「民間教育臨調」に名を連ねている者は30人にも達する。
名前を加えていない47人のうち25人は宗教団体役員であり、
4人が
「軍恩連盟」
「日本遺族会」
「日本郷友連盟」
「英霊にこたえる会」
など旧軍・自衛隊関係団体の役員、
そして会長・事務総長の2人である。
「日本会議」の四割近い(39%)役員を「民間教育臨調」に送り込みながら、
明らかにそれと分かる会長・事務総長、および3分の1以上を占める宗教団体および旧軍関係者等を表に出さない工夫と努力がなされている。"

出典
 日本会議、神社本庁と安倍晋三 - 原発問題 -The Truth is Out There-

海外メディアが報道する「日本会議」

"日本会議は、国際社会でも危険視されていて、
海外メディアでは
「ナショナリスト組織」(米ニューヨーク・タイムズ)や
「ナショナリスト・シンクタンク」(英エコノミスト)などと報じられている。"

出典
 日刊ゲンダイ|19閣僚中15人がメンバー 最大右翼組織「日本会議」の危険度

海外メディアでは「極右団体」とみなされています。

"西欧圏で「極右」と呼ばれることは「危ない政治勢力」と同義です。"

出典
 自民党と密接な関係の極右団体「日本会議」についての海外の記事 (メモ) - 村野瀬玲奈の秘書課広報室

"日本のマスコミは
日本会議や
統一教会に関することは
報道規制があるようで、
今も詳細な内容を取材した特集番組等は殆どありません。
それどころか、間接的に彼らを持ち上げている傾向が見られ、
日本の大手メディアも彼らに抑えられている可能性が高いです。"

出典
 【脅威】安倍新内閣の閣僚に統一教会や日本会議の関係者が多数!
ナチスを掲げている過激派と写真撮影した新閣僚も!
|真実を探すブログ

「日本会議」について深く切り込んでいるのはなぜか海外メディアばかりで、日本のメディアによる報道はあまり見つかりません。

テロ等準備罪の法案のテキスト文(2017年3月1日時点)

歴史修正主義の最後の砦は「天皇陛下」という皮肉

"「日本会議はエリートの運動だ」、
中野晃一は言う。
「大多数の国民は、その思想の大部分に反対している。
しかしその受動性のために、特にアベノミクスが上手く行っていれば、国民はされるがままになりかねない。」"

出典
 LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE

"少なくとも今のところ思いがけない人物が抵抗勢力になり得る。81歳の天皇、明仁だ。"

出典
 LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE

なんとも皮肉な話ですが、日本会議が崇拝する天皇陛下自身が、同団体の抵抗勢力になっているとする海外メディアの指摘も。

"さる1月、新年の祝辞に際して、天皇は行間で、歴史の反動的な解釈に反対であることを示した。
2月、長男である皇太子、55歳の徳仁殿下はさらに雄弁だった。
極めて稀な記者会見の席で、皇太子殿下は、戦争の歴史が「正しく伝えられる」ことを望んだ。
逆説的に、皇室は今や、日本の自由民主主義の最も優れた盾となっている。"

出典
 LA FACE CACHEE DE SHINZO ABE:アベシンゾーの隠された顔|PAGES D'ECRITURE

"憲法改正を進める自由民主党に対して、天皇や皇太子は正反対の認識を表明している。"

出典
 田原総一朗「天皇・皇太子が踏み込んだ日本国憲法論」 - 異教の地「日本」 ?二つの愛する”J”のために!

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、
様々な改革を行って、今日の日本を築きました。
戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。
また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」

──2013年12月23日、誕生日の際の天皇陛下の会見より。

出典ja.wikipedia.org

「今日の日本は、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、
現在、我が国は、平和と繁栄を享受しております。
今後とも、憲法を遵守する立場に立って、必要な助言を得ながら、事に当たっていくことが大切だと考えております」

──2014年2月21日、東宮御所での皇太子徳仁親王の会見。


◆円安で流出する日本の所得
円安の進行は、経済成長の観点からは成長率を押し下げる方向に働く。 

 ところで、北欧をはじめとするヨーロッパでは、大学の授業料が無料というだけでなく、大学生に生活費が支給されます。つまり、大学に行きたい人は誰でも生活が保障されて通学することができるのです。 

 一方、 最近の日本では:
(1)安倍晋三政権は2013年から、貧困層への生活保護基準引き下げ(保護費削減)を実施。
(2)来年度(2015年)は子育て給付金中止、低所得者向けも圧縮ですって。 
(3)「無料塾」継続困難に 来年度(2015年)から国の補助減
琉球新報 9月5日(金)配信
(4)生活保護世帯の学習支援事業 2015年度から国庫補助半減

(5)生活保護のうち家賃として支払う「住宅扶助」について2015年度から引き下げ、2017年度には2014年度と比べ約190億円減額する。
(2015年度予算で食費など生活費に充てる「生活扶助」の約260億円減額も決まっている。そのため、2015年度は実質では計約320億円の減額となる。)
(6)東京都渋谷区が,年末年始の貧困者への炊き出し(食事の提供)をさせないことを目的に宮下公園など3公園を閉鎖

(7)防衛費、補正予算倍に 「経済対策」名目に拡充(2015年1月8日) 

 アメリカでは、「徴兵制はいらない。貧困があるから」と言われていて、まさに国家規模の「貧困ビジネス」が戦争になっているわけです。 

安倍政権の福祉は【兵隊】貧しい若者を兵隊として「食わせる」国防は最大の福祉と!佐藤正久・自民党参院議員
 
△右翼政権がボリビアとウルグアイを貧困にした


 次に、現在の日本の政治の流れを簡単に見ます。

2011年(第177国会)に、自民党の
高市早苗(自民党)稲田朋美(自民党)山谷えり子(自民党)下村博文(自民党)西村康稔(自民党)山本拓(自民党)が、
児童ポルノ単純所持罪の制定の請願を国会に提出した。


2001年9月「日本女性の会」(日本会議系組織)結成(山谷えり子、西川京子、高市早苗(山谷えり子が顧問の「百人の会」の顧問)らが副会長)。


http://matome.naver.jp/odai/2140963578944305601
出典nsjap.com
高市早苗政調会長と山田一成

【安倍内閣の教育再生実行会議の八木秀次委員が、2014年5月3日に北海道札幌市で開催された在日特権を許さない市民の会(在特会)系集会「日本のため行動する会」に参加していた。】
 (在特会副会長だった桜ゆみこ氏が会のページ上で告知を投稿した2009年10月27日開催の「10・27「日本解体法案」反対請願受付国民集会&デモ」にも、発起人の連名に複数の国会議員とともに八木秀次氏の名前がある)
 (当ブログのコメント: 日本会議(在特会)は、やはり、戦前の教育体制「思想善導(青少年健全育成)」に力を入れているようだ。)


在特会の桜ゆみこは山本優美子として「なでしこアクション」を立ち上げて活動しています
桜ゆみこ在特会副会長
→山本優美子「なでしこアクション」代表
→「慰安婦問題を糺し、毅然とした国の対応を求める国民集会」開催 桜ゆみこ(山本優美子)、桜井誠の写真がこれ。
 奥に写っている桜ゆみこ在特会副会長が、
 山本優美子となって「なでしこアクション」代表に。 なでしこアクション
「慰安婦問題を糺し、毅然とした国の対応を求める国民集会」開催。
 2012年11月6日衆議院第一議員会館。
 参加した「極右」国会議員。
 基調講演 山谷えり子
 (2012年11月6日山谷えり子議員が在特会系の「なでしこアクション」で基調講演) 

元在特会副会長の呼びかけに参集した議員ども
古屋圭司
稲田朋美
衛藤晟一
塚田一郎
宇都隆史
『現・国家公安委員長』の山谷と『前・国家公安委員長』の古屋圭司が共に『なでしこアクション』(元在特副会長が主催するヘイト団体)のイベントでスピーチしていた。・・・ついでにネオナチ稲田朋美も一緒だ。

2005年10月:保守系の女性議員を輩出することをめざした「建て直そう日本・女性塾」
(初代塾長、山谷えり子
二代目塾長、稲田朋美
幹事長、伊藤玲子・前鎌倉市議会議員)
設立(2005年10月)
 http://matome.naver.jp/odai/2140963578944305601
出典nsjap.com
稲田朋美内閣府特命担当大臣と山田一成



