Copy 違法有害表現に関する覚書
白田秀彰
2008 年3 月25 日
以下の文章は、
法政大学の白田教授の「違法有害表現に関する覚書」をコピーさせて頂きました。
法政大准教授・白田氏、“児童ポルノの所持”を宣言。「単純所持が違法化されたら、真っ先に自分を摘発しろ」
1 はじめに
青少年向け携帯電話フィルタリング問題、いわゆる準児童ポルノ1の違法化問題等、違法有害とされる情報が流通することによる社会問題について議論がなされている。とくに、情報が自由に流通することによって、我々が具体的に「害される」のであるという主張が、いわゆる違法有害表現規制の前提となっている。果たしてそうだろうか。この問題について、たくさんの人々から、さまざまな見解が表明されている。私は、私の見解と立場を整理するために、本論を書くことにした。いずれしっかりした論文とするための覚書だ。
以下、三つの立場からこの問題について検討してみたい。三つの立場とは、
1. 自然哲学の立場から
2.宗教道徳の立場から
3. 近代法の立場から
である。
1 については、最近読んで、私が感服したマルクス・アウレーリウスの『自省録』2に現れている、「後期ストア哲学を世俗的にした考え方」、その他具体的に文献は挙げられないが、私がこれまで見聞きしたギリシアやローマの「前キリスト教的」哲学を基礎に、私なりの推論によって検討する。
2 について、私は宗教学を学んでいないし、それぞれの宗教の教義についても正確に理解しているわけではない。しかしながら、やはり私の過去の知識と経験を基礎に、また専らキリスト教の聖書に現れている教義を基礎に、私なりの推論によって検討する。この部分における検討では、私が把握しているかぎりの仏教の教義も援用される。
3 について、私は情報法という講義をする中で、近代法が採用している表現規制に関する理論を知っているので、これに基づいて検討する。 そして、最後に違法有害表現規制があるべき状態について、現時点での私の個人的見解を述べる。
2 自然哲学の立場から
a. ギリシャやローマ哲学は、自然神的・多神教的世界観を基礎に、自然的な事柄について世界は調和しており、そこで起きる事柄には本質的に善悪の区別が存在しないのだとする。善悪や快苦は、人間の不完全な認識による主観に過ぎないものとされる。またその哲学は、神が人間に神的な属性の一部である理性を与えて、その他の動物と区別したことから、動物的肉体に比較して、理性的精神の優位を主張する。またその哲学は、人間の本質を理性的精神とする。ここでいう理性的精神とは、本質的に社会(polis) 的な存在である我々の公共善を実現する意思である。
ここで、b. 現世における人間の最も重要な課題は、自己の理性的精神をいかに動物的肉体の誘惑から遠ざけて、神の秩序と調和的かつ純粋に保つかということになる。また、自然に存在するものが神の被造物として調和するのに対して、c. 人間が作り出す有形・無形のあらゆるものは、不完全であり一段階低い物として把握されることになる。まして、自然の進行を妨げ、自然に反し、自然を改造することは、神への冒涜として把握される。
a の信念から次のことが導かれる。人間を含む生物が生殖することは、そのように造物主が生物を造った以上そうあるべきだ。したがって、一定の成熟期間を過ぎ、肉体的に生殖活動が可能になったのであれば、生殖活動を行うことに何らの害悪があるはずがない。これは、その他の生老病死等の現象についても同様であり、この哲学は、我らの感覚器官に生じる刺激に対して、それらを泰然とあるがままに受け入れて、内心の理性を不動とすることを要求する。
一方、b の観点からみたとき、人間は理性的に生きることをなによりも重要な目的とすべきところ、動物的情欲や感覚器官の快楽は、そうした理性の行使を妨げる。したがって、欲望や快楽に関連する事柄や表現は、それ自体が害悪なのではなくて、多くの人々にとってそれら表現が、没頭し惑溺し理性を失わせる原因となるゆえに害があるものとする。また、そうした事柄や表現が、肉体に敗北した精神の表れであると見られるゆえに、それら表現が瑣末で価値のないものとして否定される。
c の信念から判断するに、人間の身体や精神の自然に反する法律や制度は、ギリシャやローマの哲学を前提とするなら正しい法律や制度とはみられないだろう。また、情欲や快楽のために、身体を損なったり、精神を損なったりするような行為は、理性的な行為や自然な行為ではないので、厳しく禁じられるだろう。以上の検討から筆者は次のように推論する。
自己や他者の身体や精神への意図的な攻撃は、悪徳であるゆえに禁じられるだろう。しかし、身体や精神へ害を及ぼしうる事柄の表現は、その表現が害意を含んでいないかぎり、防御のための知識も与えるのだから善悪について中立である。害意という悪徳は、それが実行され外部に顕れたときには、社会的安全と秩序を維持するため、法律によって禁止あるいは処罰されなけばならない。一方、その悪徳が内心にとどまる場合には、理性的説得によって除去されなければならない。ただし、精神は人間の内奥にあって、外部からの強制力が及ばないため、精神のあり方を外部的な作用によって強制することはできない。
現在では違法有害表現とされている表現すべてについて、それが自然であり事実であるならば、本質的に違法でもなければ有害でもないと、この立場では判断されるだろう。たとえば、我々は生殖に伴う交合をおこなうのであるし、身体的に可能であるのなら、かなりの低年齢からかなりの高年齢までがそうした行為をおこなう可能性があることは、事実だからである。こうした自然の事実について表現することは問題ないだろう。
