(ブログ目次はここをクリック)
日本会議の源
-日本の、「科学を論じないしきたり」の歴史的背景-
戦時体制下における教育思潮
河 原 美耶子
(日本大学)
教育学雑誌第28号(1994年)
はじめに
明治維新以来,日本は近代国家建設のため,国民的合意(consensus)の形成に努めてきたが,教育はその中で最も重要な役割りを担った。近現代史において,わが国は二つの大きな衝撃を受けた。
一つは幕末維新期であり,他方は,大戦による敗北である。
その衝撃はともに,国家的・民族的自立の成否をかけた課題であった。
またそれは,今日的課題でもある「世界のなかの日本」をどのように位置づけるかという,対外認識の問題である。
教育,特に公教育が与える知識は,徳育・体育を含めて,近代的な社会,経済,産業の発展にとって不可欠な条件となるとともに,そこで形成される合意は,前近代の身分的,地域的区分を克服して,国民的一体感を形成する。
本研究の主題は,このような近代史の展開における最終段階として,強制的な国民的合意の形成と,戦時総動員体制下の国民育成を特徴とする。このような状況の下での教育との関連は,家庭・学校・地域社会・職業・労働などの諸次元でとらえることができる。
本論は, これら諸次元の相互関連をあきらかにしつつ,戦時下に教育が果たした歴史的意義を考察しようとするものである。
一 戦時体制下における教育の特質
第一次世界大戦後の情勢に応ずる教育改革を断行する目的で,岡田文相は,今までにない大きな教育会議を発足させた。
それが1917(大正6)年9月20日に官制1)を公布して陣容を整えた臨時教育会議であった。
この会議は内閣に直属する諮問機関として構成されたのであって,第一次大戦後の内外諸情勢に照らし,国家の将来に考えめぐらしてこの会議を設けるという上諭が付けられた。
このようにして,臨時教育会議は文教施策を確立するために,従来においては見られなかった大きな組織をもって発足したのである。
同会議の委員には,総裁の平田東助,副総裁の久保田譲,その他,教育専門家,学者,政治家,産業界代表者,官省および軍代表者など三十六名が任命され、戦後の教育方策を樹立するための基本方針を審議して答申することとなった。
寺内首相は会議開催にあたって,次のような所信を述べている。
「我帝国ハ現在二於テ兵火ノ惨毒ヲ被ルコト与国ノ如ク甚大ナラスト壁戦後ノ経営二間シテハ前途益々多難ナラムトス此ノ時二際シテハー層教育ヲ盛ニシテ国体ノ精葦ヲ宣揚シ堅実ノ志操ヲ滴養シテ白蓮ノ方策ヲ確立シ以テ皇献ヲ翼賛シ奉ラサルヘカラス」
「教育ノ道多端ナリト韓国民教育ノ要ハ徳性ヲ滴養シ智識ヲ啓発シ身体ヲ強健ニシ以テ護国ノ精神二富メル忠良ナル臣民ヲ育成スルニ在り実科教育ハ国家致富の淵源ニシテ国民教育卜並ヒ奨メ空理ヲ避ケ実用ヲ尚ヒ帝国将来ノ実業経営二資セシメサルヘカラス高等教育二在テハ専ラ学理ノ薙奥ヲ究メ学術ノ進歩ヲ図り以テ国家有用ノ人材ヲ養戒スルヲ目的トス。」2)
このように「帝国将来」に向けて,天皇制教育体制の全面的再編成にあたっての教育改革を導くため,教育理念の方向を表明したのであった。
また,寺内首相は,その主要目標の中で、
この会議が第一次大戦後における多難な経営に応ずるためのものであるとし,
この際,国民教育の全般を通じて徳性,智能、身体の教育をなし,護国の精神をもつ忠良なる国民を育成することに務めなけばならないとした。
このためには,実科教育,高等教育の検討を必要とすることが挙げられている。
この会議は1917(大正6)年10月から1919(大正8)年3月までの間に,九つの問題についての諮問に詳細な答申がなされている。
それは,小学教育,男子の高等普通教育, 大学教育及び専門教育,師範教育,視学制度,女子教育,実業教育,通俗教育,学位制度であった。
これらについて改善を施すものがあるなら,その要点及び方法を奉げることが求められていた。
問題はきわめて広範であったが,この会議は,これらの問題についての改善要綱を箇条として挙げて答申し,それらに理由書を付して改善方策の趣旨を明らかにした。
その他,二つの建議がなされたが,その一つは,兵式体操を振興するための建議
他方は,教育の効果を完全なものにする一般施設についての建議
であった。3)
兵式体操の建議は,学校へ現役将校を配属させる制度を提案した。
また,教育効果を完からしむる施策は,戦後の思想動向の下において,国体の本義発揚,淳風美俗の維持,国民生活安定の方策を成立させることを目的としたものであった。
これらは諮問に応じたものでなく,会議が緊急であるとして提唱した方策であった。
この会議における答申は,この後多くの分野にわたった制度の改革を実施する出発点を明示したものであった。それらの中で,制度上 特に大きな改革を要求したのは高等教育についての答申であった。
それは,大学,高等学校についての制度上の改革であって,この後に,高等教育全般をいちじるしく拡充する施策を発足させた。
その施策は,中等学校の普及にも影響を与えて,その方策が提起され,なおこのことは,教員養成制度についても新たな方策が要望されたのである。
教育内容については,実科教育尊重の思想から実務生活に生徒の学習を適応させる方針が立てられた。
これらの主要な方針が答申されたが,1918(大正7)年から引き続き昭和初年にかけて,臨時教育会読の諸方策が,実現されることとなった。大正後半年から昭和20(1945)年に至る間の教育制度の基本となる体制は,臨時教育会議の答申の線に沿って決定されたのである。
第一次世界大戦後において、各国ともに,社会教育の振興方策が立てられたが,わが国においては,この分野の制度化が広く進められて,これによって文部省の文教行政が学外にまで拡充されたのであった。
後に,これが学校数育と並行して,国民教育の任務を分担することになる。第一次大戦の諸情勢とそれに基づく改革は,その後三十年にわたる教育のあり方を決定する力を持ったのである。これら大戦後の文教施策に対して,臨時教育会議が果たした役割はきわめて大きなものがあった。4)
(当ブログのコメント:この間の1922年に、非合法(治安警察法違反)の党として日本共産党が創立された)
1932(昭和7)年,満州事変(昭和6年)以後の諸情勢は国内外において,今までにない難問題に対応が迫られ,各般の改善施策が提起されてきた。
教育の分野においても,これらの情勢に対処する施策が立てられることになった。
その中で,何よりも先に,教学思想についての施策が緊要であった。
文部省内に思想局が設置され,国民精神文化研究所が文部省の直轄する研究所として発足した。これらが教学思想を確立するための活動を開始させることとなったが,この思想問題の根源を明らかにし,解決の基本方針を決定するため,1935(昭和10)年11月16日に,教学刷新評議会を発足させた。
この会は,教学の刷新振興に関する重要な事項を調査審議することになった。
この教育会議は,教学の基本方針を樹立することをその目的としたものである点で,異例な会議である。
教学思想の審議を主要な任務としたが,その審議内容と答申に拠ってみると次の通りである。
わが国は外来の思想文化を移入して今日に至ったが,その中には十分に消化されていないものがあって日本伝統の精神の透徹を妨げるものがある。
最近において,教育の改善刷新を要望する声があるが,それらは多くこの思想に関する根本問題に帰せられる。この際直ちに国の礎を培養し.