18歳選挙権 教員の政治活動に罰則も 自民部会了承
2015年7月3日 東京新聞朝刊

 自民党の文部科学部会(冨岡勉部会長)は二日、選挙権年齢を「十八歳以上」に引き下げる改正公職選挙法の成立を受け、学校教育のあり方をまとめた提言を了承した。

公立学校の教員の政治的行為の制限を強化し、
違反には罰則を科すため、
教育公務員特例法の改正を盛り込んだ。
罰則の内容は明記しなかった。
月内にも政府に提言する方針。

 提言は選挙権年齢の引き下げに伴う「学校教育の混乱を防ぐ」ことを目的に掲げた。
 教員は「政治参加に関する指導で個人の考えや特定のイデオロギーを押しつけることがあってはならない」と明記した。
 これまでも教員の政治活動は制限されていたが罰則規定が設けられれば、教育現場が萎縮する可能性は否定できない。

 団体などが特定政党に偏った教育を教員にさせることを禁じた法律も改正し、
対象を現行の義務教育から高校まで拡大するとした。

 新たに選挙権を持つ高校生への対応では「政治的活動は学校内外で抑制的であるべきだとの指導を高校が行えるよう政府が責任を持つ」とした。
家庭には「子供を街頭演説に連れていったり、投票所で投票している様子を見せたりすることを通して、政治への関心を高める」ことを求めた。
保護者が子供を投票に同行させることを可能にする公選法改正も提唱した。

 提言作成を主導した池田佳隆衆院議員は「一日も早くそういう形にしたい」と記者団に述べ、法改正に意欲を示した。

 自民党は野党時代の二〇一〇年に、
公立学校の教員が政治的行為の制限に違反した場合、
三年以下の懲役か百万円以下の罰金を科す特例法改正案を国会に提出したが、廃案になった。

◆教育の放棄につながりかねず

 林大介東洋大社会学部助教(政治学)の話 こうしてはいけないと上から押さえ付けると、現場は萎縮する。
教員が生徒に「自分たちで材料を見つけて考えて」と教育を放棄することにつながりかねない。
教員がデモに参加したり、SNSで意見を発信したりするような学校外の活動まで制限するべきではない。
生徒に多様な意見をバランスよく提示し、自由に話せる環境づくりをしてほしい。 

(当ブログのコメント)
 安倍政権は、以下に説明する治安維持法によってイノベーションの源泉の科学やアカデミズム(批判精神・現状変革力を根源に持つ)を否定した時代を再現したいのではないか。

(教育規制の経緯)
 以下に、日本会議による教育規制の動きを書きますが、その前に一言言いたい。
 日本会議は、日本を戦前の状態に戻して日本人の真の力を発揮させるのだというビジョンを抱いているのだろうと考えます。
 それならば、劣化した日本の国力を取り戻す力を見せて欲しい。日本の国力を上げる力も無い無能力者の日本会議は早く退場して欲しい。 

(教員の処罰の背景)
 社会の貧困問題が大きくなって来ているので、教員が社会問題を学生に知らせると政権を批判をする学生が育つ可能性があるため、安倍政権が社会教育を禁止しようとしていると考えられる。
 民主主義体制ならば、政権批判を恐れる必要は無いが、戦前体制では批判意見を封じる必要があるためと考えられる。 

 以下に、 日本会議による教育規制の経緯を書きます。


1981年10月、日本会議の前身の「日本を守る国民会議」が発足した。日本会議が発足したのは1997年5月。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の二つの保守系団体が統合され、今日の姿になった。

1989年7月、右翼の梶山茂が、本島長崎市長に対して実弾入りの脅迫状を送った。その後逮捕・有罪(懲役二年)になった。1990年5月24日国会で話題
梶山茂は、全国教育問題協議会の顧問をしている。
山谷えり子も、梶山茂と一緒に全国教育問題協議会の顧問をしている。

梶山茂は在特会関係者

1990年1月18日、本島長崎市長が右翼の若島和美に銃撃された。

1994年、「終戦50周年国民運動実行委員会」が結成された。
(会長・加瀬俊一元国連大使、最高顧問・福田赳夫元首相)
この委員会は、日本を守る国民会議、日本遺族会、神社本庁、英霊に応える会、新日本協議会、明治神宮、靖国神社、神道政治連盟、教科書を正す親の会など右派勢力が結成した。

1994年12月、自民党が「終戦50周年国会議員連盟」を結成。
(奥野誠亮会長、板垣正事務局長、顧問・橋本龍太郎など、衆参161議員)
 敗戦50周年の1995年8月15日に企画されていた、侵略戦争を反省し、戦後処理問題に一定の見通しをつけて、アジアとの和解を実現するための国会決議に反対するために「終戦50周年国会議員連盟」が結成された。

 この議員連盟は、「終戦50周年国民運動実行委員会」と一体となって、
「日本は侵略国ではない」「戦争反省決議反対」「英霊に応える決議を」などと主張して、地方議会決議(26県、90市町村が決議)や署名運動(456万筆達成)に取り組んだ。
 この議連や右派勢力の運動が「成功」して、敗戦50周年決議は、当初の目論見から大きく外れ、侵略戦争の反省などまったくない内容になった。
 終戦50周年国会議員連盟は、96年6月、「明るい日本・国会議員連盟」(奥野誠亮会長、板垣正事務局長)に発展的改組された。
この議員連盟は、歴史・検討委員会の侵略・加害否定の「研究成果」と「業績」を受け継いで、95年1月に発足した新進党(当時)の「正しい歴史を伝える国会議員連盟」(小沢辰男会長)と共同して、96年の教科書「偏向」攻撃で中心的な働きをおこなった。
 同議連は、「『慰安婦』は売春婦」というキャンペーンを行い、96年6月以降は、教科書の「慰安婦」や南京大虐殺記述を攻撃し、教科書からの削除を要求して活動した。
 この議連の活動は、97年2月の「若手議員の会」の結成以降は、「若手議員の会」に引き継がれることになった。

1995年1月、新進党議員の「正しい歴史を伝える国会議員連盟」が結成された。

1997年5月、「日本会議」が発足した。安倍政権を完全支配する「日本会議」の源を探る。

1999年1月31日、元在特会幹部の増木重夫が事務局長をする「教育再生・地方議員百人と市民の会(百人の会)」が増木らによって設立された。
産経新聞が主導した新しい歴史教科書をつくる会の運動と連動した動きである。
山谷えり子が(実質的に筆頭の)顧問をつとめた。
(増木氏は「山谷えり子氏とは十五年ほど前に、(百人の会の)顧問をお願いしてからの付き合い」としている。)

 http://matome.naver.jp/odai/2141112838210565301
2009年8月17日撮影、増木重夫元在特会関西支部長(左)と笑顔で写真を撮る安倍晋三(サイトより。現在は削除済)

【山谷えり子国家公安委員長が在特会系行事に参加しまくっていたことが判明】

山谷国家公安委員長、2010年12月8日に、増木(元在特会幹部)を議員会館に招いて写真撮影していた

2000年2月 山谷えり子が顧問をしている教育再生地方議員百人と市民の会」を代表して土屋敬之(たかゆき)議員が東京女性財団作成の『ジェンダー・チェック』を不適切と批判。 

2000年4月、参議院自民党政策審議会の下に設置された青少年問題検討小委員会が、「青少年社会環境対策基本法案」(当初は、青少年有害環境対策法案)を策定した。(青少年健全育成基本法案)

(社団法人日本図書館協会、2001年3月21日)
  参議院自民党政策審議会の下に設置された青少年問題検討小委員会が昨年4月に策定した「青少年社会環境対策基本法案」(当初は、青少年有害環境対策法案。以下、法案)が、議員立法として今国会に提出されようとしています。
   日本図書館協会は、戦前に公立図書館が国家意志を担って「思想善導」と 検閲のための機関となった歴史を反省し、戦後、「図書館の自由に関する宣言」(1954年総会決定。1979年改訂)を図書館界の総意として確認し、国民 の知る自由・学習する権利を保障することが公立図書館の基本的任務であることを表明しました。
少数意見、あるいは不快、危険と批判を受ける表現をも含め、 言論・思想が自由に表出され自由にアクセスできることが必要です。それが日本国憲法の原理の求めるところであり、図書館はその実現維持のために不断に努力 することを使命とします。
   本法案は、政府と地方公共団体に対し、子ども達の発達に悪影響を与えると考えられる商品や情報を幅広く規制する権限を与えるものです。子ども達が幸せに成長することは社会の願いです。しかしながら、法案はそれに応えるものではなく、次のような重大な問題点をもっています。
・・・・・
  第2に、政府は1977年度以来、再三「有害」図書類と青少年の「逸脱行動」と を関係づけるべく調査を重ねていますが、「有害」図書類に接することが逸脱 行動の原因であるという結果は得られていません。
・・・・
 第5に、政府や地方公共団体などの行政機関に、社会の木鐸たる報道メディア に直接介入する権限を与えることです。すでに報道・出版に関わる諸団体から 検閲の危険さえ指摘されていますが、私たちもその危惧を抱くものです。