そうした事実の表現が抑制されるべきなのは、理性的精神を静穏かつ純粋に保ちたいと努力している人に対して、そうした努力に反する情欲や快楽への誘惑を増大させるためだ。理性的であろうと努力している人に、情欲や快楽に関する表現を与えて誘惑することは害悪だろう。逆に、理性的であろうと努力していない人に、そうした表現を与えることは、彼らに何らの害悪も与えないといえる。ある人が理性的であろうと努力しないことは、非難されはしない。ただ、真実に目覚めていない魂として憐憫の対象となる。また、事実でないことの表現は、原則的かつ全般的に無価値である。仮にその表現に、理性的な生き方を妨げるような誘惑があるのならば、無益有害なのだから、厳しく禁じられなければならないだろう。逆に、事実でないことの表現は、それが我々の理性的精神の健全性や、真善美になんらかの貢献をする場合にのみ許容されることになる。推測するに、いわゆる古代から近世に至るまでの文芸批評は、そうした観点から虚構表現(action) を評価していたのではないか。
c の観点に基づけば、この立場では「自然かつ正常な行為」と「不自然で異常な行為」を区別することを要求するだろう。これについて筆者は詳しくないが、推測するに当時の哲学的思惟と論争の対象になったものと思われる。当然、不自然で異常な行為は法や制度によって禁止の対象となっただろう3。
3 宗教道徳の立場から
自然哲学の立場は、自然と現世そのものを善なるものとして把握することを起点にした。しかし、そうした自然哲学に対して「より望ましい世界」について構想し、ありのままの自然と現世を改造することを主張する立場が現れた。これをここでは「宗教」とする。すなわち、造物主が作りあげた自然的世界というハードウェアに対して、その欠陥を補うべく、さまざまな宗教的権威が作りあげたオペレーション・プログラムが提案されているのだ。
もちろん、そのオペレーション・プログラムすなわち宗教が我々の意識に描き出すインターフェイス・デザインは、我々にとってあたかもそれが「世界そのもの」であるように見せる。すなわち、自然哲学的意味において、単一の自然法則で動作している世界を、さまざまな異なった様相において我々に認識させる。すると、宗教Aと宗教Bは、我々に異なった世界の把握の仕方を要求するのだから、異なる宗教の間では、物事の認識や理解についての合意を得ることは困難になる。共同体においてそれぞれの構成員が、それぞれの異なった世界を認識しているのでは共同体が機能しなくなるので、共同体全体について一つの宗教が強制される傾向にある。これが教団や国教というものだ。
さて、現在の日本国の法や制度や道徳の基礎になっているのは、もちろん日本の伝統や文化であるべきなのだが、よく知られるように明治維新後は、キリスト教道徳の影響も強い。とくにドイツから輸入してきた法律と法学理論は、当然にキリスト教道徳を下敷きにしている。そこで、以下では不完全ながら、キリスト教道徳と、仏教道徳を基礎にしながら検討してみたい。ところで、本来の仏教教義は、実は前節の自然哲学とかなり似ていて、もとより我々の世俗的生活における規範や倫理にはあまり関心を持っていない。したがって、本論でいう仏教とは、要するに日本の世俗的道徳観を形成した、俗流仏教を想定する4。1. ここでいう宗教では、不完全で苦しみの多い現世と、来るべき幸福の来世という二段階の世界観が提示される。したがって、原則として現世は悪と誘惑に満ちており、その中で信仰を守り抜いた信者だけが、神の計画に従って救済され、幸福に満ちた来世に移行しうるという信念が存在する。すると、現世において価値があるものは信仰であり、他の現世のことはすべて無価値となる。
自然哲学において、自然において表現される創造主の属性である調和と善は、探求する価値のあるものだったが、宗教道徳においては、自然が示すその価値は、教義や戒律に劣後することになる。すなわち、自然観察と事実の探求よりも、経典に示されている「教え」が優先されることになる。ここで、2. 現世における人間の最も重要な課題は、信仰に従い、また教義の示す戒律を守り通したかということになる。ところで、宗教の教義や戒律は、自然哲学と異なり、宗教的権威が「人類のよりよきあり方」のために設定したものである。したがって、3. それらの教義や戒律は、異教徒の目から見た場合不合理かつ無意味に見えることがある。これは、先に示したように、自然的世界を別々の世界観で見ているからだ。
1 について。私はキリスト教や仏教の教義のすべてを知るものではないが、私の知るかぎり、聖書や仏典において人間が生殖すること自体を禁止するような記述はないと思う。ただし、両者とも現世が無価値であるとする厭世宗教であるため、現世の存在である肉体的な情欲や快楽を無価値なものとして否定する。さらに、そうした情欲や快楽が信仰の妨げになるという理由で禁じる場合がある。すなわち、生殖が問題なのではなく信仰の妨げになる事柄が問題なのだ。したがって、信仰を弱める可能性のある、あらゆる種類の奢侈や快楽が禁じられることになる。