国民を錬成する独自の学問・教育の発展をはかるためには,多年にわたって輸入されてきた西洋思想と文化の短を除き長を取り入れて,日本文化の発展に務めることが緊要である。
それ故,この評議会は国体観念,日本精神を根本として,学問・教育を刷新する方法を審議し,宏大にして中正なわが国本来の道を明らかにするとともに,外来文化を摂取する精神を確立する。
これによって,文政上必要な方針と主要な事項とを決定して,わが教学を刷新しようとするものであるとした。5)
この評議会は,1936(昭和11)年に皇国思想を根本として,教学刷新の全般にわたる答申を提出し,1937(昭和12)年6月にその任務を終了して廃止された。この教学精神を確立する施策は,教育制度の問題よりもむしろ教育実践,特に,教育内容にむけての改善を要請したのであった。
それにより,1937(昭和12)年より各学校の教授要目を改めて,教学刷新の趣旨に基づくものとし,教育内容全般にわたる改善を求めたのであった。
また,この基本精神による改善を行なうには,さらに強力な審議機関を設ける必要があるとされた。
第一次大戦前後の教育改善方策について概観してきたが,その背景となる社会情勢については,
大正から昭和へ改元された1926年を,日本は激しい政治的混乱のうちに迎えたのであった。
近代資本主義国家としての日本は,第一次大戦後の恐慌・震災恐慌のあとがまだ回復しないうちに,金融恐慌がおそい,深刻な危機に陥っていた。
1919年から27年まで,日本の工業生産の増加率は欧米諸国を越えていたのであるが,
このような工業発展は,中国市場を中心とする国際的進出と,国内における労働条件の低水準維持策とによって,一応支えられていたのであった。
それに対して,中国人民の反日闘争と,国内では社会主義・民主主義運動・労働運動の高揚によって大きな制約を受けることになった。
日本資本主義の進展をはかる官僚・軍閥は,中国への武力による帝国主義的侵略と,国内の反体制運動に対する弾圧によって,この危機を克服しようとした。
1927(昭和2)年春の金融恐慌による状況のもとで,田中義一内閣は,前述したような帝国主義的政策を一層強固に遂行することになった。
先に,政府は大正中期以降の反体制運動の高揚に対して,1925(大正14)年に,普通選挙法と治安維持法を制定した。
第一回普選(1928年2月)での無産政党の進出に脅威を持った政府は,選挙直後の3月15日,全国いっせいに日本共産党・労農党・労働組合評議会・無産青年同盟の関係者を多数検挙し,さらに労農党以下3団体の解散を命じた。
1928年6月には,治安椎持法が改正されて,死刑・無期刑が追加された。
---------補足-----------
・1928年の治安維持法の改正の趣旨
この時の改正は2つの目的を持っていました。
一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*2、
もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。
---------補足おわり------
また,1928年7月には,内務省に保安課が新設され,思想取締まりにあたる特別高等警察を全国に設置し,憲兵隊に思想係を設置するなど,その権力は思想にまで介入することになり,反体制運動への弾圧が強化されたのであった。
(1929年3月に国会議員の山本宣治(死後に共産党員に加えられる)が、国会で思想善導(「青少年健全育成」に対応する)について質問した後に暗殺された。)
その一方で,1928(昭和3)年12月1日,政府は教学振興・国体観念養成を声明して,「思想善導」への方向で,翌29年8月に,文部省は教化総動員の運動を企画し,これを全国的規模で推進した。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。
また、戦後の日本政府は、(弾圧した国民の復讐を恐れ)、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした。
しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、
戦前の治安維持法も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。
これは結果からの推定です。民主主義の力の秘密を理解できなければこれが民主主義の力によるという証明にはなりません。証明には、相当な研究が必要と思うが、それだけの労力を尽す価値があると思う。)
この教化総動員を打ち出すにあたって,文部官僚の危機感は,思想国難,経済困難として表現されている。
教化総動員は,田中内閣に変わって,1929(昭和4)年7月に成立した浜口民政党内閣の施政方針にしたがうことになった。
それは、
一方で,共産党以下反体制運動を抑圧し,
他方で,金融恐慌後の経済危機を克服しようとする,
資本の産業合理化を支援する経済緊縮政策を援助するために,
政府(権力)の支配下にある全官僚・団体の機構を総動員して展開した一大教化運動であった。
その後,1937(昭和12)年の第一次近衛内閣時代には,日中戦争の開始(同年7月7日)という国際的危機にあって,
「国民精神総動員」運動の名のもとに,先の教化総動員を再編成して,大規模な日本精神発揚の教化運動が展開されることになる。
戦争開始直後の8月24日に,閣議で『国民精神総動員実施要綱』6)が決定され,内務・文部両省を中心に運動が推進された。
(当ブログのコメント:安倍内閣が、閣議で『集団的自衛権』を決定したことが、この戦前の動きに対応する)
この運動には,
全国神職会・全国市長会・帝国在郷軍人会の他,労働組合組織など多数の団体が参加し,
近衛内閣は,その運動目標として,挙匡一致・尽忠報国・堅忍持久を掲げ,国体観念の宣伝,注入に努めた。
さらに,部落・町会・隣組など隣保組織まで行政組織の末端に組入れて,上意下達の道筋を確立しようとした。
1938(昭和13)年には,地方道府県の国民精神総動員実行委員会が活動し,地方官僚を中核に殆ど全団体の代表者を網羅した委員会の主導によって,懇談会・講演会・映画会の開催,ポスター・パンフレット・ビラの配布,新聞・公報・ラジオ放送などによる宣伝,また,祈願祭の執行,奉公歌歌詞募集・寄金募集など,その他,強調週間の実施などの諸行事が推進されたのであった。
1939(昭和14)年4月,平沼内閣時代に,国民精神総動員委員会第二回総会は,「国民精神総動員新展開の基本方針」 を決定した。平沼内閣のもとに,荒木貞夫大将を文相に置いたが,