2000年6月、8月、安倍晋三宅火炎瓶事件
安倍晋三の事務所がヤクザに対立候補の中傷を依頼!?安倍氏宅火炎瓶事件まとめ
(下関市市長選のときに、暴力団工藤会の組員らが、市長選に出馬した古賀敬章氏を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)した怪文書をバラまくという仕事を、安倍事務所の秘書から請け負って、それをきっちりやり遂げた。
 業界で言うところの「裏選対」というやつだが、この報酬が待てど暮らせど安倍事務所から支払われない。ヤクザをダマすとはいい度胸しているじゃないかということで犯行に走った、というのだ。)

その真相というのは、
①安倍事務所が小山氏に安倍氏が推す市長候補の対抗候補者の選挙妨害を依頼、
②小山氏、怪文書を作成して撒く、
③見返りに土建工事を出すとの約束の「念書」を地元秘書が出す、
④現金3百万円は秘書を通して受け取ったものの、肝心の工事の方は1年以上経っても出されない、
⑤小山氏、怒って工藤会に襲撃依頼
ということで、このことは裁判でも明らかになっています。(しかしマスゴミはそのこともやはり報じなかった)

2000年の衆院選の際の2000年5月に、雷韻出版という会社から『誰も知らない日本共産党のホンネ』という本が出版され、
自民党が全国で日本共産党を攻撃する“宣伝ビラ”として大量に撒かれた。雷韻出版の当時の代表はネオナチ団体「国家社会主義日本労働者党」の代表と同一人物であった。
2000年6月21日の『赤旗』は、自民党広報本部長の名で全国の支部にあてた「通達文書」をすっぱ抜き、自民党本部がこの本を大量に買い取り、選挙に活用するよう全国に通知していたと報じている。
 ようするに選挙違反にならないよう、自民党が本の宣伝の体裁をとって共産党攻撃を仕掛けていたわけだが、問題はその本の出版元だ。
この本を出版した雷韻出版の当時の代表がネオナチ団体「国家社会主義日本労働者党」の代表と同一人物であり、2011年に、高市や稲田とツーショットにおさまっていた。

2001年9月「日本女性の会」(日本会議系組織)結成(山谷えり子、西川京子、高市早苗(山谷えり子が顧問の「百人の会」の顧問)らが副会長)。


http://matome.naver.jp/odai/2140963578944305601
出典nsjap.com
高市早苗政調会長と山田一成

山谷えり子氏が衆議院文部科学委員会で性教育・性の自己決定権を批判。2001年10月31日
(衆議院文部科学委員会での山谷えり子の質問)
((主体的に選択できる自己決定権を持つことが女性の)基本的人権としての選択肢の一つであるというようなことが確認されたというような文章では、私の読解力ではそういうふうに読み取れなかった)
(自己犠牲の美しさというような献身、それから上に立つ者のやせ我慢みたいなものを伝えていくというような教材の選び方があってもいいのではないか)


2001年11月19日、山谷えり子氏が、統一協会の日刊紙世界日報』で夫婦別姓問題で「通称使用拡大で十分」と発言。2001年11月
夫婦別姓選択性推進を求める申し入れ女性国会議員有志リスト
http://www.kaigamori.com/bessei/info/mousiire.html
統一協会の日刊紙世界日報のサイト (7)通称の使用拡大で十分/衆議院議員 山谷えり子氏 (8)家族は「運命共同体」/衆議院議員 山谷えり子
http://www.worldtimes.co.jp/mem2/features/nisikawa/main.html
(警察庁を管理する国家公安委員会のトップが、国が問題視する団体と「深い関係」なんて冗談ではない。)


2002年7月3日:
小泉内閣は有事法案の成立と教育基本法改悪をワンセットで一挙に進めようとしている
--有事法制反対と教育基本法改悪反対との結合を--
 文部科学省は、2001年11月に「教育基本法のあり方及び教育振興基本計画策定」に関する諮問を中教審に対して行いました。
これは、教育基本法の早期改悪を要求する自民党内の強硬姿勢に後押しされたものでした。
「2002年5月24日にも、有事関連三法案の衆院強行採決か?」と報道され、政府与党の強行突破で今国会における有事法案成立の可能性が現実になったのと同じ頃に、

中教審の「基本問題部会」(座長:鳥居泰彦中教審会長(2001年から2006年まで))を設置し、
鳥居会長は、5月28日の総会で、反対意見の存在を無視して、6月21日の総会には「基本法見直しの骨子」(=見直すという結論と見直し内容の骨子)を提出するとの強硬姿勢を明らかにしました。

2003年10月1日:国立大学が法人化された。

2002年6月27 日本会議の山谷えり子衆院議員を代表に、「行き過ぎたジェンダーフリー教育や性教育から子どもを守る」ために「健全な教育を考える会」を結成。
民主党国会議員78人、山谷えり子氏が代表幹事。

2002年8月:土屋たかゆき議員(山谷えり子が顧問の「百人の会」の理事)が、統一協会の日刊紙の『世界日報』の(2002年8月4日「首都圏のぺージ」)で発言。

2002年10月:山谷えり子議員が、統一協会の日刊紙の『世界日報』2002年10月31日号で、「禁欲教える価値観こそ必要」と発言。

2002年11月:山谷えり子議員が、統一協会の日刊紙の『世界日報』2002年11月4日号で、「フリーセックスを奨励する」「日本では一部の性教育者たちの思い込みで過激な性教育が選択の余地なく行われている」と発言。
 (そもそも公党の議員が、裁判でも明確になっている反社会的な犯罪集団の機関紙・誌に登場し、その運動に結果的に与することにまったく疑問を抱いてないとすれば、そうした議員活動こそ”不適切”であり、こうした協力関係をつづけていくこと自体が”逸脱”行為であるといわざるをえないのではないでしょうか。)

2003年7月2日都議会で「行き過ぎたジェンダー・性教育」に懸念を持つ議員が、当時の東京都教育長に、この頃七生養護学校で使われていた『からだうた』という歌の歌詞について「質問」した。
2003年7月2日に都議会で質問した都議会議員・土屋敬之(たかゆき)
山谷えりこ議員が顧問をしている「教育再生地方議員百人と市民の会」東京支部理事)は授業内容を「世間の常識とかけ離れた教育だ」と述べ、都教委に「毅然とした対処」を要求。


2003年7月2日,C都議は都議会定例会での一般質問で,
「最近の性教育は,口に出す,文字に書くのもはばかられるほど,内容が先鋭化し,世間の常識とかけ離れたものと なっている」,
「ある都立学校養護学校(※内容から七生養護と分かる)の教諭は小学部の 児童に『からだのうた』を歌わせている」「男女の性器の名称を歌うことになっている」 と,
七生養護を名指し同然に非難し,
さらに都教委に対し,
①不適切な教材配置の実施を 調査すること,
② 320 人いる指導主事を活用して教員を直接指導すること,
③週案の提出 を徹底させること,
④不適切図書や教材について,第一に調査,第二に廃棄処分すべき, 
と要求して教育現場への介入・統制を促した。
これに対し,石原都知事は
「どれを見ても,あきれ果てるような事態」
「異常な何か信念をもって,異常な指導をする先生」
など と答弁し,
教育長も,
「とても人前で読むことがはばかられる」
「極めて不適切な教材」
と決め付けた上,C都議が求めた行動①~④を積極的に実行していく旨答弁した。
マスコミでは一社のみがこれを報道した。

2 「視察」と称し大挙して学校に乗り込む
 そのわずか二日後の7 月4 日,A,B,C都議は,「視察」と称して,市議2 名,区議 1 名,都教委指導主事ら7 名,報道した新聞社の記者1 名を同行して七生養護を訪れた。 

A都議がこの新聞社だけに声をかけた理由は価値観が合致するからということであった (同新聞は,かねてよりフェミニズム,ジェンダーフリーを敵視する観点から教育現場へ の批判を重ねていた。
「最近は男らしさ,女らしさまで否定する過激なフェミニズムが教育現場に浸透」,
「男らしさ,女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は,国を危うくすることになりかねない…日本の伝統や文化も無視」
など)。