2 について。信仰は、もちろん内心の問題であるから観察が不可能だ。しかしそうした信仰は、戒律を守ることによって表現される。そこで宗教的権威が示す戒律の遵守が信仰の証としてみられるようになる。そうすると、生殖にかかわる行為は、一般的に戒律によって抑制される可能性が高くなる。仮に戒律において抑制されなくても、宗教共同体のなかの社会的圧力として、快楽を伴う性行為や表現が一般的に禁忌されるようになるだろう。逆に、情欲や快楽に関する事柄について超然とし無関心であることが、宗教共同体においては賞賛の対象となるだろう。
3 教義や戒律の遵守が信仰の証だとされるのだから、たとえそれがどんなに不合理かつ無意味に見えるものであったとしても、それが教義であり戒律であるかぎり絶対的な規範として機能する。たとえば、キリスト教においても仏教においても、宗教的な信仰の表現として、身体に負担をかけ健康を害する惧れのある行為をおこなう場合がある。また、ときとして教義や信仰を理由として、さまざまな残虐行為や戦争が行われたことも否定できない。
以上の検討から筆者は次のように推論する。
自己や他者の身体や精神への意図的な攻撃は、当然に悪徳であるから禁じられる。加えて、教義や戒律への批判や疑義そのものが重大な悪徳として禁じられるだろう。自然哲学と異なり、自然や事実の探求は、ときとして教義や戒律に反する事実を明らかにしてしまうために、抑圧され宗教的権威の指導下に置かれる5。この観点からすれば、教義や戒律に反する真実の表現は害悪であり、逆に虚偽であったとしても教義や戒律を強化する表現は奨励される。優先されるものは、宗教的権力・権威・秩序機構の安定だからだ。さらに、ある教義に対抗する別の教義、すなわち異教や異端はもっとも厳しく禁止され罰せられる。それは、それが信仰に有害な虚偽だからである。教義に反することは、大罪である。それは戒律を破ることによって具体的に顕れる。そこで宗教的秩序を維持するために、破戒は処罰の対象となる。
それゆえ、宗教道徳が貫徹した社会においては、教義を除くすべての表現が抑圧の対象となる傾向が強い6。ある表現は、自然科学的真実であるが故に抑圧され、また、ある表現は架空の夢想表現(fantasy) であるが故に抑圧される。すべての表現は、宗教道徳のフィルタを通して、その宗教道徳を強化する方向にのみ許容される7。事実、教義に厳格な宗教的権威が社会の指導者となった場合に、しばしば文学・演劇・音楽等が、無価値かつ信仰の妨げになるものとして、禁止の対象となった8。
すると、この立場の視点からすれば、現在では違法有害表現とされている表現についてのみならず、異教的表現、経典に示された内容と異なる表現、虚偽であると判断された表現すべてが禁圧の対象となる。数年前、児童文学『ハリー・ポッター』が魔法の存在を示し賛美するものとして出版禁止になった、という記事を見たことがある9が、この宗教道徳の立場からすれば自然なものである。同様に、現代の我々が日ごろ楽しんでいる虚構表現のすべてが、この立場においては禁止されるだろう。それらはいずれも信仰にとって無価値かつ有害なものだからである。
仮に、教義において生殖活動や交合を認め奨励するような記述があれば、推測するにそうした表現はむしろ奨励される可能性がある10。しかし、キリスト教も仏教も生殖活動や交合を肉体的であり無価値なものとして否定する傾向にあるので、それらへの過度な惑溺への戒めている11。
ところが、宗教的な活動を行うべき修行者集団の戒律になると、性の禁忌は極端に厳格になり、一切の禁欲が要求されることが多い。そうした修行者の徹底した禁欲が信仰の厚さを示す指標となると、修行者でない人々もまた禁欲を美徳として称揚するようになる12。すなわち、性に代表される欲望を促す表現が直接に悪であるが故に禁止されるのではなく、望ましい規範が禁欲を要求するが故に、欲望に関する表現が下劣なものとして排除されるという論理だ。私はこれを上品(decent)13概念として把握する。
4 近代法の立場から
長い間、社会の秩序は宗教によって担保され、宗教道徳がすなわち法の基盤を形成してきた。ところが、前節でみたように、宗教そのものが虚構表現あるいは夢想表現である。それらは自然哲学が対象とする自然的基礎から遊離しているがゆえに、宗教Aと宗教Bの教義が異なっている場合、それらが相互に譲歩することは困難だ。歴史的にみれば、宗教の教義の対立が理由となって多くの殺戮や戦争がおこなわれてきたことは事実である。それが国家間の戦争である場合のみならず、国内の対立や内乱の原因となってきたこともまた事実である。
そこで、ほとんどの近代国家では、国内の治安秩序維持をおこなう政治と、宗教への信仰を分離することで、国内に存在するさまざまな宗教の共存すなわち宗教的寛容をようやく実現した。政教分離の原則と宗教的寛容は、西洋の歴史を見るかぎり、千年以上の長きにわたる宗教対立を原因として流された人々の命と血で購われた重要な価値である。また、近代国家構築を主導してきた人々は、その国家を理性によって支配される合理的な国家としようとした。すなわち、近代法の原則は、宗教道徳よりも自然哲学に近い位置にある。
4.1 違法表現
さて、そうした近代法の一つである現行日本法が禁ずる違法表現としては以下のようなものがある。 (i)
1. 猥褻表現/ 児童ポルノ
2. 名誉・信用毀損表現
3. プライバシー侵害表現
(ii)
4. 詐欺/ 偽証
5. 偽造私文書・公文書
6. 広告規制違反表現
7. 放送規制違反表現
8. 取引に関する虚偽・誇張表現
(iii)
9. 著作権・商標権・意匠権等侵害表現