その主導で,総理大臣直轄の委員会と地方府県の主務課の設置によって,
右翼団体を始めとし,その他の教化団体と行政系統とを駆使して,
皇道主義・一君万民思想の普及に徹することになった。
1940(昭和15)年の第二次近衛内閣に至り,先の総動員本部は解散されて,生活組織を基礎に全国民を対象とする大政翼賛会の組織による運動が実施されることになった。
戦争の長期化にともなう生活必需物資の不足や,官僚・軍部の支配勢力に対する国民大衆の不満の増大に対処する政策と
して.それは,国民の自発的総力を結集するための国民運動としての意義を待った。
実際には,読書会・合唱団・職場演劇などのサークル形式を取る文化運動や,
隣組常会に代表される隣保組織などに拠って,全国民を網羅する組織力を培ったのである。
この大政翼賛会は,日本ファシズムの国民統合の組織として発展し,さらに戦争遂行のための手段としての性格を確立したのであった。
1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である教学局が文部省外局として設置され,学問研究に対する統制の中枢をなした。
前年に設置された「日本諸学振興委員会」が,学問領域の全般にわたって「日本学」の方向を打ち出し,
1937年3月には思想局から『国体の本義』7)が発行されて、教学刷新の基準が明確にされた。
このようにして,1937年以降,高等学校,中学校・高等女学校・実業学校の教授要目が国体明徴を基底として改正され,
また,大学には国体学講座が置かれ,
師範学校には修養道場の設置が奨励されるようになり,
『国体の本義』や『臣民の道』(1941年)は.皇国民教育のいわゆる聖典として尊重された。
1938(昭和13)年12月8日に可決された『国民学校二間ス/レ要綱』8)の中には「教育ヲ全般二亘リ
テ皇国ノ道二帰一セシメ,其ノ修練ヲ重ンジ, 各教化ノ分離ヲ避ケテ知識ノ統合ヲ図り其ノ具体化
二カムルコト「教育卜生活トノ分離ヲ避ケ国民生活二即ヤシムルヲ以テ旨トシ,高等国民学校二於
テハ特二此ノ点二留意シ画一二泥マズ克ク其ノ効果ヲ収ムルニカムルコト」などの項目がある。そ
れは,知育・徳育・体育の統一的人間形成,実践を通しての国民形成が求められている。
しかし、基本的な教育理念が,天皇制ファシズムによって規定されているかぎり,
「教育卜生活トノ分離ヲ避ケテ」
の経験主義的な教育方法の採用も,
現実には,
反知性主義,
科学的真実の軽視.
精神主義的および鍛錬主義的訓育
に転化されることになる。
それは,日本精神にもとづく皇国民の育成なのであるから,
精神とその本質さえ違っていれば,例え西欧的な形式でも方法として利用するかぎりにおいては認められる.
という「和魂洋才」的な異質文化摂取の論理である。
先に教育審議会が作成した『国民苧校二間スル要綱』にしたがって,1941(昭和16)年3月14日,
従来の小学校に代わって新に,国民学校となった。4月1日から施行された国民学校令第一条は,「国
民学校ハ皇国ノ道二則リテ普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と規定した。「皇
国ノ道」は,小学校のみでなく,当時のすべての教育段階に一貫した基本的教育理念であった。「我
が国の国体に淵源せる教育の精神を徹底し,一切の教育を皇国の道の修練に統合帰一せしめること」9)が,
皇国民として必須な教育(錬成)であった。
教育内容についても,皇国民として必須な資質として求められる内容が,次の通り五項目にわたって挙げられている。
1.国民精神を体諾し,国体に対する信念を確立し,皇国の使命に対する自覚を有しなければならぬ。
2.日進の科学に対する一通りの認識を有し,生活を数理的科学的に処理し,創造し,よって以て国運の発展に貢献しなければならぬ。
3.潤達剛健なる心身と献身奉公の実践力を有しなければならぬ。
4.高雅な情操と,芸術的技術的な表現能力とを有しなければならぬ。
5.一定の職業に従事し,職業を通して国に奉ずるの熱意を有しなければならぬ。
また,それに対応する五教科として,国民科,理数科,体錬科,芸能科,実業科(高等科のみ)が置かれて10),
五教科全体の統合が特に強調されている。
教科の区分は,学問上の分類ではなく,教育の目的からみた区分であり,各教科の含む多様な内容を其の目的と性質に応じて系統的に組織したものを「科目」と称するとされた。
それは,合科教授の方法論である,子どもの生活経験から
組立てられる経験カリキュラムではなく,主たる目的は,皇国民として「皇国の道に帰一せしめる」ための統合を意味するものであった。
明治以降,教育目的・内容と方法とが分離されることで,近代的な教育方法が絶対主義教育体制に取り入れられてきたが,
いまやその極限的状況として,天皇制ファシズムの教育体制内における新な変革をみることになった。
国民学校の教育目的を支える日本精神のイデオロギーに,欠落している近代的認識論や学習論による,その補填が必要となる。
したがって,東洋的思想を原理として,「経験」の方法を部分的に導入することになる。
それは,近代的・合理的な要素を,採長補短(自身の不備な部分を補うために、何かのすぐれたところや余ったところを取り入れること=自身の不備が補完される以上のことは取り入れないこと)の原則で,教育に取り入れることを意味するのである。
その部分的取り入れ方の一例を挙げると,
「合理創造の精神」(理数科の目的)と,「肇国の精神を塞体して皇軍を扶翼し塞る精神と実践」とが,どのように統合されるのであろうか。
例えば,算数科では「合理創造の精神」とは,「ものごとの『すじみち』『ことわり』を見出し,これを弁え,これに循う心が養われ,更に新なるものごとを創造せんとする心が啓発せられる」(『算数教師用書』総説)と説かれている。
「これに循う心」とは,西欧的な闘争的自然観ではなく、
「自然にとけこみ」「自然をとり入れ」「自然を観照する心」を意味している。
算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である批判的精神を除却(除去)した合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずにゆっくりと国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。
1941(昭和16)年12月,太平洋戦争に突入してから,
大東亜共栄圏の確立をめざすいわゆる聖戦の遂行を目的として,
国民生活の全面における国家統制が厳しくなった。