 一行は,まず校長室で校長から1 時間ほど説明を受けた。

同校長は同年4月に赴任した ばかりで,「こころとからだの学習」の実践を見たことすらほとんど無く,教材の使用目的・使用方法や授業の意図もろくに説明できなかった。
にもかかわらず,同校長が当日配布した資料には
「今後の対応について」として
「指導主事の訪問を依頼し,見直しについて具体的な指導を仰ぐ」
「不適切な教材・内容は廃棄・中止する」
「月別の指導計画,週の授業計画の事前提出を求める」
と記載され,三都議らの要求に沿った方針が既に示されていた。
校長は都議らと都教委のすりあわせの結果を先に伝えられ受諾させられていたのであり,
「説明会」とは名ばかりのアリバイ作りに過ぎなかった。

3 保健室での侮辱・教材持ち去り
 その後,都議らは保健室の「視察」を要望し,

都議ら17 名(七生養護の管理職3名を含む)が保健室に一斉に移動し,入室した。
都議らは室内にいた養護教諭2名に挨拶や自己紹介もないまま保健室内を物色し始め,
保健室内の教材を撮影したり,
教材を棚から取 り出すなどし始めた。
C都議が「大きい人形があるだろう!出して!」と命令口調で,養 護教諭に人形を運び出させて,机の上に下半身だけ衣服を脱がせた形で並べ,
同行した新 聞記者に写真を撮らせた。
都議らは,精通指導用の教材や,コンドーム装着用の棒等を見 て
「常識では考えられない」
「あなた,『からだうた』を宴会で歌えるんですか?感覚が麻痺しているよ!」
「教員が性器のみに執着しているから,こんな指導になるんだ。ここは 治外法権じゃない」
「どこの大学を出ているのか知らないけれど,あなたもっと勉強しなければならない」
などと養護教諭を罵倒した。
さらに,ファイルを勝手に持って行こうと したB都議に,養護教諭が
「何を持って行くのか教えて下さい」
「性教育検討委員会に使 う資料がある」
と言うと,
B都議は
「俺たちは国税と同じだ。1 円までも暴いてやるからな」
「何を使いたいかそれを抜け。コピーして持って行く。それで仕事ができないという なら能力が低すぎるということだ!」
「名誉毀損で訴えるからな!」
など威圧的な言葉を重ねた。
都議らが立ち去った後,養護教諭らは今まで取り組んできたものを全て否定され た屈辱と恐怖心から,抱き合って泣き出してしまった程であった。
この「視察」の際に持 ち去られたり,この前後に提出を求められたりして,性教育に関する教材・資料はほぼ根こそぎ都教委に没収された形となり,授業に著しい支障が生じた

2003年10月1日:国立大学が法人化された。

2005年10月:保守系の女性議員を輩出することをめざした「建て直そう日本・女性塾」
(初代塾長、山谷えり子
二代目塾長、稲田朋美
幹事長、伊藤玲子・前鎌倉市議会議員)
設立(2005年10月)
 http://matome.naver.jp/odai/2140963578944305601
出典nsjap.com
稲田朋美内閣府特命担当大臣と山田一成

2005年11:山谷えり子氏が内閣府大臣政務官(男女共同参画担当)に就任

安倍晋三と「2006年8月15日:自民党の加藤紘一宅放火事件
(この放火事件で加藤紘一・自民党元幹事長の実家兼事務所が全焼した事件で、容疑者が8月29日にやっと逮捕された。
 犯人は、右翼団体「大日本同胞会」堀米正広。
右翼団体「大日本同胞会」は、暴力団「住吉会」の鈴木康夫常任相談役が率いる「音羽一家」の系列だそうです。
加藤氏が安倍首相の靖国神社参拝を批判してきたことが事件と関係していると見られている。
(当ブログのコメント: 安倍内閣の山谷国家公安委員長と深く結びついている在特会の協賛団体に、暴力団住吉会の会長が最高顧問をしている右翼団体の「日本青年社」が加わっています。)

以下は、Copy:殺人をほのめかすヘイトデモを「政府が承認」する時代に移行した」に詳細を記載:
日本青年社最高顧問・西口茂男と、住吉会会長の西口茂男については同一人物
*在特会の協賛団体に指定暴力団傘下住吉会系右翼の「日本青年社」が名を連ねてる。
*警察が在特会のデモを守るようになる以前は、暴力団住吉会系の右翼「日本青年社」が在特会のデモを守っていた。 
(日本青年社は、問い合わせに対して、[在特会とは”友好関係”]と回答している。)
(安倍晋三は、暴力団住吉会系右翼団体の日本青年社の関係する(北朝鮮に誘拐された被害者を)「救う会」の活動を通じて政治権力を強めてきた。自民党の森派が一枚噛んでいる(北朝鮮に誘拐された被害者を)「救う会」と住吉会系右翼「日本青年社」の間に密接な関係がある。具体的には、北朝鮮拉致問題の新潟・救う会会長、水野孝吉は、指定暴力団住吉会系の日本青年社の幹部である。
 自民党の「安倍晋三」元総理大臣と「加藤紘一」元官房長官は何故、仲が悪いのですか?
(安部さんが総理の時、小泉改革を継承した安部改革に対して、復党していた加藤さんが強く反対した。これが一番大きな理由でしょうかね。)

-------安倍内閣開始-------------------------------
2006年9月26日、安倍内閣(及び大臣並みの地位の首相補佐官)が組閣され、「歴史教育議連」「日本会議議連」に参加しているメンバーが大量に登用される。
バックラッシュ派である高市早苗(山谷えり子が顧問の「百人の会」の顧問)が少子化・男女共同参画担当大臣、
山谷えり子氏が教育改革担当首相補佐官、下村が官房副長官になる。

2006.12.13
 京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員(共産党)は、2006年3月に、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問し、第一次安倍政権が誕生 して3カ月後の2006年12月13日に、

「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に 提出。
「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性 があることを指摘した。

2006年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名での答弁書では、吉井議員の以下の質問に以下の返答をした
(吉井):「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか。」
(安倍):「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である。」


2007年2月13日、日本共産党の志位和夫委員長が、衆院予算委員会での総括質疑で、子どもの中での貧困の広がりを指摘し、「成長の可能性をはばむだけでなく、貧困が次世代に引き継がれる危険をつくりだしている。日本の未来にとって重大な問題だ」と、安倍晋三首相を問いただした。
志位氏は、経済協力開発機構(OECD)の報告書をもとに、平均的所得の半分(貧困ライン)以下の家庭で暮らす子どもの割合が、OECD諸国平均を上回る 14・3%にのぼると指摘。とくに母子家庭・ひとり親家庭では貧困ライン以下の家庭で暮らす子どもの割合が57・9%にものぼり、平均の三倍近くになるこ とを明らかにした。

 安倍首相は「貧困が再生産される日本にしてはいけない」と答弁した。

 志位氏は、子どもの貧困に向き合う政治の責任として、予算のあり方と最低賃金の問題を取り上げた。

 志位氏は「税制と社会保障で所得の再分配をおこなうことが予算の役目だ」と指摘。ところが、日本では税制と社会保障によっても子どもの貧困率が逆に1・4%高まるという逆立ちぶりを浮き彫りにしたグラフを突きつけた。

 志位氏は、所得の低い母子家庭に対して子どもが十八歳になるまで支給されている児童扶養手当の大幅削減を政府がすすめようとしていることを批判し、
生活保護を受けている母子家庭への母子加算の段階的廃止を政府がすすめようとしていることを批判し、
「母子家庭の『命綱』を二本ともたち切ろうとする冷酷な政治だ。
中止を強く求める」と要求した。

 母子加算の段階的廃止について、安倍首相は「生活保護を受給している世帯と、していない世帯との公平性をみないといけない」とのべた。志位氏は「懸命に 生きている母子家庭から母子加算を取り上げるのではなく、必死に働いても生活保護水準以下の暮らししかできない母子家庭の水準を引き上げるために心を砕く ことこそ、本当の公平性だ」と厳しく批判した。

最賃の抜本的引き上げを

 さらに志位氏は、貧困の広がりの土台に世界でも最低水準の最低賃金があるとして、「最低賃金で働いても貧困にならない社会を目標にし、最低賃金を労働者の平均的所得の五割にすることを目標に掲げるべきだ」と求めた。