違法表現とは、実定法によって禁じられた表現であるのだから、その意味は猥褻関連表現に限定されるものではない。もちろん違法表現は、法に反するのだから禁じられる。しかし、その理由付けはみな同じではない。
(i) 1~3 のものは、表現範疇そのものが禁じられる表現であり、表現内容が真実であるか否かは問題とならない。それらは、むしろ真実であるほうが社会的な影響が大きい場合があると思われる14。
一方、(ii) 4~8 のものは、それが虚偽であることが禁じられる理由になっている。一般的に、虚偽は我々の判断を誤らせ、とくに取引においては損失をもたらすものであるから、禁止されることは合理的だ。
さらに、(iii) 9 のものは、表現そのものに経済的価値が認められており、取引の対象となりうるのだから、その取引秩序を維持するために規制されることは合理的だ。
すると、(ii) のものは、ある程度客観的に真偽判定できるのだから、違法か否かもある程度客観的に決定できるだろう。深刻な論争になるとは考えにくいし、読者の大方も「虚偽の情報は抑制されるべき」という見解に賛成してくれるだろう。また(iii) のものは、保護されるべき表現が法文のなかで明確(?) に定義されているので、われわれの表現がある権利なり法の禁止に抵触しているか否かを判断することが可能だろう。
ところが、(i) の表現範疇は、言論表現の自由に属する表現と、法によって禁じられる表現の境界が曖昧だ。このため、しばしばある表現が(i) の範疇に該当するか否かをめぐって論争が生じる。民主政体を前提とするかぎり、あらゆる言論や表現は自由が原則だ。しかしながら、ある表現範疇が社会的にみて具体的な害をもたらすと判断される場合、それを法律によって禁ずることは容認される。
ただし、この場合にも、
a. やむにやまれぬ政府の(公共的な) 利益を実現する目的で、かつ
b. その利益を実現するために必要かつ最小限の手段による禁止でなければならない
という制約がある。
これを言論表現の自由に関する厳格審査基準ということは、ある程度法律学を学んだ学生ならみな知っているはずだ。
また、とくに判断能力に乏しく、言論や表現から強い影響を受けやすい人たち──通常の場合には児童や青少年──については、その精神的・身体的健全性(?) を維持するという家父長的保護政策が正当化され、成人よりもより広い範囲の言論表現を禁じても許されると考えられている。こうした、青少年向けの規制基準は、一般的に青少年にとって有害な表現と呼ばれる。ただし、青少年に対する規制は、かなり厳格に青少年に限定して作用するように設計しなければ、上記の厳格審査基準を満たさないものとして、憲法違反になる可能性が高まる。たとえば、インターネット全体から青少年にとって有害な表現を排除する規制は、インターネットを使用する成人の言論表現の自由を過度に広汎に規制するため憲法違反である、などと説明される。
4.2 有害表現
つづいて、違法ではないが有害な表現について考えてみる。違法な表現は、書かれた法律という基準があるために、それが違法であるかどうかの判断が比較的明確であった。しかし、医学的な意味において身体や精神への害が立証しうる場合でない限り、有害という概念は、害について語るそれぞれの人物の規範観の反映として現れてくる。以下は、私のこれまでの経験から、その話題について言及することが忌避されていると考えたものだ。
(A)
1. 青少年にとって有害な表現
2. 性に関連する表現
(B)
3. 危険行為(含む暴力表現) に関する表現
4. 危険物質に関する表現
(C)
5. 偉い人に関する表現
6. 宗教に関する表現
(D)
7. 真実に関する表現
8. 虚偽(架空) の表現
(A) 1 と2 は、猥褻概念の外側にある表現で、法律的な意味での猥褻obscene には該当しないものの、性的かつ/ または暴力的な内容を含むものとされている。この表現範疇を指すしばしば使われる呼称としては、下品な表現indecent というものがある。この呼び方それ自体が、その表現範疇を定義するためには、まず上品decent という概念が成立している必要があることを明らかにしている。私の考えでは、これは「宗教道徳」の節で導かれた禁欲を上品としてみる価値観を背景にしていると思われる。
合理的に考えれば、私が、「情報時代の言論・表現の自由/ 5.2 言論・表現の自由の指導原理とは」15 で指摘したように、性に関する事柄は、当然のように我々の中心的な興味関心の対象であるがゆえに、抑制したほうが適切な社会状態をもたらすのだ、という判断があるのだろう。しかし、この場合においても、性に関する表現が過剰になることを忌避したいと考える背景には、過剰な欲望や快楽を悪徳として把握する価値判断があると考えるほかないように思われる。
(B) 3 と4 は、いずれも身体に対する害を及ぼすものについての表現なので、表現範疇としては比較的明確だと思われる。しかしながら、しばしば指摘されるように、我々が危険を避けることができるのは、危険について知っているからである。すると、我々が自らの安全を守る目的のためには、むしろ危険についてよく知っておくほうが望ましいと考えられる。例えば、毒草の種類とその危険性とくに致死量について、さらに解毒法について知っていることは、本質的に望ましいはずだ。このことはすでに「自然哲学」の節で検討した。
