2014年8月23日土曜日

Copy:昭和初年,文部省学生部設置前後の学生(生徒)をめぐる閉塞的諸状況

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長崎大学教育学部教育科学研究報告 第29号
(1982年3月20日)

昭和初年,文部省学生部設置前後の学生(生徒)をめぐる閉塞的諸状況

増田, 史郎亮



 文部省の専門学務局内に学生課が設置されたのが1928(昭和3)年,その学生課が専門学務局から独立して学生部に昇格したのが翌年の29(昭和4)年であるが,

本稿はこの前後の学生(生徒)をめぐる閉塞的諸状況を考察せんとするものである。
因みに,
この学生部が34(昭和9)年,さらに思想局
その三年後には教学局
昇格した事は文部省学生課(部)の性格を現わすに充分であったと言えようか。
後のため暗示的に言い添えておく。
 それと言うのも,実は昨年,本学内で某氏の暴言問題なるものが惹起し,

それは学内は勿論,更に学外でも衆議院の問題
(文教委員会,昭和55年3月19日,議事録第六号)
にまでなったが,
本稿はその某氏(後日,他大学へ転出)発言中の誤った歴史認識を正すため
曾て用意せんとしたものである事を予め断って置く。
また拙稿はそういう時務的な側面を含むのみでなく,最近のわが国の大学自治の様態や世相にも示唆する所も多いと考え,ものしたものである事も併せて断って置きたい。




 本稿が焦点的に考察せんとする昭和初年というのは一体どのような時期であったか,その事から先ず瞥見してみたい。

 大正末年から昭和初年という時代は,明治の絶対主義体制からブルジョア民主主義への移行を見せつつも
(第一次大戦後,わが国は金融部占資本主義の段階に突入した),
デモクラシーが充分開花・結実せず,
一方では,それと並行しながら右翼団体
(大正赤心会,赤化防止団,行地社等々)
や教化団体(国本社など)1)が発生し,

ファシズムが拾頭しつつあった
(大正末期の治安維持法は言わば,その法的象徴であったと言えよう)
複雑な時代であり,
それに続く昭和6年の満州事変ごろに至るまでの時代は,それまで準備期にあつた日本ファシズムが本格化して行く時期であったと概括して言えよう。
通常,日本ファシズムの発展過程は昭和恐慌,満州事変,2・26事件を境にして三期に分たれるとされるが,
本稿で考察せんとしている時期をこの日本ファシズム発展史に即して言えば,
この時期は其の第一期たる日本ファシズムの準備期と,
それが本格化せんとする第二期のファシズム進行期の両期にまたがっていたと言うべきであろう。

本稿では大正末年より昭和6年頃
(その後の事に言及する事もあるが)
までを取扱う積りであるので,
以上の事をもっと正確に言えば,
それは日本ファシズム準備の時期と,それに続くファシズム進行期へ突入せんとする時期を含んでいたと言うべきである。
上記の諸様相は後にも示す積りであるが,
ともあれ,以上縷々述べてきたことをここでまとめてみると,
本稿で取扱おうとしている時期は大正デモクラシーが相当進行したものの,
それが充分開花・結実せず,
一方,右翼団体の発生とあいまってファシズムが拾頭し,拾頭するばかりか,その拾頭した日本ファシズムが他を圧して本格的に進行した時期であったと言えよう。

 なお,ここで言う日本ファシズムは国際的契機および国内的契機においてファシズムー般の例外をなすものではなかった事は言うまでもないが,
 また, この日本ファシズムが
「天皇制のファシズム化」,「上からのファシズム」,「軍部ファシズム」等々と規定されるような日本的な特色を帯びたものであった事:も言うまでもない2)。

紙幅の関係で,この日本的特色なるものの詳細な検討はここでは措き,
日本ファシズムの思想の核は天皇への帰一を説く国体思想で,それは天皇を中心とした共同体内に異端の存在と個人的立場の主張を許さぬ体のものであったという事3),
しかもそれの形態は天皇を中心とした軍・官複合体に依拠するものであったという事,
また,この期のファシズムの主たる目的は前衛の破壊,赤化防止であったという事,
さらにそれらは何回もの恐慌,日本共産党の成立などで
「端的に示されるような反体制的組織化の進行という革命的状況の緊迫に対応するもの」
であった事4)