 安倍首相は「中小企業を中心に事業経営が圧迫され、雇用が失われる可能性が高い」と答弁。
志位氏は「中小企業の経営を圧迫するというなら、無法な下請けいじめをやめさせることこそ必要だ。
最低賃金の抜本引き上げを中小企業の経営を応援する政治と同時並行ですすめるべきだ」とのべた。
その上で、「貧困と格差を土台からただしていくために、最低賃金を抜本的に引き上げ、全国一律の制度とすることを強く求める」と強調した。

2007年3月、安倍政権下で、 安倍首相の地元、山口県の原発建設予定地の四代正八幡宮という神社で、原発建設に反対して解任された林宮司が06年、山口県神社庁を相手に文書の偽造、違法手続があったとして裁判を起こしたが、裁判の途中の2007年3月に突然に死亡

2007年4月17日、安倍政権下で、伊藤一長長崎市長が右翼の城尾哲弥に銃殺された。

2009年10月1日、在特会と関連団体を批判するジャーナリストに抗議する目的で在特会系右翼団体『そよ風』メンバーらが数十名規模でジャーナリストのマンションや「実家」に掛けつけ、いやがらせをした。

2010年3月30日:
「国立大:法人化後医系・文系で研究の質低下」
 論文・学会発表の数が、医歯薬学系では「(法人化前より)減った」との答えが57.7%、文科系も34.5%に上り、それぞれ「増えた」を上回った。

 「職場の雰囲気」が「悪化した」との回答は、医歯薬学系47.1%、文科系45.9%と、
悪化の割合が理工系、農学系より高かった。 

2010年5月4日、埼玉県浦和市で開催された在特会系の集会に長谷川三千子NHK経営委員と上田清司埼玉県知事が在特会のベテラン会員の村田春樹らとともに登壇

2010年6月24日、山谷えり子が、桜組の副代表の松谷祐子(在特会関係者)から政治献金を受領(2010年1月18日も)

2013年12月:文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」(座長:日本会議関係者の鳥居泰彦)は2日、現在は正式な教科ではない小中学校の「道徳の時間」について、教科への格上げを求める最終的な報告書案を、修正を鳥居泰彦座長に一任し下村博文文科相に提出した。

2014年8月4日:国立大学法人評価委員会
(2003年から2009年まで、日本会議関係者鳥居泰彦が委員に在籍していた)
(文部科学省は国立大に人文系はいらないと考えている)
 http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf

2014年9月2日:東京新聞朝刊
国立大学から文系学部が消える!安倍首相と文科省の文化破壊的“大学改革“
「文部科学省は先月2014年8月、同省の審議会『国立大学法人評価委員会』の論議を受け、国立大の組織改革案として『教員養成系、人文社会科学系の廃止や転換』を各大学に通達した」

2015年5月27日:
文部科学省が、国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小へ転換(文科省が素案提示)

大学の「文学部」が政府に消されようとしてる…
 
国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策
(この件は、「東京新聞」などの少数を除いて、ほとんど報道されません)

以上の大学教育への関与以外の日本会議の動きを以下に抜粋します。


2011年5月10日、 安倍晋三と、下村博文衆議院議員、八木秀次麗澤大学教授が、在特会系右翼団体『そよ風』のシンポジウム「「日本がもっと好きになる教科書」誕生 ~『新しい日本の歴史』に参加

2011年7月16日、八木秀次が、東京都内で行われた「自治基本条例に反対する市民の会・設立大会」で同会設立者の(在特会会員の)村田春樹代表とともに講演を行っている。この集会は当初在特会公式ページ上で「在特会東京支部共催」と告知を行っていた。後に在特会の桜ゆみこ事務局長(当時)が手違いであったとして、予定表から削除している。 

2011年8月15日、東京・永田町の自民党会館で社団法人・全国教育問題協議会統一協会の勝共連合が労力を支援)の第31回教育-研究大会パネルディスカッションが行われた。
基調講演:元内閣総理大臣 安倍晋三
●コーディネーター ・小林正氏(元参議院議員・教育評論家)

●パネリスト ・久保井規文氏(全日本教職員連盟委員長) 
・萩生田光一氏(前衆議院議員) ・山谷えり子氏(参議院議員)

2011年12月6日、山谷えり子が作った「女性塾」が、統一協会世界戦略総合研究所と集会を共催した。 

2011年12月14日在特会結成当初から在特会会員である村田春樹が事務局長をしている「従軍慰安婦の嘘を許さない女性の会」が、なでしこアクション」に名称を変更した。
【動画】なでしこアクション2011慰安婦の嘘を許すな! 挨拶 村田春樹氏

2012年3月2日、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)・「チーム関西」の元幹部ら4名が、ロート製薬株式会社による韓国人女優キム・テヒのCM起用に抗議するとして同社本社を訪れ、従業員を脅迫した。

2012年6月3日、在特会が老人に集団暴行。警察は逮捕も介入もせず。

第277回:ダウンロード犯罪化を含む著作権法改正案の参議院での可決・成立及び今後のこと
2012年6月20日 (水)
「主に法案を強力に推進していた、自民党の馳浩議員や下村博文議員」 

   この法案を通した文部科学委員会の名簿。この問題で中心になって活動していた自民党の議員は馳浩議員と下村博文議員。こういう名簿をきちんとデータベースとして共有しておくことに今後は意味が出てくる。2012年6月15日
 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/180/0061/18006200061007c.html

2012年7月、在特会が、「なでしこアクション」への参加を促進
在日特権を許さない市民の会(在特会) - 呟き : 【拡散希望】「なでしこアクション」 の行動に参加を!
 2012年7月13日(金曜日)
 【拡散希望】「なでしこアクション」 の行動に参加を!(在特会

2012年7月16日、山谷えり子議員、安倍晋三元総理大臣が、在特会関係者の川田ただひさ札幌市議会議員の日本会議の集会で講演。産経新聞社が後援

2012年8月8日、東京・永田町の自民党会館で社団法人・全国教育問題協議会統一協会の勝共連合が労力を支援)の第32回教育-研究大会が行われ、安倍晋三内閣時の首相補佐官だった山谷えり子氏が基調講演を行った。
2012年8月9日(2日目)、社団法人・全国教育問題協議会 

「地方分権よりも文部大臣に権限を与-える必要があるとした。」

2012年11月6日に、(在特会のサーバが管理する「行動する保守運動のカレンダー」で「なでしこアクション」の集会が案内され)
慰安婦問題を糺し、毅然とした国の対応を求める国民集会」開催。
2012年11月6日衆議院第一議員会館。
【主催】(事務局長が在特会員の村田春樹。代表者が在特会員
山本優美子なでしこアクション
 参加した「極右」国会議員。
 基調講演 山谷えり子
 (2012年11月6日山谷えり子議員が在特会員の開催した「なでしこアクション」で基調講演)
在特会員の山本優美子の呼びかけに参集した議員ども
 
参加議員・秘書 (順不同)
【国会議員】
衆議院議員 古屋 圭司 先生(自民党)
衆議院議員 向山 好一 先生(民主党)
衆議院議員 渡辺 義彦 先生(国民の生活が第一)
参議院議員 山谷 えり子 先生 (自民党)
参議院議員 衛藤 晟一 先生(自民党)
衆議院議員 新藤 義孝 先生(自民党)
参議院議員 塚田 一郎 先生(自民党)
衆議院議員 長尾 敬 先生(民主党)
参議院議員 宇都 隆史 先生(自民党)
衆議院議員 稲田 朋美 先生(自民党)
衆議院議員 柴山 昌彦 先生 (自民党)
【国会議員秘書】
衆議院議員 今津 寛 先生秘書(自民党)
参議院議院 磯崎 仁彦 先生秘書(自民党)
衆議院議員 衛藤 征士郎 先生秘書 (自民党)
衆議院議員 小池 百合子 先生秘書(自民党)
参議院議員 三原 じゅん子 先生秘書(自民党)
衆議院議員 城内 実 先生秘書(自民党)
【地方議員】 神奈川県議会議員 小島 健一 先生
取手市議会議員 小嶋 吉浩 先生
秦野市議会議員 小菅 基司 先生

 
『現・国家公安委員長』の山谷と『前・国家公安委員長』の古屋圭司が共に『なでしこアクション』(元在特副会長が主催するヘイト団体)のイベントでスピーチしていた。・・・ついでにネオナチ稲田朋美も一緒だ。 


2013年1月27日、日本のため行動する会(日行会)で、川田ただひさ札幌市議会議員(日本会議北海道本部常任理事)が街宣を行なった。川田市議の街宣の旗持ちが在特会の金森孝志