すると、この範疇についていえば、危険に関する表現そのものが有害だとされているのではなく、さらに、そうした危険行為や危険物質を悪用するよう推奨しているとみられる表現方法が問題とされているのではないか。先の例でいえば、毒草を致死量用いて誰かを殺害することを唆すような表現ということになる。仮にそうであるなら、表現内容という曖昧な基準に、それを悪用するよう推奨するという表現者の害意という基準が加わる。人間の精神状態や意図を客観的に確定することは困難だが、「唆す」という行為は、刑法学の観点からすれば客観的に確定可能な「行為」である。そこで刑法典では、内面の害意が客観的な行為として観察された場合に限って処罰することを要求している。刑法典が、客観的に観察可能な特定の行為を引き金として、その行為に付随している害意を推定するという、合理的手法を採用していることに、読者は注意してほしい。仮に、「害意をいだくこと」そのものを刑法によって禁止するならば、それは直接に思想統制をおこなうことを意味するからだ。
(C) 5 と6 について。各種メディアでの報道や、日常会話の様子を観察していると、社会的に大きな勢力をもつ人物については、そもそも言及すること自体が忌避されている様子がわかる。また、宗教的な事柄については、その宗教の活動や教義について、言及することを忌避されているように思われる。これはその「偉い人」や「宗教」の権威や権力を毀損することが望ましくない、という社会的圧力が存在するか、あるいは、「偉い人」や「宗教」の権威や権力を毀損することが望ましくないと考える人たちからの、なんらかの報復があることを私達が怖れているかのいずれかだろう。ちなみに、宗教道徳が支配する時代における言論統制の長い歴史の中で、中心的な取り締まりの対象となったのが、この範疇に該当する言論であることに注意してほしい。
さらに(D)7 と8 については、大方の読者が奇異に感じるだろう。真実を語ることに何の制約もあるものか、と考えるのが普通だ。しかし、我々の日常生活においては、客観的な真実について言及することが忌避されている事態が多々ある。幼い日、近所の太ったおばさんに「オバチャンってデブだからさ」と言ったときに、母親から頬を叩かれ睨みつけられた経験をもつような人は多いだろう。さらに、架空の事実について語ることが時として違法な虚偽として罰せられることからも明らかなように、虚偽について語ることが一般的に忌避されている様子がわかる。しかも、その虚偽が真実らしく受け止められる可能性が高いほど悪質なものとして非難の対象となる。
こうして、(C) 範疇について抽象化して考えれば、要するに既存の社会秩序を動揺させること自体が問題とされているようだ。ある面では、日本の諺にいう「寝た子を起こすな」というような要素も含むものと思われる。すると、この範疇をより的確に表現する言葉として、風紀紊乱という時代がかった言葉が浮かび上がってくる。実は、この風紀紊乱すなわち善良な風俗の破壊こそが、古代から現代にまで続く表現規制の一般的対象とされてきたことはいうまでもない。
すると、問題になってくるのが「既存の社会秩序」「善良な風俗」がいかなるものか、ということだ。これは(i) の表現範疇を確定するために必要な上品概念ともつながってくる。
5 整理と考察 ここで、これまでの論述を大きく結び合わせる。
違法表現のうち(ii) 範疇のものは、それが本質的に虚偽であるが故に禁じられるという自然哲学の考え方に依拠しているといえる。
また、違法表現のうち(iii) 範疇のものは、情報を経済的財として取引する現在の取引秩序を維持する目的のために制限されているといえる。
しかし、それ以外の違法表現のうち(i) 範疇のもの、そして有害表現のうち(B) 範疇を除くもの(以下、χ範疇) については、特定の宗教道徳を基礎とする価値観に立脚にしなければ、それらが違法であったり有害であると判断できない。それゆえに、有害表現は、法律による禁止から除外されているのだ。仮に、現在の範疇での有害表現を、国家の警察権の発動による取締りの対象とするならば、それは国家によって特定の宗教的価値観を強制することにつながる。これは、政教分離の原則に反する。
したがって、χ範疇を抑制したいという意向をもつ人々は、それが特定の宗教的価値観に立脚した規範を背景にしていることを自覚すべきだ16。加えて、国家が法律をもって禁止する表現は、具体的かつ客観的に害悪が立証され得るものに限定される、という原則を確認すべきだ17。
すなわち、そうした領域の表現を抑制したいのであれば、それは法律による強制ではなくて、宗教的な教導、あるいは哲学的な説得によって改善されるべき領域の問題なのだ。私は、宗教的な組織あるいは倫理や規範を普及する組織が、そのような活動をもっともっと積極的に推進すべきだと思う。望ましくない表現をする人たち、その表現を受け入れる人たちがいることを問題だと考えるのなら、そのように考える人々は、その原因と理由について虚心坦懐かつ誠実親切に検討し、悪徳に捕らわれている人々を自らが考えるより望ましいあり方へと善導救済すべきではないか。
私の価値観や規範観からしても、現在の表現の状況は誉められるものではないと判断している。しかし、それは法律の強制すなわち制御された暴力によって達成されるべきものではない。もしそう試みるのであれば、それは哲学や宗教の敗北をも意味する。