行政の計画化,能率化が進められたが,教育の国家的計画の確立もまた政府によって最重要なものとして着手された。
特に,国防・産業上の要請にもとづいて計画的に人材を養成するという視点で,学校・学科の増設・拡充の立案が作成された。
1942(昭和17)年5月に,「大東亜建設審議会」が答申した「大東亜建設二処スル文教政策」が,
このような総合的・計画的な文教政策確立の方向で出されたのであった。
1943(昭和18)年以後は、決戦体制ともいうべき段階へと追いこまれ,急速に事態は悪化した。
このような情勢下にあって,教育制度についてもまた,決戦時下に特有な方策がとられることとなった。
それが1944(昭和19)年から45(昭和20)年にかけて,急迫した戦時非常体制となり,常時ではありえない教育の体制が次々に展開されることになった。
1943年度から,年限短縮を実施して,高等学校2年・中学校4年制となったが,これは生産力としての学徒を必要とする文教政策である。
人材養成の国家計画のもとに,人間の育成というよりは,軍事力・生産力のための人材養成を主要な目的とした。
1943年6月には,『学徒戦時動員体制確立要綱』11)が制定されて,
「学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラ
シムルト英二之ガ勤労動員ヲ教化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強二結集セシメン」
とした。
同要綱の主目標の一つ,「有事即応態勢ノ確立」とは,「将来ノ軍務二億へ国防能力ノ増強」を図ることとした。
さらに,「直接国土防衛二全面的二協力」させることであり,
具体的には学校報国団を再編成して「直チニ国土防衛二有効二動員シ得ル」ようにすること,
また,体育訓練・戦技訓練の教化・徹底,防空訓練,女子学徒の戦時救護訓練の教化などであった。
他方で,「勤労動員ノ強化」についての目標は,作業を重点的にしており,食糧増産・国防施設建設・緊要物資生産・輸送力増強など戦力増強に直接必要な,労働強化を策定した。
その労働強化政策は,学校教育にも大きな影響を与えることになり,学生・生徒は常時,集中的に作業に出動しうるように指示された。
さらに,同年10月には,『教育二間スル戦時非常措置方策』12)が閣議で決定され,
「学校教育ノ全般二亘り決戦下に対処スベキ行学ノ本義二徹シ教育内容ノ徹底的刷新卜能率化ト
ヲ図り国防訓練ノ強化.勤労動員ノ積極且ツ徹底的実施」
のために,工場で勤労する青年学徒の教室授業を極力減少し,中等学校4年制の繰上実施,
さらに,中学校・高等女学校の入学定員が据え置かれた。
また,高専・大学文科の入学定員の三分の一縮減と,工・農・女子商業の中等実業学校・高校理科・理工系専門学校と大学理科系の拡充,および各種学校の縮小などが実施されたのであった。
1944(昭和19)年1月,『緊急学徒勤労動員方策要綱』が閣議決定され、「同一学徒ヲ勤労二動員
ス/レ期間ハ差当り一年二付概ネ四ケ月ヲ標準トシ毎日継続シテ之ヲ行フヲ立前トスルコト」.
および,勤労する工場・事業場を特定し,
「学校卜工業事業場トヲ緊結シ其ノ特定部署二対シ通年恒常循環的
二学徒ヲ動員スル」か,
または,学校内に工場施設を置く方法がとられた。
同年4月17日付文部省訓令『決戦非常措置二基ク学徒勤労動員二関ス/レ件』は,
「将来国家須要ノ人材タルへキ学徒ヲシテ
勤労其ノ他非常任務二従ハシム」,
わが国教育史上空前の事態に対して、「行学一体」「文武一如」による皇国民の錬成こそ,わが教学の本義であるとした。
それ故に,学徒出陣(1943年10月)も,勤労動員も,
「斉シク我力教学精神ノ決戦下二於ケル具体的顕現二他ナラ」ないのであった。
さらに,1945(昭和20)年3月に,『決戦教育措置要綱』が決定されて,学徒総動員態勢の徹底が画され,
同年5月に,『戦時教育令』が勅令13) として発布されるに至った。
二 総力戦体制下の実業教育
満州事変,五・一五事件を内外の契機として,「教育の刷新」が求められたが,1930(昭和5)年頃から,家庭14)においても,家父長的家族制度の一層の強化となり,
思想善導,家庭生活改善策などが打ち出されてきた。
その後,1936(昭和11)年10月には,わが国教学の本義を正し,皇国教育の基本観念を明かにし,
在来の西洋的思想に画期的な反省を促した教学刷新評議会が,家庭教育刷新について答申を出した。15)
そこにおいては,
「我国風二基ク家庭教育」,
「西洋思想ノ弊ヲ除キ,良風美俗ノ発揚」
が述べられており,
家庭教育の領域にも,ファシズムの教育理念がうかがわれる。
やがて日中戦争以後,「聖戦完遂」に,家庭教育を積極的に動員する姿勢が強くなる。
国家総動員法公布(1938年4月),大政翼賛会結成(1940年11月)と,高度国防国家建設,
さらに,国民生活新体制のもとに,時局は緊迫化してきた。
教育の面でも,『国体の本義』を強調し,
皇道主義の徹底をはかるとともに、
実業教育の振興拡充を進めてきたが,
それはあくまでも既存の教育制度の範囲での国家主義の強化であり,
科学技術教育の量的拡大であった。
大正期以降,官立校を含めて国民の上昇する進学要求に呼応して量的拡大を続けてきた専門学校教育は,
前述した「国家総動員法」の施行に象徴される国を挙げての戦時体制にむけて,
「国家ノ須要(どうしても必要なこと)」の充足のため,
大きくその転換を強いられることになった。
1937年12月に.総理大臣の諮問機関として「教育審議会」が設置され,
「我国教育ノ内容及制度ノ刷新振興二間シ実施スベキ方策」に
ついて審議を開始した。
その後,1940(昭和15)年9月に,
同審議会が「高等教育二間スル件答申」として,
「大学二間スル要綱」とともに,
「専門学校二間スル要綱」を発表した。
現実には,この答申の出される以前に,
専門学校教育は,総力戦体制下での国家目標の達成のため,その発展の軌道修正がすでに強力に求められていた。
このような国家的要請は,1940年9月に発表された教育審議会の答申『専門学校二関スル要綱』16)の第一項
「専門学校ハ中等学校教育ノ基礎ノ上二皇国ノ道ヲ
体シテ専門ノ学術技芸ヲ修メシメ国家思想ノ癌養,人格ノ陶冶二カムルヲ以テ目的トナスコト」と,
専門学校教育の改革の基本理念は,
他の学校,大学の場合と同様に
「皇運ヲ無窮二扶翼シ奉ルノ信念」をもった,国家主義的な人間育成の強調にあった。
とりわけ
「実際二適切ナル専門ノ学術技芸ヲ教授シ実地二役立ツ人物ヲ養成センコト」
を期待された専門学校の場合,
それは更に,
