日本経済新聞
イギリス The Economist 誌 2014/9/27の翻訳
韓国軍内部で兵士の虐待など不祥事が相次いで明らかになり、人権無視の「兵営文化」を改革する必要性が叫ばれている。議論は、現行の徴兵制への批判にも及んでいる。
毎週日曜日、韓国では5世帯に1世帯がリアリティー番組「リアル・メン(真の男)」を夢中になって見ている。これは、人気歌手やコメディアン、俳優を韓国軍に入隊させる番組だ。韓国は、厳密に言えば今も北朝鮮と交戦状態にあり、すべての壮健な男子に少なくとも21カ月の兵役を全うする義務がある。その韓国で、この番組は大人気となっている。
兵役義務のない女性は、この番組が自分たちの息子や兄弟が大人に成長する過程をのぞき見させてくれるという。彼らが目にするのは、厳しい訓練と誇り、兄弟愛だ。
■今年だけで350件以上の虐待
しかし、番組で見られる仲間意識は、徴兵で集められた一部の兵士たちが直面する過酷な現実とは全く異なっている。ここ数カ月の間に、彼らが生活する兵営で発生した暴行や屈辱的行為の強要、言葉による虐待に関する報告が、少しずつ明るみに出ている。
今年8月、ある若い兵士の死亡事件が表面化した。亡くなったユン氏(彼のフルネームは明らかにされていない)を虐待していたとされるのは同輩の徴集兵たちだった。そして、彼ら自身も上官から虐待を受けていた。彼らはユン氏に歯磨き粉を無理やり食べさせたり、刺激物を性器に塗ったり、地面に吐いた唾をなめさせたりしたといわれている。ひとしきり暴行すると、ユン氏に点滴をして意識を回復させ、それからまた殴ったという。
この事件は韓国国民にショックを与えた――2011年や2005年に起きた事件の時と同じだ。11年には、酷いいじめを受けていた兵士が銃を乱射し、4人を死亡させた。また05年にはある兵士が、苦痛を与えた同僚兵士8人を手りゅう弾で殺害した。
05年にはさらに、陸軍のある大尉が、トイレをきれいに使わなかった罰として、200人の徴集兵に大便を無理やり食べさせたことで逮捕されている。今年1月以降、現在までに約350件の虐待事件が、国家人権委員会に持ち込まれている。人権活動家らによれば、報告されずに終わっている例がもっと多く存在しているという。
■肉体的虐待を容認
ユン氏へのいじめは、市民団体の韓国軍人権センターによって暴露された。同センター代表のイム・テフン氏は、「組織的な隠ぺい工作があった」と非難している。この事件を受けて陸軍参謀総長が辞任した。
さらなる虐待行為を防ぐため、国防省は、軍に対して恒久的な人権委員会の設立を求めた。さらに先日は、全軍を対象に任務を中止して人権に関するセミナーを終日受講させた。軍検察は今月、ユン氏を殺害したとされる4人の兵士たちへの容疑を、過失致死から殺人に変更した。
兵営文化の抜本的改革を求める声はこれまでも大きかった。だが、総勢65万人に上る韓国軍における肉体的虐待は、2倍の規模とされる北朝鮮軍に対抗するために兵士たちを鍛える手段として昔から容認されてきた。
軍による2回のクーデターと長期間続いた戒厳令(朴槿恵大統領の父、故朴正熙元大統領の時代)によって韓国軍は、軍内の問題処理に並外れた自由裁量権を与えられてきた。そのため民主主義に基づいた監視をほとんど免れている。
■死体安置所に残る遺体
それは、いじめた側が適切な罰を与えられていないことを意味している。軍の死体安置所には約150の遺体が残っている。彼らの死因は、「軍隊生活への不適応」とされている。遺族は死因を確認するための独自調査を求めて、遺体の引き取りを拒否している。
かつて軍の弁護士だったチェ・カンウ氏は、軍事裁判所は「韓国の恥だ」と言う。法的知識を持たない軍高官が、裁判手続きを統括しているからだ。
元大臣で、徴兵制廃止のために現在活動しているキム・ドゥクァン氏は、先進国の多くが徴兵制度を廃止するなか、韓国はその流れから外れていると指摘する。キム氏は北朝鮮の脅威を真剣に受け止めている。だが、軍隊の強さが先進技術に基づく時代に、「銃を構えるにすぎない」兵士が何の役に立つのかと問いかけている。
キム氏はまた、虐待に加担する者が内部分裂を助長している点も懸念している。韓国軍は長年、徴兵制を維持し文民統制を払いのけるための口実として国の安全保障を使ってきた。キム氏のような常備軍支持派は、韓国の安全保障は徴兵制でなく文民統制によってこそ守られると主張している。
(c)2014 The Economist Newspaper Limited. Sep. 27th, 2014 All rights reserved.