また、自然哲学の立場から見た場合、単なる虚偽が批判されるのみならず、自然や事実に反する虚構表現や夢想表現もまた抑制されるべきことになる。当然のことながら、宗教もまた、そうした虚構表現や夢想表現の一種である。宗教Aの信者から見れば、宗教Bの教義は御伽噺か魔法物語にしか見えないだろう。それは逆に宗教Bから宗教Aを見た場合も同様なのだ。そうした夢想表現同士の争いが社会にもたらす害をようやく停止しえた人類の叡智が宗教的寛容だ。それは、社会において多様な複数の夢想表現の存在を容認するということを意味する。
そうであるならば、我々は、宗教以外の夢想表現の存在をもまた容認しなければならない。仮に「良い夢想表現」と「悪い夢想表現」の区別を試みるならば、我々は、再び宗教論争を開始することになるだろう。そして、「悪い夢想表現」を国家権力によって抑制しても良いのだという社会的合意ができてしまったのなら、良い夢想とされた宗教権力による他思想や他宗教への弾圧の始まりまで、あと一歩なのだということを理解すべきだろう。もとより、いずれにせよ架空の物語である夢想表現に良いも悪いもあるはずがない。
6 おわりに
私の個人的見解としては、自然哲学の立場にかなり近い。虚偽も夢想も存在しないほうが基本的に良いのだと考えている。そして逆に、ある事柄が事実としてこの世に存在するのであれば、それについて表現することには何らの制限もなくてかまわないのではないかと考えている。すなわち、我々が生殖活動にともない交合する事実、我々の交合の可能性がかなりの低年齢からかなりの高年齢まである事実、同性愛が存在する事実、また規範に反したさまざまな様式の交合がひろくおこなわれている事実。世の中に存在するさまざまな悪徳と悲劇、危険と害悪。それらについて語ることが、どれほど我々の規範観や宗教道徳観に衝撃や違和感を与えたとしても、法律によって処罰する必要はないと考える。繰り返すが、それらの規範を支えるのは、法律による強制ではなく宗教道徳的な訴求でなければならない。
一方、私がいわゆるアダルト・ビデオやエロマンガについて強く批判する点は、それが性欲を過剰に掻き立てることを意図した演出、すなわち虚偽を描いていることだ。現実の我々の交合の様子は、アダルトビデオのようではない。暴力的に性行為を強要された人物は当然の様に苦痛を感じ必死の抵抗をするだろう。身体や精神に害を及ぼす行為を良いもの楽しいものとして描くべきでない。通常の生活をしている人は、いつもいつも性的な欲望や衝動に身を浸しているわけではない。むしろ、自然哲学的な節制や宗教道徳的な禁欲を重視している人も多数いるはずだ。
さらに進めれば、世の中に存在するすべての虚構表現、たとえば巨大なロボットに少年や少女が搭乗して次々に敵を撃破して自らは傷つかない物語や、美形の主人公が何か異形の超人に変身して異形の敵と反物理学的な格闘をおこなう物語なども、自然的現実を正しく認識すべき我々にとっての害悪であることになる。戦闘が極めて過酷で残酷かつ醜悪である現実を隠蔽し、戦闘を賛美しているからだ。まして、コンピュータ・グラフィックスを駆使して、現実と区別のつかないほど精緻な夢想表現を作り出すなど、自然哲学および宗教道徳のいずれの立場から見ても悪魔の所業である。
虚偽や夢想を全面的に否定しようとする態度は、決して特殊なものではなく、危険な夢想表現として宗教を否定する社会主義・共産主義国家などで実践が試みられた。しかし、我々の意識から夢想表現を完全に排除することは、ほとんど不可能であり、多大な犠牲を払いながら失敗に終わったか、また終わりつつあるように私は思う。もとより、原則として虚偽も夢想も存在しないほうが良いと考える私自身が、どっぷりと多数の夢想表現の海のなかに浸っている。メディアがもたらすたくさんの虚構と真実の組み合わさった物語が、私達の世界観を形成する情報時代において、かつてのギリシャ・ローマ時代のように画然と「自然の事実」と「夢想表現」を分離することもまた困難になっている。
我々は、自然哲学および宗教道徳の観点からみたとき、すでに数多くの誤謬と異端の思想に染め上げられていて、救いようもないほど堕落頽廃しているとも言えるのだ。いまさら、どこに「正しい」世界のあり方を見出すのか。「正しい」世界観を我々に強制しようと妄想すること自体がもっとも危険な夢想なのではないか。少なくとも、近代の法思想はそのように判断したのだと私は理解している。それこそが「思想信条の自由」の根幹なのではないだろうか。
7 付録: 猥褻取締りの歴史に関する覚書
明治維新以前の日本国において、性的な話題を忌避するような文化は、ほとんど存在しなかった。江戸時代の表現取締の対象は、基本的に幕府政治への批判、奢侈放蕩の描写であり、性的な事柄を含んでいるから取締の対象となったわけではなく、身分にあるまじき奢侈の一つの現れとして遊郭での派手な遊びの表現が問題となったにすぎない18。また心中物の流行で心中が増えたため、取り締まりの対象になったこともある。これも男女の不倫が問題とされたというより、自殺者が増えることでの社会の混乱を避けるためであったといえる19。
この事情は、筆者が知り得るイギリス出版史でも同様で、表現取締の中心となったのは、国王政治への批判、公認されている宗教教義への批判が中心だった。いわゆるポルノグラフィーは、取締対象となるようなマトモな本としては見られておらず、むしろ、政治的な風刺や批判をポルノグラフィーの体裁をとって出版することで取締を逃れようとしたような状況すらあったという20。ただし、性的な表現内容がキリスト教道徳から逸脱する場合には、ポルノグラフィーではなく「異端heresy」「冒涜profanation」として過酷な取り締まりの対象になったことは事実だ。すなわちそれは、宗教的道徳に反するが故に「いやらしい/ 不愉快obscene」なのであり、厳格にまもられるべき宗教的戒律への攻撃とみなされるがゆえに取り締まられたのだ。