「経済産業ノ国家的意義ヲ明ラカニシ産業ヲ通シテ国二報ユ/レノ精神二徹セシムルコト」17)によって,
実現されるべきであった。
このように『要綱』の第六項から第十四項までは,
本来の専門学校としてのあり方よりは,
むしろ,戦時体制下での国家目標の遂行に「須要」な各種の人材養成にあたる諸学校の「拡充整備」を強調したものであった。
その筆頭に,「実業専門学校」がおかれた。
対米開戦をひかえて,軍需工業の技術者需要は増大の一途をたどり,
1940年11月,企画院において、
生産力拡充計画の審議に関連して.準備,作成された一研究報告は,
「高度国防国家完成ノタメ
ニハ工業人口ヲ著シク増大セシメー方商業人口ヲ減少ヤシメナケレバナラナイ」として,
「少クトモ官公立ノ商業学校ハ収容人員ヲ強制的二減ジ(中略)廃校ヲ断行シ之ヲ工業学校トシテ再生セシム
ル等教育機関ノ再編成ヲ断行スルコトガ必要」18)
であるとした。
このように.教育問題はすでに文教政策の域を大きく越えて,
総力戦体制の山環として,
従来法文系の学科を中心に発展してきた専門学校の構造そのものを,権力によって再編成することが,
大きな国家的政策課題となったのである。
戦時体制の影響は,太平洋戦争の開始1941(昭和16)年以降,増設の中心は官立校から,一転して急速に公私立校に及んでいく。
1941年から,「戦時非常措置方策」の発せられた43年までに37校が新設された。
この時期には,官立校は4校のみが設立されたが,増設の中心は私立校(20校)と公立校(13校)であった。
このうち私立校の構成をみれば,法文系6校,女子系5校,高等工業5校が主なものであった19)が,
戦時色はすでに濃厚であった。
新設の女子系専門学校も,その校名は帝国女子理学専門学校であり,あるいは京浜女子家政理学専門学校であった。
それぞれ「理学」の名が付されていることに特徴がある。
また,男子の医者が軍医として第一線に出征した後の,医師不足を埋めるための女子医学専門学校の設置も重視された。
その他,法文系の学校ではあるが,戦時非常措置方策による「整理ノ目標ノ外」におかれた女子専門学校も,
「男子ノ職場二代ハルベキ職業教育ヲ施ス」必要から,
教育内容改革の対象となった。
即ち,1944(昭和19)年1月に発表された「女子専門学校教育刷新」は,「本科ノ種別ヲ十三科二統整」して,
主要学科のうち家庭科を「育児科,保健科及被服科」に,
文科を「国語科,歴史科,地理科及外国語科」に,
また理科を「数学科,物理化学科及生物科」に分けることを指示した20)。
これにより従来,女子専門学校の主要学科であった家政科,裁縫科,技芸科は軽視され姿を消して,
かわって育児科,保健科,被服科が置かれることになる。
また,1944年には,物理化学科が五校,
数学科が四校,生物科が一校と,理数系の学科を開設するに至る。
女子の専門教育の目的は,「或ハ母性トシテ主婦トシテ須要ナル高等ノ教育ヲ目的トシ,或ハ特定
ノ職業ヲ目的トスル」にあったが,伝統的女子教育の理念と重ねて,後者の「特定ノ職業ヲ目的ト
スル」に,より比重が置かれ,具体的には「統後」を守り「教職員,保健婦,看護婦」22)など,不足する男子専門職に代替しうる人材養成の方向に転換されていった。
このようにして,戦争末期の女子教育は戦時非常体制であったが,1939(昭和14)年に公表され
た教育審議会の答申は,戦争さえなかったならば,女子教育の上にかなり大きな影響を与えるもの
であった。即ち,それは従来の高等女学校,実科高等女学校を一括して女子中学校とし,修業年限
を男子と等しく五年に定め,その上に女子高等学校とともに女子大学を置こうとしたのである。こ
の注目すべき答申は,制度化される前に戦争による事態の悪化iこよって,結局,机上の案に終って
しまった。しかし,女子のために旧制の高校と大学とを設置することが,戦前において,公式に為
政者によって考慮されていたことは,特記すべきことであろう。23)
現実には,わが国の女子高等教育は,一般に,独立校としては専門学校程度のものが最高であった。
したがって,特に官学の大学を志すものは,1913(大正2)年に女子に門戸を開放した東北帝国大学,さらに1929(昭和4)年に開設された東京及び広島両文理大学など若干の狭き門に向う外はなかった。
三 戦時下国民生活の刷新と科学
戦時下における生活の合理化,科学化,生活科学の要求は大別して二つの系統をひいている。
一つは,科学・技術を駆使して近代総力戦を遂行する上で,その基礎としての国民生活の科学化をはかろうとするものである。
それは主として自然科学者,技術者によって取りあげられた分野である。
他方では,戦時生活理念の展開に応じて確実に低下してゆく国民生活水準を前に,経済学,社会政策,労働科学などの立場から耐えうる最低生活の線を科学的に確定しようという試みである。
さらに第三として,この二つの系統を総合して生活科学の体系を確立しようという主張と試みが現われてくる。
即ち,自然科学的側面からの生活の科学化について,その発端となったのは,1941(昭和16)年5月,第二次近衛内閣の下で決定された『科学技術新体制確立要綱』である。
この『要綱』の第二十項に「国民体位ヲ向上セシメ戦時生活ヲ維持スルニ必要ナ/レ国民生活ノ科学化ヲ図ル」と,
生活の科学化について述べられている。
この『要綱』が出された時点で,世界は既に第二次大戦の真只中にあり,
日本にとっても日中戦争は満四年を経過し,
太平洋戦争開始の直前である。
大規模な近代戦を戦う交戦各国は,各々が持てる科学・技術力の動員に全力を注いでいた。
当時の日本では,とりわけナチス・ドイツが畏敬の念を持って観られたが,
その科学・技術政策に範を求めようとする気運が強かった。
各国とも近代的総力戦に直面して科学・技術の動員は不可避であり,
その力を国家目的,戦争目的にむかって結集するという体制では軌を一つにしていた。
日本においては,科学・技術の水準が欧米のそれに比して全般的に低位にあり,
これら諸国への依存度も高く,後進性をまぬがれなかった。
その上,この研究能力のひらきよりも更に大きな課題があった。
それは一国の科学・技術水準といっても,単に科学者・技術者,研究所などの問題のみでなく,
究極のところ,国民全般の生活と思考における合野性の課題である。
科学・技術の健全で充実した展開を支持する国民的基盤の薄いところからは,
既存の水準を抜く研究成果は生まれにくい。
したがって,一国の科学・技術水準は全般的な国民の知的水準の問題に帰着する。
ファシズム体制は,その全体主義的画一化をあらゆる分野に及ぼそうとするだけに,