英エコノミスト誌の記事は、日経ビジネスがライセンス契約に基づき翻訳したものです。英語の原文記事はwww.economist.comで読むことができます。
(当ブログのコメント)
自民党を支配している右翼組織の「日本会議」の副会長に小田村四郎がいる。
彼の右翼運動・思想の礎は、戦前の1938年ころの右翼活動で作られた。
彼は、さまざまな学生運動団体を立ち上げ(東大精神科学研究会→東大文化科学研究会→日本学生協会→精神科学研究所)、日本主義(右翼)的な学生思想運動を全国に展開した。
その右翼運動を、「日本会議」で継続していると考える。
日本会議が目指しているらしい戦前の国家体制は、右翼団体の力を借りた体制であったので、その軍隊においても右翼団体が勢力を持っていたのではないか。
そして、その右翼団体の優遇体制が、軍隊内での兵隊へのいじめ・暴行がまん延する原因を作ったのではないか。
それは(当時は日本の支配下にあった)韓国の軍隊にも遺伝しているのではないか、と推察します。
(1)韓国軍での乱射事件捜査結果を発表(韓国軍内のいじめが原因)(2014年7月15日)
(2)2014年7月31日、韓国海軍の「要注意(関心)兵士」が、所属していた軍艦内で首をつって自殺していたことが分かった (2014年8月1日)
(このところ韓国では、6月にGOP(一般前哨)銃乱射、7月27日には陸軍兵士2人が自殺と、同様の事件が相次いでいる。)
(3)韓国軍の兵士集団暴行死で引責:韓国陸軍参謀総長が辞意(2014年8月5日)
(4)韓国で軍人による犯罪は昨年7530件 過去5年で最多(2014年8月7日)
(5)韓国軍兵士の4割がうつ病、日常的ないじめなどが原因(2014年8月18日)
(私は5年間、自衛隊にいたのでわかりますが……
旧日本軍の悪しき軍隊いじめの伝統を受け継いだ、
体育会系的パワーハラスメントの構造に支配された世界です。
自衛隊は、いじめの巣窟)
日本の自衛隊にも、旧日本軍の右翼優遇の体質を受け継いだいじめ体質がある可能性がある。
自民党を支配している右翼組織の「日本会議」 の考える日本の伝統とは何かを以下で考えます。
その日本の伝統とは、以下の、戦前の「思想善導(青少年健全育成)」による「教化総動員」体制のことを意味しているように思います。
(ただし、その思想善導運動を進めるためには、もう1つの要素として、「治安維持法」が必要になりますが。)
その戦前の歴史を見る前に、現在の日本の政治の現状を簡単に見てみます。
--------コメント開始-------------------
【安倍内閣の教育再生実行会議の八木秀次委員が、2014年5月3日に北海道札幌市で開催された在日特権を許さない市民の会(在特会)系集会「日本のため行動する会」に参加していた。】
(在特会副会長だった桜ゆみこ氏が会のページ上で告知を投稿した2009年10月27日開催の「10・27「日本解体法案」反対請願受付国民集会&デモ」にも、発起人の連名に複数の国会議員とともに八木秀次氏の名前がある)
(当ブログのコメント: 日本会議(在特会)は、やはり、戦前の教育体制「思想善導(青少年健全育成)」に力を入れているようだ。)
在特会の桜ゆみこは山本優美子として「なでしこアクション」を立ち上げて活動しています
桜ゆみこ在特会副会長
→山本優美子「なでしこアクション」代表
→「慰安婦問題を糺し、毅然とした国の対応を求める国民集会」開催 桜ゆみこ(山本優美子)、桜井誠の写真がこれ。
奥に写っている桜ゆみこ在特会副会長が、
山本優美子となって「なでしこアクション」代表に。 なでしこアクション
「慰安婦問題を糺し、毅然とした国の対応を求める国民集会」開催。
2012年11月6日衆議院第一議員会館。
参加した「極右」国会議員。
基調講演 山谷えり子
(2012年11月6日山谷えり子議員が在特会系の「なでしこアクション」で基調講演)
元在特会副会長の呼びかけに参集した議員ども
古屋圭司
稲田朋美