さらによく知られたことに、単に「未完成な大人」としての子供観から、「子供」という年齢的範疇が現れ、そうした子供が世の中の害悪から保護されるべき対象として認識されるようになったのは、ようやく18 世紀に入ってからだった21。加えて興味深いことに、18~19 世紀のイギリスの性道徳においては、女性は年齢にかかわりなく子供と同じように、性的に無垢の存在であるべきものとされた。正常な女性には性欲がなく、また性的快感についても、それを感じないか興味がないものとされた22。女性が一般的に性的に子供と同じであると設定されたことに注意しておいてほしい。すなわち、社会的に要求される理想化された女性=子供であったわけだ。
それゆえ、この時代のイギリス社会において、女性の裸体画は、陰毛を描かなければ「理想化された女性像」であるが故に芸術作品であるとみなされ、一方、彼女が性的に成熟していることを示す陰毛が描かれていれば、ポルノグラフィーであると判断された。実は、これが1980 年代まで、日本国刑法に規定されている「猥褻表現」の基準であった「陰毛が表現されているか否か」の理由なのだ。日本の伝統的性文化や風俗とはまったく無関係に、当時の覇権国家であったイギリスの基準をそのまま輸入して疑わないという態度が、法律によって禁止されている猥褻概念のみならず、その周縁にある下品概念までもが西洋からの借り物であることを端的に示している。
引用一覧
1児童ポルノとは、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」の第2 条第3 項に、
「次の各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したものをいう。
一児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
二他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
三衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」
と定義されている。
これらでいう児童とは現実の児童を指す。
ここで問題とされている準児童ポルノは、実際には存在しない架空の児童らしく認識しうる対象についても上記の児童ポルノの定義を拡張するもの。諸外国におけるこのような拡張の提案は、情報技術の発展にともない、現実の児童によるポルノと区別がつかない架空の児童によるポルノが作成され得るようになったため、画像等からそれが一見して児童ポルノと区別することが困難になったことを受けて、取り締まりの実効性をあげるために推進された。
しかし、ここで問題とされている準児童ポルノは、現実と架空の区別を棄てて、表現の受け手側がそれをポルノと認識するだろうと思われる表現を取り締まろうとするものだ。すなわち、児童ポルノ取締が青少年の性的搾取からの保護という保護法益を持っていたのに対して、準児童ポルノ取締では、受け手側の風紀取締へと保護法益が変化していることになる。
2マルクス・アウレーリウス, 『自省録』(神谷美恵子訳, 岩波文庫2007).
3茶会員から「ギリシャ・ローマ文化における男性同性愛の称揚が、自然を賛美する理論とどのように調和するのか」という質問を受けた。歴史的事実について、筆者はほとんど知らないので断言できないが、以下のような論理が働いたのではないか。まず、理性的精神を賛美し、動物的肉体を卑下する哲学においては、肉体的な情欲や交合は無価値なものとされる。そこに、男性の理性的とされた精神を、女性の動物的とされた精神より高貴なものとする男性優位哲学が結合すると、精神的に男性を愛すること──すなわちプラトニック・ラヴ──は、もっとも水準の高い愛となるだろう。また、逆に女性同性愛について筆者の知るところを付言しておけば、女性は性欲を持たないとの観念が支配していた18~19 世紀の西洋においては、女性同士の友情の形態として把握され、性的な交渉は、男性との恋愛へ移行するまでの単なる戯れであると理解されていていたようだ。
4江戸時代の武士を中心とする上流階級については、庶民よりも厳格で禁欲的な規範が要求された。すなわち、儒学(朱子学) である。この武士の規範は、現在の我々が想定する「望ましい規範」の基盤を形成している。明治政府は、武士の規範を日本国民の規範の基礎に据え、そこに輸入されたキリスト教道徳を結合することで、全国民を開明的な武士化しようと試みたともいえるだろう。
5たとえば、ガリレオ裁判における天動説対地動説論争。
6すなわち、世界において容認される夢想表現は、その宗教のみであるということを意味する。
7たとえば、ルネサンス以前、中世期の学問および芸術。
8たとえば、清教徒革命期のイングランド。
9http://wiredvision.jp/archives/200111/2001111602.html
10たとえば、各種自然宗教。また、たとえばヒンドゥー教や密教などにも性を重視する教義がみられる。
http://allabout.co.jp/contents/secondlife_tag_c/worldheritage/CU20070724A/index/ を参照せよ。