2013年2月10日、川田ただひさ市議の選挙対策員の在特会の海道誠が迷彩服を着て市民に暴行。なお、川田市議は、選挙事務所で在特会の藤田正論副会長と握手で記念撮影

2013年9月21日、日本のため行動する会(日行会)が、ベテラン在特会会員の村田春樹氏を招いた講演会開催。

2014年5月3日、安倍内閣の教育再生実行会議八木秀次委員が、2014年5月3日に北海道札幌市で開催された在日特権を許さない市民の会(在特会)系集会「日本のため行動する会(日行会)」に参加していた。



2014年8月15日、在特会=「在日特権を許さない市民の会」などの右派系市民グループが、男性2人に重軽傷を負わせた。
(暴行現場には在特会の桜井誠会長もいたとみられている。)


2014年9月11日、在特会関係者の金子やすゆき市議への辞職勧告決議を求める署名15,000筆が札幌市議会議長に提出された。
「アイヌ民族へのヘイトスピーチを撤回しない札幌市議会議員 金子やすゆきに対する議員辞職勧告決議を求めます」
報道関係者のみなさま

 このたびは、わたしたちの陳情に足をお運びくださり、ありがとうございました。わたしたちは、SAPPORO AGAINST RACISMという金子やすゆき市議への辞職勧告決議を求めるためのあつまりです。これまで、在日特権を許さない市民の会(通称「在特会」)などの「行動 する保守」と呼ばれる諸団体による道内でのヘイトスピーチ・デモにたいし、カウンターといわれる路上での抗議行動をおこなってきたメンバーと、 C.R.A.C.(Counter-Racist Action Collective)、とくにC.R.A.C.NORTHで構成されています。

 8月25日にはじめたわたしたちの署名は、瞬く間に賛同を得、9月9日現在15,448筆に達しております。今回の陳情では、そのうち15,000筆を札幌市議会議長に提出しに参りました。

 8月11日、金子市議がTwitter上でした発言はヘイトスピーチであり、許すことができません。ヘイトスピーチとは、人種的、民族的あるいは性的な マイノリティに対するその属性に基づいた差別的な発言を意味しています。ヘイトスピーチが差別扇動表現とも訳されるのは、これが単に「不快」あるいは「下 品」な表現だということではなく、脅迫や名誉毀損が他人の人権を傷つけるように、マイノリティに対する人権侵害であり、差別を扇動してさらなる被害をつく りだし、ひいては社会を破壊する恐れがあるという認識が国際的に広がってきたからです(詳しくは師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』をご参照くださ い)。

 9月9日現在、自民党札幌市支部連合会が金子市議の除名を決定したと報じられていますが、除名されても金子市議が発言の謝罪・撤回をしたことにはなりま せん。また金子市議は自身のブログで自説に固執して開き直りをくり返しており、アイヌ民族へのヘイトスピーチが確信犯である彼のような人物が、公人である ことにひしひしと怖さを感じています。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201409%2F2014090900823&g=pol
 

 さらにわたしたちは、「アイヌ利権」という呼び名の下で、アイヌ民族へのアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)に留保をつけられ、ことさらに攻撃されることに危惧を抱いております。

 (略)

 SAPPORO AGAINST RACISMの近況は、facebookコミュニティ(https://www.facebook.com/resignkaneko)かC.R.A.C.(NORTH)のTwitterアカウント(https://twitter.com/crac_north)を通じてお伝えしています。ぜひご覧下さい。

 近日わたしたちは、全国のカウンター行動やパレードを中心とした反レイシズム運動をつたえる反差別パネル展を札幌市で開催する予定です。また、随時、行動する保守のヘイトデモにたいしカウンター行動を呼びかけます。今後ともご注目頂ければ幸いです。

2014年9月10日
SAPPRO AGAINST RACISM

2014年9月22日、在特会の土屋たかゆき元東京都議会議員yamatotube2が、在特会金子やすゆき札幌市議会議員と日行会の坂元倫孝幹事長との2014年9月22日対談ビデオを宣伝。土屋たかゆきのサイトの記事のキャッシュyamatotube2

2014年10月23日、北星学園大学に9月12日に、元朝日新聞記者の大学講師の解雇を求める脅迫電話をかけた男が逮捕された
■ネットに子どもの写真や実名
 「反日」「捏造(ねつぞう)記者」といった言葉で、北星学園大に勤める植村氏を中傷するネット上の書き込みが目立ち始めたのは今年1月末だ。
 「週刊文春」2月6日号が「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との記事を掲載していた。かつて慰安婦の報道にかかわった植村氏が、4月 から関西の大学で教鞭(きょうべん)を執ると伝え、植村氏が書いた記事について「捏造記事と言っても過言ではありません」との研究者のコメントがつけられ ていた。
 ネット上で、大学へ抗議電話やメールを集中させる呼びかけが始まった。3月、大学側が「採用予定だった植村氏との雇用契約は解消されました」とホームページで公表すると、ネットには「吉報」「ざまぁ」の書き込みが相次いだ。
 植村氏によると、その後、自宅に面識のない人物から嫌がらせ電話がかかるようになった。ネットに公開していない自宅の電話番号が掲載されていた。高校生の長女の写真も実名入りでネット上にさらされた。
「自殺するまで追い込むしかない」「日本から、出ていってほしい」と書き込まれた。
長男の同級生が「同姓」という理由で長男と間違われ、ネット上で「売国奴のガキ」と中傷された。
 嫌がらせや中傷は今もやまず、植村氏が弁護士を通じてひどい書き込みの削除をプロバイダーに求めているが、削除が追いつかないという。

2014年10月25日、約2カ月10日前の傷害事件で5人の在特会関係者がやっと警視庁に逮捕された。 

2014年10月31日、北星学園大学が、在特会系右翼の日行会らの脅迫により、元朝日新聞記者の大学講師を来年度は雇用しない方針
 大学側の動きに危機感を持った教授らが30日、「大学の自治と学問の自由を考える北星有志の会」を結成。メンバーの教員は毎日新聞の取材に「脅迫者の要求に応じれば被害は拡大する。踏みとどまらないといけない」と話した。
 関係者によると、学部長らで構成される全学危機管理委員会が29日に開かれ、田村学長が「財政的、人材的問題」と「入学試験が心配」などの理由を挙げ、 「来期の雇用はない」と述べた。11月5日に開かれる臨時の大学評議会に諮問。大学評議会や理事会での意見聴取などを経て、最終的には田村学長が決定する という。
 植村氏は2012年4月から非常勤講師を務め、留学生向けの講義を担当している。
 毎日新聞は北星学園大に文書で取材を申し込んだが回答がない。【山下智恵】

2014年11月2日、在特会関係者の金子やすゆき札幌市議会議員が、札幌市議会による、北星学園大学の植村隆非常勤講師の応援決議の準備を批判した。

2015年2月2日、北星学園大に、一般入試の会場などで教職員や受験生らに危害を加えるとの新たな脅迫文が届いた。昨年5月以降、同大にこうした不審文書が届くのは5通目。

2015年10月5日、【NNNドキュメント’15】南京事件~兵士たちの遺言~
南京事件の証言:「問いただすと、天野は連日あちこちから女を連行しては、部下とともに強姦していたことがわかった。」)

2015年11月26日、慰安婦報道の元朝日、植村隆氏が北星学園を本年で退職

川内原発1号機2号機では、264本の燃料棒を束ねた集合体が各157体も使われている。そのすべてを残り2週間で抜き出し、保管場所を見つけて運搬する。到底、無理な相談だ。
出典「1ヵ月後の巨大噴火を予知」そのとき、原発をどうするか?核燃料棒の取り出しは、とても間に合わない (現代ビジネス)

「九電は
『火山を監視して危険な兆候があれば、核燃料等を移動させる』
としており、
再稼働の是非を審査する規制委もそれを受け入れました。
 しかし、カルデラ噴火がいつ起きるのかを正確に予測するのは不可能だというのが、現在の火山学の常識。
それに、規制委には火山の専門家がいないのに、火山リスクを審査しているということ自体が重大な問題です」
http://nikkan-spa.jp/685052