衛藤晟一
塚田一郎
宇都隆史
『現・国家公安委員長』の山谷と『前・国家公安委員長』の古屋圭司が共に『なでしこアクション』(元在特副会長が主催するヘイト団体)のイベントでスピーチしていた。・・・ついでにネオナチ稲田朋美も一緒だ。
---コメントおわり----------------
-日本の、「科学を論じないしきたり」の歴史的背景-
戦時体制下における教育思潮
から引用。
1928年6月には,治安椎持法が改正された。
・1928年の治安維持法の改正の趣旨
この時の改正は2つの目的を持っていました。
①一つは結社罪の最高刑を死刑としたこと*2、
②もう一つは目的遂行罪(結社に加入していなくても、国体変革等を目指す結社の目的に寄与する行動を罰するもの)の設定でした。
特に後者について、改正後に拡大適用されて猛威を振るうことになります。
1928年7月には,内務省に保安課が新設され,思想取締まりにあたる特別高等警察を全国に設置し,憲兵隊に思想係を設置するなど,その権力は思想にまで介入することになり,反体制運動への弾圧が強化されたのであった。
(戦後の日本政府は、(弾圧した国民の復讐を恐れ)、日本占領軍に逆らってでも治安維持法を守ろうとした。 しかし、戦後にアメリカから与えられた民主主義体制によって日本の治安が良好に保たれたので、 戦前の治安維持法も、共産主義者の暗殺行為も、思想善導も必要無かった。 これは結果からの推定です。民主主義の力の秘密を理解できなければこれが民主主義の力によるという証明にはなりません。証明には、相当な研究が必要と思うが、それだけの労力を尽す価値があると思う。
(1929年3月に国会議員の山本宣治(死後に共産党員に加えられる)が、国会で思想善導(青少年健全育成)について質問した後に暗殺された。)
その一方で,1928(昭和3)年12月1日,政府は教学振興・国体観念養成を声明して,「思想善導(青少年健全育成)」への方向で,翌29年8月に,文部省は教化総動員の運動を企画し,これを全国的規模で推進した。
(当ブログのコメント:思想善導は、現代の日本の青少年健全育成に対応する概念です。)
この教化総動員を打ち出すにあたって,文部官僚の危機感は,思想国難,経済困難として表現されている。 教化総動員は,田中内閣に変わって,1929(昭和4)年7月に成立した浜口民政党内閣の施政方針にしたがうことになった。 それは、 一方で,共産党以下反体制運動を抑圧し, 他方で,金融恐慌後の経済危機を克服しようとする, 資本の産業合理化を支援する経済緊縮政策を援助するために, 政府(権力)の支配下にある全官僚・団体の機構を総動員して展開した一大教化運動であった。
その後,1937(昭和12)年の第一次近衛内閣時代には,日中戦争の開始(同年7月7日)という国際的危機にあって, 「国民精神総動員」運動の名のもとに,先の教化総動員を再編成して,大規模な日本精神発揚の教化運動が展開されることになる。 戦争開始直後の8月24日に,閣議で『国民精神総動員実施要綱』6)が決定され,内務・文部両省を中心に運動が推進された。
(当ブログのコメント:安倍内閣が、閣議で『集団的自衛権』を決定したことが、この戦前のやり方に似ている)
この運動には, 全国神職会・全国市長会・帝国在郷軍人会の他,労働組合組織など多数の団体が参加し,
(当ブログのコメント:「日本会議」はこの運動と同じく、神職会と軍人会から構成されていますね)
近衛内閣は,その運動目標として,挙匡一致・尽忠報国・堅忍持久を掲げ,国体観念の宣伝,注入に努めた。
さらに,部落・町会・隣組など隣保組織まで行政組織の末端に組入れて,上意下達の道筋を確立しようとした。
1938(昭和13)年には,地方道府県の国民精神総動員実行委員会が活動し,地方官僚を中核に殆ど全団体の代表者を網羅した委員会の主導によって,
懇談会・講演会・映画会の開催,
ポスター・パンフレット・ビラの配布,
新聞・公報・ラジオ放送などによる宣伝,