科学・技術の最先端の研究と国民生活のレベルでの問題は深く関連している。
先に述べた『要綱』で,科学精神の涵養とか,
国民生活の科学化などの内容が現われてくるのもそのためである。
しかし同時に,戦前の国家体制が国民的レベルでの科学精神の惨透に積極的になりえない面がある。
それは戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは,
国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である,という認識であった。
このような考え方が明確に現われるのは,
1935(昭和10)牢の国体明徴運動の時期である。
生活の科学化という主張は,総力戦体制の一環として成り立ったものであり,
むしろそれが個人生活の次元にまで疹透し,逆に個人生活を解消しょうとする点における課題である。
それ故に,個人生活に対して重く国家の影がのしかかり,あらゆる生活が国家目的に収赦される。
「生活の科学化は個人生活の科学化に始り,家庭生活の科学化を完成し,職域生活の科学化を通じて,社会生活の科学化にまで行かねばなりません。
こうして生活の科学化は,国民生活のあらゆる面に於て,今日の健全な国家体制確立に対し最も必要なる事柄であります」24)と,
松前重義は述べている。
優れた技術者である松前の言論のなかに,
修身,斉家,治国,平天下なる思考がうかがわれ,
それが天皇制ファシズムのイデオロギーとして適切な条項を備えていた。
それは,『生活の科学化』,『総力戦と科学』など多くの著書を発表した富塚清にも当てはまるのである。
彼は,『生活科学の諸問題とその本質』のなかで次のように述べている。
一体、生活の科学化と、「二た昔ばかり前の文化生活運動,乃至は生活合理化運動」とは、どこが違うのか。違うのは目標である。
旧来のそれは個人の安易,悦楽を目標としたもの
「一口に云って,近頃きらわれる自由主義的、資本主義的」なものであった。
「しかし今度のそれは全く逆で,国家に奉ずると云うことが主眼になる。そのためには,場合により個人の悦楽などは犠牲にする。特殊の場合には,合理などと云うことさえ棒にふるかも知れない」。25)
このような富塚の主張は結局,戦争目的に集約されたものとなる。
貧困や窮乏をも含めて自由放任を主張とした資本主義社会で,個々人の生活が政策的関心の対象となるのは,不況・恐慌の状況においてである。
1930年代の世界恐慌は,資本主義各国でそれぞれの国民生活を破滅に落としていたが,当時の日本も例外ではなかった。
また,恐慌下に現われた生活対策は,戦時下の生活規制への前駆症状とみなすことができる。
30年代の日本は不況,倒産,実業,就職難,貿易の縮小,農村の窮乏と恐慌の影響は甚だ大きかった。
この恐慌対策の一つとして、1930(昭和5)年,商工省に設置された産業合理局を中心とした産業合理化政策がある。
それは各企業が合理化によって能率の増進,コストの切り下げをはかり,企業合同を推進することによって国際競争を強力なものにしようとするものであった。
資本主義経済の下で広い意味での合理化は絶えず行われており,それは労働強化 人員整理,独占化の進行の反面における弱小企業の整理など,国民生活一勤労者の生活に深刻な影響を与えた。
この時期,日本における産業合理化の特徴としては,国産品の愛用が強調されたことである。
政府は,1930年2月,臨時産業審議会に「国産品愛用の普及徹底を期する為採るべき方策如何」という諮問を発した。
この審議会は優良国産品の選定,
商品の国産品たることの表示をはじめ,
「その他一般に外国品崇拝の気風を改め,
国産品を愛用するの思想を普及せしむる」ため,
展覧会,博覧会,ポスター,活動写真,講演会,講習会,国産品愛用週間の設定などの方策を答申した。26)
また,この運動に応じて
「品は国産,消費は合理化」,
「間に合う限り国産品」といった標語が作られたが,
このような標語は戦時下の「贅沢は敵だ」,
「欲しがりません,勝つ迄は」
などのスローガンに通ずるものである。
国民の消費生活が国家政策の対象として設定されたという点で,戦時下の消費生活規制への伏線となっている。
さらに,戦時国民生活への規制は,いわゆる新体制運動とともに始まる。
1937(昭和12)年,日中戦争開始の年から展開された国民精神総動員運動はその「実践事項」として
日本精神の発揚,
社会風潮の一新,
統後の後援の強化持続,
非常時経済政策への協力,
資源の愛護
の五項目を掲げ,それぞれの目標に「実践細目」を規定している。
社会風潮の一新の下で,細目として勤倹力行,生活の刷新,享楽の節制が,また,経済政策への協力という目標に対しては
国産品使用,
輸入品使用制限,
国産代用品の使用
などの細目が挙げられた。27)
これらの細目は,山方で国産品愛用運動のスローガンを引きつぎ,他方では戦争拡大とともにやがて権力的な生活規制へと拡がる細目を含んでいる。
この運動の中心となった国民精神総動員中央連盟は,愛国公債購入運動とか,日本精神発揚週間運動など,多数の運動を「国民運動」と称して展開した。そのなかの一つに,非常時国民生活様式確立運動があった。
この国民生活を対象として展開された運動について,
『翼賛国民運動史』も
「翼賛会発足後もつねに重視せられた生活実践の国民運動として注目すべきものである」
と述べている。
その具体的成果としてここで特筆されているのは国民服の制定であった。28)
その制定は,洋服,和服,礼服,平服と複雑な日本の衣服生活に対し,戦時下にあたってその様式を一定にし,簡素化を計るというものであった。
1938(昭和13)年7月には,「非常時国民生活様式二関スル決定事項」として,新調見合,贈答廃止,服装簡素,宴会制限の実践事項をかかげた。
翌8月には,さらに第二次決定事項として,結婚式,葬式の簡素化、酒,タバコの節制,空地の利用法から屑物の活用まで広汎な規制項目を挙げて,
さらに1939(昭和14)年7月には,「公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策」として,男子学生の長髪禁止,女性のパーマネント,その他「浮華なる化粧服装の廃止」などを挙げている。29)
ところで,1938年に,一部軍需産業は好況を招き,労働力不足は一定の賃金上昇をもたらした。
当時は,日中戦争開始二年目であった。
いわゆる戦争景気という現象で,厚生省は同年10月14日,
「毀賑産業労働者ノ銃後生活刷新二関スル件通牒」という通達を出して「徹底的二之等産業労働者の物心両面における銃後生活全面の刷新策を講ずる」