もう一度言う、福島原発事故の主犯は安倍晋三だ! 第一次政権時に地震対策拒否、事故後もメディア恫喝で隠蔽…
2016.03.11
『京都大学工学部原子核工学科出身の吉井議員(共産党)は、2006年3月に、津波で冷却水を取水できなくなる可能性を国会で質問。第一次安倍政権が誕生 して3カ月後の2006年12月13日には「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書」を政府宛に 提出。「巨大な地震の発生によって、原発の機器を作動させる電源が喪失する場合の問題も大きい」として、電源喪失によって原子炉が冷却できなくなる危険性 があることを指摘した。

 同年12月22日、「内閣総理大臣 安倍晋三」名での答弁書では、吉井議員の以下の質問に以下の返答をした。
吉井):「原発からの高圧送電鉄塔が倒壊すると、原発の負荷電力ゼロになって原子炉停止(スクラムがかかる)だけでなく、停止した原発の機器冷却系を作動させるための外部電源が得られなくなるのではないか。」
安倍):「外部電源から電力の供給を受けられなくなった場合でも、非常用所内電源からの電力により、停止した原子炉の冷却が可能である。」』

日中戦争や太平洋戦争の戦没者230万人:6割「餓死」の学説も=無謀な作戦が惨劇招く
2014年08月15日
(注意)安倍政権を支配する「日本会議」が目指す戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは,国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,それは あらゆる非科学性の根源であった。

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/ec5fecbd148c1826d6b0f1238787c8d0

アメリカへ戦争を始める日本は共産主義を抑え込むため治安維持法が必須と信じていた。
占領軍が治安維持法の廃止を日本に命じたとき日本支配層が猛反発したが、民主主義を始めたら、治安維持法も共産主義者の暗殺も必要なかった。



「全国教育研究大会」の講演者リスト
(1981年、社団法人全国教育問題協議会が設立された。
鈴木勘次郎会長、梶山茂副理事長)。略称:全教協。
事務局員の青津和代は「勝共連合」本部長
百人の会の理事の伊藤玲子が副理事長。
顧問に、山谷えり子大臣と有村治子大臣が連名。)
回 開催年 開催地 講師(講演者)
1 1981 岐阜市 藤本義一
2 1982 宮崎市 上坂冬子
3 1983 高松市 渡部昇一

(古くから世界基督教統一神霊協会(統一教会)と関係を持つ。1985年6月のカウサ(CAUSA。アメリカ社会統一協会連合)第三回日本会議に出席、さらに、1985年8月5日の東京勝共講師団結成集会では基調講演を行っている。)
4 1984 宇都宮市 勝田吉太郎
5 1985 山口市 香山健一
6 1986 高松市 名越二荒之助
7 1987 宇都宮市 梶山 茂
8 1988 宇都宮市 林健太郎
9 1989 岡山市 福田信之

1989年7月、右翼の梶山茂が、本島長崎市長に対して実弾入りの脅迫状を送った。その後逮捕・有罪(懲役二年)になった。1990年5月24日国会で話題)。
梶山茂は在特会関係者))
10 1990 大阪市 高橋史朗
11 1991 宇佐市 渡部昇一
12 1992 千葉市 京増敏明他
13 1993 京都市 高橋史朗
14 1994 広島市 渡部昇一
15 1995 宇都宮市 久保田信之他
16 1996 広島市 渡部昇一
17 1997 高松市 井沢元彦
18 1998 大宮市 藤岡信勝
19 1999 東京都 各政党国会議員
20 2000 弘前市 高橋史朗他
21 2001 習志野市 秋山昭八ほか
22 2002 東京都 各政党国会議員
23 2003 東京都 高橋史朗他
24 2004 東京都 山谷えり子
25 2005 東京都 杉原誠四郎他
26 2006 東京都 高橋史朗
27 2007 高松市 石川 浩他
28 2008 東京都 保利耕輔他
29 2009 東京都 森山真弓他
30 2010 甲府市 義家弘介他
31 2011 東京都 安部晋三
32 2012 東京都 山谷えり子
33 2013 東京都 小池百合子


フジサンケイ・日本教育再生機構
関係国会議員
2012年12月17日
▽北海道7区 伊藤良孝  自 前
▽北海道11区 中川郁子  自 新
▽埼玉2区  新藤義孝  自 前
▽埼玉8区  柴山昌彦  自 前
▽神奈川9区  笠  浩史  民 前
▽神奈川12区  星野剛士  自 新
▽神奈川16区  義家弘介  自 新
▽神奈川18区  山際大志郎 自 元
▽山梨1区  宮川典子  自 新
▽東京10区  小池百合子 自 前
▽東京11区  下村博文  自 前
▽東京21区  長島昭久  民 前
▽東京24区  萩生田光一 自 元
▽新潟6区  高鳥修一  自 元
▽石川3区  北村茂男  自 前
▽福井1区  稲田朋美  自 前
▽岐阜3区  武藤容治  自 元
▽岐阜5区  古屋圭司  自 前
▽静岡3区  宮沢博行  自 新
▽静岡7区  城内  実  自 前
▽静岡8区  塩谷  立  自 前
▽愛知3区  池田佳隆  自 新(日本教育再生機構理事)
▽京都1区  伊吹文明  自 前
▽大阪17区  馬場伸幸  維 新
▽大阪18区  遠藤  敬  維 新(日本教育再生機構評議員、日本教育再生機構大阪前会長)
▽奈良2区  高市早苗  自 前
▽和歌山2区  石田真敏  自 前
▽岡山3区  平沼赳夫  維 前
▽岡山5区  加藤勝信  自 前
▽山口2区  岸  信夫  自 新
▽山口4区  安倍晋三  自 前
▽福岡2区  鬼木  誠  自 新
▽福岡8区  麻生太郎  自 前
▽熊本5区  金子恭之  自 前
▽大分3区  岩屋  毅  自 前
▽宮崎3区  古川禎久  自 前
▽比例北海道ブロック  清水誠一  自 新(日本教育再生機構代表委員)
▽比例北関東ブロック  牧原秀樹  自 元
▽比例南関東ブロック  田沼隆志  維 新(日本教育再生機構運営委員、元職員)
▽比例東京ブロック
  松原  仁  民 前
  石原慎太郎 維 元
  山田  宏  維 元
▽比例北陸信越ブロック
  中田  宏  維 元
  鷲尾英一郎 民 前
▽比例近畿ブロック
  大塚高司  自 元
  西村真悟  維 元
  三宅  博  維 新
▽比例九州ブロック
  西川京子  自 元
  中山成彬  維 元


参考資料
山谷国家公安委員長が、その設立以来係わって来た
教育再生 地方議員百人と市民の会(百人の会)
理事と役員
<2006年6月26日現在>
≪役 員≫
理事長    北川悟司  豊中市議会議員 平成15年8月~
         辻 淳子 大阪市会議長(平成19年8月就任)
監査      佐保博文          平成17年4月~
同       樋口理香子         平成18年4月~
事務局長   増木重夫          平成11年1月~


初代理事長 木下吉信 大阪市会議員 平成11年1月~平成13年6月
2代目理事長 大前繁雄 衆議院議員(現) 平成13年6月~平成15年8月
  ≪理  事≫
中曽千鶴子  在特会 (2012年9月に理事に就任)

(2010年4月の川西の在特会・おつること中曽千鶴子の犯行を高裁でも有罪判決)
伊藤玲子   鎌倉市議会議員

(2011年1月23日 在特会のビラ配りを支援)
中村実     船橋市
宍倉清蔵   千葉市
土屋敬之   東京都

(2008年10月23日に在特会の集会で講演)
古賀俊昭   東京都

2013年8月4日在特会の加藤哲史集会に共催し参加
田代博嗣   東京都

(在特会関係者の著作が多い「展転社」で著作)
梶山 茂    九州、沖縄
つくる会長崎幹事。1989年7月に本島長崎市長に実弾入りの脅迫状を送った。)
(以下略)

顧問
≪国会議員≫
特別顧問
中山成彬 衆議院議員

(2014年3月11日在特会系のなでしこアクションの集会に登壇)
大前繁雄 衆議院議員 2代目理事長
顧問

向山好一 衆議院議員(元) 
田沼隆志 衆議院議員
(2014年3月11日在特会系のなでしこアクションの集会に登壇)
2014年9月23日の統一協会の大集会に参加し祝辞
西田昌司  参議院議員 
(2011年にネオナチと親交写真)
左藤章  防衛副大臣 
佐藤正久 元防衛大臣政務官