11出エジプト記に記されている、いわゆる「モーゼの十戒」の第7 戒律「汝姦淫するなかれ」。ただし、創世記の6 日目の神の言葉として「産めよ増えよ地に満ちよ」。両者が矛盾しないものとすれば、生殖活動に伴う交合は神が祝福するものだが、単なる性的快楽の追及は許されないことになる。また、仏教における五戒の一つ「不邪淫」。ただしその解釈はさまざまだ。快楽の追求に伴う乱淫が批判禁止されることは当然だが、男女の交合が、実質的な部分で相互の信頼と責任を伴うものであれば、必ずしも現世の法制度的意味における結婚を要求しないという解釈もある。
12たとえば、ジャン・スタンジェand アンヌ・ファン・ネック, 『自慰抑圧と恐怖の精神史』(稲松三千野訳, 原書房2001) では、宗教的倫理観と未発達な医療理論が結合した結果、自慰行為が恐怖の対象とされたことを述べている。以下概要。18 世紀以前キリスト教カソリックでは、自慰は悪徳とされたが、一般の人々には恐怖心はなかった。精液を溜めておくと腐敗するという説があり、まったく自慰行為を行わないよりは健康のために行ったほうが良いと信じられた。18~19 世紀自慰行為は健康に悪く人格を害するという説が、西洋世界で流布し、道徳的にも医学的にも害悪であると信じられ、自慰行為が恐怖の対象となる。20 世紀前半自慰行為は過剰でなければ健康上問題ないとする説が広まり始める。20 世紀後半自慰行為に対する医学的な誤解が解ける。しかしながら、カトリックでは自慰行為を重大な淫蕩とする態度を留保している。
13日本語の「上品」は、仏教用語としての上品/下品という言葉からきている。この言葉は、江戸時代まで単に等級の上下を意味するに留まっていた。もちろんここでは、英語におけるdecent の訳語として用いている。
14茶会員から、現行法での「児童ポルノ」は、現実の児童によるもののみを取締対象としているのだから、「表現内容が真実であるか否かは問題とならない」という記述は不適切だという指摘があった。確かにそのとおりであり、読者には注意してもらいたい。しかし、たとえば『チャタレイ婦人の恋人』事件判決(刑集11 巻3 号997 頁) に見られるように、ある表現が猥褻であると判断されるとき、それが架空の物語か事実の記述かは問題とされない。保護法益が受け手の側の羞恥観念や善良の風俗だからだ。脚注1 で、現行法において「児童ポルノ」を規制する理由が青少年の性的搾取からの保護にあると説明した。ところが、児童がより広い意味での性的交渉を行う描写そのものが、受け手の羞恥観念や善良の風俗を害すると裁判所が判断するなら、従来の猥褻の法理で架空の児童ポルノ類似表現を処罰可能であることを留意して、このような範疇分けを行っている。もちろん、羞恥観念や善良の風俗の概念が、我々の規範観に強く依拠していることにも注意してほしい。
15http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/freespeech.htm#Sec:5.2
16宗教をきわめて厚く信仰する人は、教義やその宗教からみた世界観を世界のあり方そのものと認識するため──すなわち自然哲学的視点からみた夢想と現実の区別が困難であるため、自らの価値観の絶対性を疑わない傾向にあると推測する。
17西洋諸国には、法律によって特定の宗教的価値観を強制することを容認している国家が幾つも見られることは事実だ。それは、それらの諸国がそもそも特定の宗教道徳を基礎とした法体系に数百年なじみ、それが国の文化として定着しているからだろうと推測する。法律はその国の文化をも背景として正当性を保つからだ。
しかし、そうした法律は、おそらく他宗教・異文化を基盤とする国民にとって抑圧的と把握されがちだろう。
さらに、日本国のように、西洋文化を輸入して高々150 年しか経っていない場合、西洋の宗教的価値観を基盤とした法律には、抵抗感を感じる国民が多いのではないだろうか。そうであるならば、日本においてはより自然哲学的な客観性・合理性に基づいた法律が望ましいのではないだろうか。
18具体的には、遊郭での風俗を描いた洒落本の作家として知られた山東京伝(1761-1816) が、寛政の改革(1791) の出版取締で手鎖50日の刑を受けたこと。参考書としてたとえば、鈴木敏夫, 『江戸の本屋』上・下(中公新書1980).
19具体的には、享保の改革による政策の一つとしての心中禁止令である男女相対死処分令(1722) につづく心中物の出版上演禁止令(1723)。
20筆者が何かの書籍で読んだ記憶があるが出典不明。
21フィリップ・アリエス, 『子供の誕生』(杉山光信and 杉山恵美子訳, みすず書房1981). とはいえ、保護され純粋に養育されるべき対象としての子供観が、西洋先進工業国において労働者階級の水準で一般化したのは、筆者の考えでは20 世紀に入ってから、日本では都市部で大正期以降、農村部で実質的に戦後ではなかったかと考える。この認識について筆者はまとまった信頼ある出典を知らないので、ご存知の読者のご教示をまつ。
22筆者が何かの書籍で読んだ記憶があるが出典不明。しかしながら、Sylvanus Stall, What a Young Husband Ought to Know, (Vir Publishing Co., Philadelphia 1897) に記述があるらしい。
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