ことを試みる。
これが「銃後生活刷新策」と呼ばれるものである。
このようにして生活規制は単に国民生活の消費面のみでなく,生産力,労働力の側面とより深くかかわるようになる。
したがって,生活理念の表現自体もこれまでの精神主義的要求
の域をこえて,生活の合理化,科学化,生活科学確立の要求となる。生活科学がその課題として最底生活の問題に取り組まなければならない理由もここにあった。
やがて戦争の影響が国民の日常生活の次元にまであらゆる角度から押し寄せてきた時に,多面的な生活科学への要求がおこってくる。
国民の消費生活も切り下げ,節約と耐乏,労働強化を促すことは戦争態勢の強化に不可欠の条件であったから,
この国家目的のために「科学} の名が必要とされた。
多面的生活科学の要求に,それらを綜合しようとする試みも,すでに現われていたのである。
大熊信行は
「惟うに高度国防国家建設の基礎は,綜合的国家科学の建設である」
という観点から,
次のように述べている。
「国民生活の実態を究明し,生活指導の客観的規準を樹立するための綜合的生活研究ほど国家的緊要の課題はなく,およそ国民生活の各部面に分岐せる諸般の研究は,これを
自然科学,応用科学,人文科学の全領域にわたって,当面的実践の必要の前に綜合し,よって国家
施設および国民指導の科学的基礎を確立することが火急の問題でなければならぬ」
として,
前述した二つの系統を綜合する「生活科学」の樹立を主張したのである。30)
他方で,浦本政三郎は,その専門とする生理学の立場から綜合的な「生活科学」の樹立を主張し,
国家を「完全な生命的な自律性」を有する「有機的構軋体であり,逆に「生理学を身体の政治経済学」とみなして,国家の生命学としての国策科学に連らなる生活科学の樹立を説いている。31)
このことは,生理学者浦本(当時慈恵医大教授)が国策科学を語り,
経済学者大熊が生理学に言及することは,当時,生理的限界に近づいていた国民生活の実情が暗示されている。
その意味は,国民の消費生活を切り下げ,節約と労働強化を促すことが必要とされるのである。
1941(昭和16)牢8月,厚生省は社会局を廃止して生活局を設置した。
これと関連して厚生大臣小泉親彦は,
「国民生活の安定と言っても,昔の政党の綱領に謳っているような意味ではなく,差迫っ
た戦時下の国民生活を合理化し,科学化することによってこれを確立することだ。自分は近く人文
科学・自然科学の両分野にわたり有能な専門家を集めて権威ある厚生省の外郭機関をつくり,生活
科学の基礎の確立をはかるつもりだ」
と述べていた。32)
この主旨は、同年12月の「日本生活科学会」の成立となったのである。
第一回の研究発表会では,大熊信行(高岡高商)「生活体と生活力」,杉山栄一(商大)「生活経済の統計的研究」,曙峻義等(労研)「勤労生活と国民保健」,内酎羊三(東大)「木造家屋と火災」,浦本政三郎(慈恵医大)「生活科草体系への基礎的構想」が報告された。
この学会は,医学系統の小泉親彦,浦本政三郎らと,経済学系統の大河内一男,大熊信行らを中心に,両系統を綜合して創立されたものであった。
その発会式および第一回研究発表会の模様を伝えた宗像誠也は,発会式の挨拶の中で,
小泉厚相の「医学いよいよ進歩して国民体位ますます低下し,経
済学いよいよ発達して国民生活ますます貧窮する」という警句を引いている。
さらに宗像は,この学会に「綜合生活科学体系整って国民生活旧態依然たり」という状態におち込むことを懸念している。33)
このように,自然科学,社会科学二つの系統の生活科学を綜合したのであるが,しかし,「科学」の名称が一定の効用をもつのもこの一時期を限りのものであった。
1941,2年にいくつか団体が設立されることになったが,1941(昭和16)年7月には,速水操を主宰者とする財団法人「国民生活協会」,
同年9月には,大河内正敏の「国民生活科学化協会」が設立
された。
この「国民生活科学化協会」は大政翼賛会より助成金を受け,各界の各士を網羅した大規模なものであった。
名誉会長は小泉親彦,
会長に大河内正敏のほか,
理事長に松前重義,
理事のなかには,村岡花子,羽仁説子らを並べている。
その機関誌『生活科学』の第一号では,
対談村岡花子
「小泉厚生大臣と語る一戦時生活の新設計.、座談会「生活の科学化とは」などの記事がある。その他,戦時言論統制に猛威をふるった情報局の鈴木庫三陸軍中佐が「新しい国民生活」
のなかで,
アメリカ人,イギリス人の生活が平均日本人の10倍の経費をかけている贅沢なもので,結局それがアジア諸民族を圧迫して戦争の原因になったと述べ,
「このように考えて来ると『贅沢は敵だ』という言葉は(中略)国内で敵であるばかりでなく,世界人類の敵だということになります」と、
耐乏生活と戦争との関連を説いた。34)
1942(昭和17)年4月には,教育学の城戸幡太郎,宗像誠也を中
心に「国民生活学院」,「匡民生活字院附属生活科学研究所」 が創立された。
この学院は「母性の社会化」を目標に.
女性に対し「保育・保健・栄養の技術と社会的識見を持たせ,生活指導の実をあげんとする」
というものであった。35)
このような団体が出現することは,国民生活を戦争目的のた
めに連携させるべくいかに多岐多様に展開されていたかを如実に示すものであろう。
しかし戦争の激化は,生活理念において「科学」に代って再び「精神」が重視されることになる。
太平洋戦争下において,それは「決戦生活」という言葉で表現された。
それが当時の為政者によってどのように観念されていたであろうか。
1943(昭和18)年7月,中央協力会議第四回総常会第四
委員会における首相東条英機の演説が,それを明瞭に示している。
この第四委員会は
「決戦生活の実践」を取りあげることになっていたが,
この場で出席者から食料配給量の不正,闇の横行などが
訴えられたのと関連して,東条の発言となる。
彼は,自分の体験として,
先ごろ東京都下のある村を散歩していると,リヤカーにつまれて腐りかけている野菜の山がある。
かき分けて中を調べると,まだ食べられそうなものが沢山あったので,早通近所の工場の主人を呼び,労務者の朝の味噌汁の
足しにせよといって引きとらせたという話をした後で,
「活用し得べき野菜やヂャガイモ等を摩らして,それで食糧がないないというような放言に対しては政府の責任であるという前に国民の責任である」と述べ、
さらに,
「日本人は米とか麦,ヂャガイモ以外のものは食糧に非ずといった贅沢な考えをもっている傾があるが,食えるものは木板革皮何でもあるのである」
と断じた。36)
この演説は単に「決戦生活」の理念を説いたのみでなく.