(2013年6月29日に在特会のイベントで講演)
清水誠一  衆議院議員
泉信也   参議院議員  

伊吹文明 衆議院議員
板垣正  元参議院議員
亀井郁夫  参議院議員  

高市早苗 衆議院議員
(2011年にネオナチと親交写真) 
塚本三郎 元衆議院議員
中根一幸  衆議院議員

西村眞吾  衆議院議員
(2013年5月19日の在特会のデモ行進に参加)
森岡正宏 前衆議院議員

(2005年3月に暴力団住吉会の傘下の右翼「日本青年社」と連携)
渡部篤   衆議院議員  

小林正  元参議院議員
阪上善秀*3 元衆議院議員、宝塚市長
山谷えり子 参議院議員

(2012年11月6日在特会系の「なでしこアクション」で基調講演)
松原仁  衆議院議員
(2005年3月3日暴力団住吉会系右翼「日本青年社」会合出席)
二の湯智 参議院議員
大塚高司  衆議院議員  

北神圭朗 衆議院議員
川条志嘉 衆議院議員
鴻池祥肇  参議院議員  

(暴力団住吉会系右翼「大日本朱光会」で講演)
大江康弘 参議院議員
≪学識経験者、オピニオンリーダー≫
関東上越以北
小田村四郎  元拓殖大学総長 日本会議副会長
加瀬英明   外交評論家

(2014年3月11日在特会系のなでしこアクションの集会に登壇)
片岡正巳  評論家
(在特会関係者の著作を出版する「展転社」で著作)
小山和伸   神奈川大教授
(2011年10月30日の在特会系の大集会でパネルディスカッション)
小堀桂一郎  明星大教授   日本会議副会長
清水馨八郎 千葉大名誉教授

(統一協会に賛同)
名越二荒之助 高千穂大前教授   

(在特会関係の出版社「展転社」から本を出版)
田中正明   歴史家
高橋史朗  明星大教授
中村粲    獨協大教授

(在特会関係の出版社「展転社」で著作)     
長谷川三千子 埼玉大学教授 NHK経営委員

(2010年5月4日に在特会系の集会に参加)
東中野修道 亜細亜大教授

(在特会関係の出版社「展転社」の著作)
藤岡信勝   前東京大学教授

(2014年3月11日在特会系のなでしこアクションの集会に登壇)
(在特会関係の出版社「展転社」から本を出版)
(2008年4月7日8日に統一協会の「世界日報」の座談会に参加)
服部朋秋   拓殖大学
藤井厳喜  外事評論家

(2014年1月5日に在特会系団体なでしこアクションで講演)
本間正信   旭川大名誉教授   

松田義幸   実践女子大教授
三輪和雄  日本世論の会会長
(2010年11月3日:在特会の街宣に参加)
八木秀次   高崎経済大教授   

(在特会系の集会に何回も参加2014年5月3日も参加)
吉原恒雄   拓殖大学教授  
(2003年2月14日統一協会の日刊紙「世界日報」の会合で講演)
吉川智   国士館大助教授
山田恵久   国民新聞  

殿岡昭郎 元東京学芸大助教授
中澤茂和 元月曜評論社
倉林和男   英霊に答える会   

相澤宏明   展転社社長
(在特会関係者の著作が多い出版社「展転社」) 
安藤豊    北海道教育大教授
酒井信彦   東京大学教授

(2008年10月23日に在特会の集会で講演) 
水島総 日本文化チャンネル桜代表 「頑張れ日本!全国行動委員会」を設立 (2010年11月3日:在特会の街宣に登壇)

小田晋  国際医福祉教授  
泉谷双蔵 東京医科歯科大助教授
栗原宏文  愛媛大教授
湯澤貞    前靖国神社宮司   

クライン孝子 拓大客員教授
米田健三  帝京平成大教授
(2005年3月に暴力団住吉会の傘下の右翼「日本青年社」と連携) 
田母神俊雄 航空幕僚長(元)
(2010年4月3日に在特会の講演会で講演) 

(以下略)
(補足:百 人の会のメンバーの中には在特会に加入しているものも多く、在特会の関西方面での活動での中核部隊となっている。2010年(平成22年)8月10日、京 都市南区の京都朝鮮第一初級学校の前で昨年2009年12月、市民団体「在日特権を許さない市民の会(在特会)」(本部・東京)が、拡声器を使って抗議活 動をした問題で、京都府警は8月10日、威力業務妨害容疑などで、主に関西方面で活動する在特会の活動家4人を逮捕したがうち2名は百人の会の会員であっ た。
 

日本会議が以下のメンバーを立てて憲法改悪をめざしている
「美しい日本の憲法をつくる国民の会」
2014年10月1日 設立

共同代表
櫻井 よしこ   ジャーナリスト
田久保 忠衛  杏林大学名誉教授
三好 達     日本会議会長、元最高裁判所長官

代表発起人
青山 繁晴   (株)独立総合研究所代表取締役社長
市田 ひろみ  服飾研究家
伊藤 憲一   公益財団法人日本国際フォーラム理事長
呉 善花     拓殖大学国際学部教授
小川 榮太郎  文藝評論家
鍵山 秀三郎  日本を美しくする会相談役
葛西 敬之   東海旅客鉄道(株)取締役名誉会長
桂 由美     一般社団法人全日本ブライダル協会会長
加藤 秀治郎  東洋大学教授
木村 治美   共立女子大学名誉教授
髙坂 節三   公益財団法人日本漢字能力検定協会代表理事
神津 カンナ  作家、エッセイスト
桜林 美佐   ジャーナリスト
佐々 淳行   元内閣安全保障室長
すぎやま こういち 作曲家
鈴木 和也    公益社団法人日本青年会議所会頭
千 玄室     裏千家前家元
田中 恆清   神社本庁総長
鳥居 泰彦   慶應義塾学事顧問
中條 髙德   一般社団法人日本戦略研究フォーラム会長
中西 輝政   京都大学名誉教授
長尾 一紘   中央大学名誉教授
西 修       駒澤大学名誉教授
西本 由美子  NPO法人ハッピーロードネット理事長
長谷川 三千子 埼玉大学名誉教授(民主主義に異論がある)
百田 尚樹   作家
平川 祐弘   東京大学名誉教授
福田 富昭   公益財団法人日本レスリング協会会長
渕辺 美紀   沖縄経済同友会副代表幹事
船村 徹     作曲家
細川 珠生   政治ジャーナリスト
舞の海 秀平  大相撲解説者
松尾 新吾   九州電力(株)相談役
村松 英子   女優、詩人
森本 敏     拓殖大学特任教授、元防衛大臣
柳内 光子   山一興産(株)取締役社長
山口 昌紀   近畿日本鉄道(株)取締役会長
屋山 太郎   政治評論家
渡辺 利夫   拓殖大学総長

幹事長
百地 章     日本大学法学部教授

事務局長
椛島 有三   日本会議事務総長

事務局次長
内田 智     弁護士
高橋 美智留  弁護士

森友学園の塚本幼稚園での講演者
百田尚樹 平成28年11月19日
藤波源信
比叡山 大阿闍梨 平成28年6月11日
桜井進 平成26年10月4日
土屋秀宇 平成26年9月20日
曽野綾子 平成26年4月26日
平沼赳夫 平成25年9月21日
青山繁晴 平成25年6月22日
竹田恒泰 平成25年5月25日
渡部昇一 平成24年10月27日

(古くから世界基督教統一神霊協会(統一教会)と関係を持つ。1985年6月のカウサ(CAUSA。アメリカ社会統一協会連合)第三回日本会議に出席、さらに、1985年8月5日の東京勝共講師団結成集会では基調講演を行っている。) 
中西輝政 平成24年5月12日
櫻井よしこ 平成23年11月3日
古庄幸一 平成23年6月19日
武田(原文ママ)恒泰 平成23年5月7日
藤尾秀昭 平成22年6月26日
村上和雄 平成21年6月14日
松浦光修 平成21年5月26日
田母神俊雄 平成21年5月9日
中山成彬 平成20年11月15日
米長邦雄 平成20年6月22日
曻地三郎 平成20年1月26日


カルト宗教脱出レポ
 某地方国立大学への入学にともない、親元を離れて一人暮らしを始めたのですが、その直後、ある宗教団体に声をかけられ、そうとは知らないまま、また入会の自覚もないまま、2ヶ月ほど関係を持ちました。

幸い深入りする前に脱出に成功し、それ以降は教団とは一切の関わりを持つことなく生活ができています。

在籍期間(?)が短かったので、その教団について深く切り込んだ内容ではありませんが、今これを読んでくださっているのが、同様の教団にひっぱり込まれて悩んでいるご本人であれば、何らかの参考になるかもしれません。