また,祈願祭の執行,
奉公歌歌詞募集・寄金募集など,
その他,強調週間の実施などの諸行事が推進されたのであった。
1939(昭和14)年4月,平沼内閣時代に,
国民精神総動員委員会第二回総会は,
「国民精神総動員新展開の基本方針」 を決定した。
平沼内閣のもとに,荒木貞夫大将を文相に置いたが, その主導で,
総理大臣直轄の委員会と地方府県の主務課の設置によって, 右翼団体を始めとし,その他の教化団体と行政系統とを駆使して, 皇道主義・一君万民思想の普及に徹することになった。
1940(昭和15)年の第二次近衛内閣に至り,先の総動員本部は解散されて,生活組織を基礎に全国民を対象とする大政翼賛会の組織による運動が実施されることになった。
・・・
1937(昭和12)年7月には,すでに,教学刷新の中心機関である教学局が文部省外局として設置され,学問研究に対する統制の中枢をなした。
(当ブログのコメント: この 教学局は、1937年に開始された、「国民精神総動員」運動の名のもとに先の教化総動員を再編成した大規模な日本精神発揚の教化運動の一部です。安倍内閣を支配している「日本会議」は、この、「大規模な日本精神発揚の教化運動」を理想としていると推察します。)
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算数の役割を「数理思想の滴養」(「国民学校令施行規則」)に置き,本来,科学的精神の精髄である批判的精神を除却(除去)した合理的精神の涵養(水が自然に土に浸透するように、出しゃばらずにゆっくりと国家方針に合った思想を養い育てること)が求められたのであった。
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戦前の国民的な心理,意識,生活を支配し,規制していたものは,国体論と精神主義を柱とする天皇制イデオロギーであり,
それはあらゆる非科学性の根源であった。
また同時に,それは国家存立の根幹であるとみなされていたからである。
科学は明治以降の外来,輸入のものであり.日本の伝統や国粋とはなじまぬもので,日本の欧米化を促進するもとになるという危惧の念があったと思われる。
したがって,科学は少数の研究者に委ね,国民多数にとって必要で大切なのは,科学的知識よりも忠孝の道である,という認識であった。
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ところで,1938年に,一部軍需産業は好況を招き,労働力不足は一定の賃金上昇をもたらした。
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やがて戦争の影響が国民の日常生活の次元にまであらゆる角度から押し寄せてきた時に,多面的な生活科学への要求がおこってくる。
・・・
しかし,「科学」の名称が一定の効用をもつのもこの一時期を限りのものであった。
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しかし戦争の激化は,生活理念において「科学」に代って再び「精神」が重視されることになる。
太平洋戦争下において,それは「決戦生活」という言葉で表現された。
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大熊信行が,1943年7月から11月まで「婦人公論」に連載していた『新家政学』は,軍の干渉により執筆禁止となった。
その理由は,内容に天皇中心思想を欠くというものであった。
これは明らかに,科学に代る精神主義が再び重視されてきたことを意味している。
・・・
このように,戦時下の生活科学構想はそれ自体戦争協力の学でありながら,しかも権力と精神主義の攻撃の前に崩れていったのである。
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