やがて表面化してくる生活の現実を表明したのであった。
「木根革皮」を食するところ,既に人間の生活はない。
それは,人間としての生存そのものの脅威をも感じさせるのである。
大熊信行によると、日本で最初に学問的著述のなかで「生活科学」という言葉が用いられたのは,
1931年に出版された赤松要の著書においてである。
その後,宮田喜代蔵,大熊信行らも各々個別に生活科学という構想に近付き,
大河内一男も社会政策学から生活の論理を探究した。
大熊は彼白身が生活科学という着想を得たのは1930年頃と述べている。
経済学の研究にたずさわる前三者に共通していた発想は価格科学としての経済学が見失ったものを,生活科学において再発見しようとする試みであった。37)
大熊信行が,1943年7月から11月まで「婦人公論」に連載していた『新家政学』は,軍の干渉により執筆禁止となった。
その理由は,内容に天皇中心思想を欠くというものであった。
これは明らかに,科学に代る精神主義が再び重視されてきたことを意味している。
また,1943(昭和18)年11月,京都大学教授荒木俊馬が
「生活科学なる言葉は実は余り感心しない」,
なぜならそれは「生活を楽にすると言った響が強い」,
「今や日本人の生活は悉く之を挙げて,決戦第一主義のもとに在る。そこには個人生活の安易の如きは全然問題とならないのである」38)
と主張した。
このように,戦時下の生活科学構想はそれ自体戦争協力の学でありながら,しかも権力と精神主義の攻撃の前に崩れていったのである。
≪この結果、日本では科学を論じないしきたりがあるようです≫
註
1)「臨時教育会議官制⊥(大正6年9月21日勅令),宮原誠→他『資料日本現代教育史4』,三省堂,1979年,
P.194
2)前同書,「臨時教育会議二関スル寺内内閣総理大臣演示」(大正6年10月1日),P.195; および海後
宗臣編「臨時教育会議の研究」1960年,東京大学出版会参照。
3)前同書,PP.196-204
4)海後宗臣「教育制度」,『文部時報一日本の教育九○年』,文部省調査局,1962年10月,PP.2122
5)海後宗臣,前同書,P.26
6)「国民精神総動員実施要綱」(昭和12年8月24日間議決定)、前掲書『資料日本現代教育史4』,PP.295
296
7)前同書,PP.283-295
『国体の本義』(昭和12年5月31日)は,「国体を明徴にし,国民精神を滴養振作すべき刻下の急務に鑑
みて編纂」され,昭和17年4月までに八坂,103万部を刊行した。 ニれに続いて『臣民の道』が同じく思
想局から刊行された。 これらは昭和10年11月に設置された「教学刷新評議会」の答申を具体化するもので
あり,これ以後,教学刷新の基準とされた。
なお,『国体の本義』については,土星忠姓「『国体の本義』の編纂過程」(関東教育学会紀要第5号,
1978年11月)が参考になる二 大戦前のわが国の教育政策に重要な役割を果たしたものとして,教学刷新評
議会と教育審議会について論述がなされ,それとの関連で,『国体の本義』の編纂過程が詳細に述べられ
ている。
8)前同書,PP.298-300
9)文部省「国民学校教則実説明要領及解説」,1940年
10)前掲書,『資料日本現代教育史4』P.299
11)前同書,「学徒戦時動員体制確立要綱」(昭和18年6月25日間議決定)PP.333-334
12)前同書,「教育二間スル戦時非常措置方策」(昭和18年10月12日間議決定)PP.334-336
13)前同書,PP.337339,「学童疎開促進要綱」(昭和19年6月30日間議決定),「決戦教育措置要綱」(昭和
20年3月18日間議決定),「戦時教育令」(昭和20年5月22日勅令)参照。
14)前同書,「家庭教育振興二間スル件」(昭和5年12月23日文部省訓令)P.280
15)下村寿一「聖戦完遂と女子教育」,日本経国社,1944年,P.32
16)-117)「近代日本教育制度史料」第十五巻,講談社,1957年,PP.422-425
18)「高度国防国家ノ建設ヲ目標トセル軍需生産力拡充二関スル研究1,『日本科学技術史大系』第四巻,第一法規出版,1966年,PP.241-245
19)天野郁夫「近代日本高等教育研究」1990年,玉川大学出版,P.341参照
20)文政研究会編「文政維新の綱領」巻末附録,新紀元社,1944年,PP,1719
21)前掲書「近代日本教育制度史料」第十五巻,P.446
22)前掲書「文政 維新の綱領」P.19
23)平塚益徳「女子教育_『文書耶寺報【日本の教育90年』,文部省調査局編,1963年,P.193
24)松前重義「国民生活の科学化」『技術人と技術精神』1942年,白揚社.P.201
25)富塚清「総力戦と科学」1942年,大日本出軋 P.68
26)臨時産業合理局「臣嘉時産業合理局の事業」1932年4月,PP.264,273274
27) ′」、野清秀「国家総動員」1937年,国風会,PP.468-470
28)下中弥三郎「翼賛国民運動史」1954年,同刊行会,P.29
29)石川準吉「国家総動員史」史料篇第四,1976年,通商産業研究社,PP.460-461,471
30)大熊信行「日本生活科学会の創立に際して」,『国家科学への道』1941年,東京堂,P.116
31)浦本政三郎「生活科学体系の構想」『生理学的世界像』1941年.理想社,PP.122-124
32)東京日日,大阪毎日新聞社『生活科学』,1942年1月号,P.47
33)宗像誠也 r日本生活科学会の発足」『教育』1942年1月号,P.55
34)前掲書,東京日日,大阪毎日新聞社『生活科学』、P.47
35)関谷耕一「戦時における国民生活研究」記念論文集『社会政策学の基本問題』1966年,有斐閣,P.260
36) 日本科学史学会編「日本科学技術史大系」25、医学2,1968年,第一法規,PP.263-264
37)大熊信行「日本生活科学の生誕まで」1941年,東京堂,PP.99-100
38)荒木俊馬「生活科学の再建設」『科学思潮』,1943年11月号.P.26
0 件のコメント:
コメントを投稿