を指摘するに止めよう5)。

 所で以上は社会の一般的状況だったとして, この時期は教育史的に見てどうであったか,以上に関連し,また後文の展開のためにも,ここで暫くその事を略述して置きたい。

 この時期を教育史的に概観すれば,

久保義三氏も言われるように,
この時期は明治以来の
「絶対主義教育を社会的変化に応じて再編成したものであり,日本資本主義の全般的危機に際して支配層が議会・政党の動向を利用しながら,
右翼団体や教化団体の発生とあいまって

自由主義・社会主義の思想や教育にたいし≪思想善導≫をもって制限を加え,
しだいにこれらを制圧していく過程でもあった。」6)
とも言えよう。

筆者流にこれにもう少しつけ加えると,学校教育は勿論,社会教育
(わが国の社会教育は明治末期より大正;期にかけて本格化し,
筆者によれば,それは学校教育の補完的役割を果した)
も上述の世相と相相まって、すべてを挙げ以上の状況の中に捲き込まれて行ったと言って過言でないであろう。
本稿で問題にする学生の社会も其の例外でなく,
否例外どころか,問題が最も凝集された,しかも最も尖鋭な形で投げ出されたと言って然るべきであった。
というのは,多くの時代の中で,学生はたいてい時代の触角・前衛(実は左翼系,右翼系ともにであるが)といった形の存在であったからである。
尤も本稿の性質と紙幅の関係で,学生といっても右翼系学生の事には触れられないので,これもここで序でに断って置く。
他日の稿で改めてこの問題を論ずる事があろうか。




 以上は社会の一・般的・教育的状況だったとして,学生社会はどうであったか,次にそれを概観してみよう。
 大正期,デモクラシーが喧伝された事は前述にも及ばない程,周知の事であるが,前述の如く時代の触角とも言うべき学生の世界においても,その例に洩れなかった事も周知の通りである。
 一体,吉野作造が例の有名なデモクラシー論「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」を『中央公論』誌上に発表したのが1916(大正5)年,
河上肇が著名な『貧乏物語』を著わしたのはその翌年であるが,
これらの影響を受けて特に学生運動として発展したのはその翌年の1918(大正7)年頃からであった。
そして大正中葉にわが国に輸入されたマルクス主義は,数年問にしてわが国の知識層と学界の一部を魅了し席巻し,
「マルキストに非ざれば人に非ず」と言われる程にまでそれは伝播したのであった。
1918年に組織された東大の新人会や,
それについで誕生した早大の民人同盟会が当初デモクラシーの立場であったのが,其の前者の端的な例であり,
24(大正13)年,全国大学・専門・高等学校の加盟53校,約1600名の会員で「学生社会科学連合会」の第一回全国大会が開催されたのが其の後者の例である。
詰り,18年から24年へという年代の推移の問に,学生の思想もデモクラシーからマルクシズムへと転換したのである。
以上の様相は,その頃学生であった林房雄の『文学的回想』なども述べている通りである7)。

 しかし,これらを当局が黙視する筈もなく,常に統制と圧迫の方策をとった事は言うまでもない。
 23年の日本共産党大検挙, 
「国民精神作興二関スル詔書」の発布を初めとして,
翌24年の五高や心高の研究会の解散命令,
25年の「治安維持法」と
「陸軍現役将校学校配属令」の公布,
一高・三高の研究会解散命令,
26年の四高生2名の処分(政治研究会に関係した廉による)
などがそれである。
殊に25年末から26年初めにかけて起った京大生を中心とする治安維持法・出版法違反事件,
いわゆる京大事件は学生思想運動史上の画期的事件で
(この時の大量:検挙された学生の中に鈴木安蔵・淡徳三郎・野呂栄太郎・石田英一郎も入っていた),
学生の処分も苛酷なもので、

それまで比較的に寛大であったとも見られた当局の学生運動に対する態度もこれ以後硬化し,取締と弾圧は一段と強化されたとされる。
この事件後に出た学生の社会科学研究の絶対禁止を通達した文相の有名な内訓がその一例で,
これは諸新聞の「未曾有の大弾圧」
 「二十世紀の始皇帝の出現」
 「思想恐怖時代来る」
といった諸批判を浴びた程であった8)。
言わでもの事かも知れないが,上記の「国民精神作興二関スル詔書」が国民の思想善導のためのものであり
思想善導と言えば大正期の歴代文相の方針であり,支配層の政治課題でもあり,
それは右翼団体の「赤化防止」とも呼応した),
先の配属令が軍隊の教育界介入・干渉を意味した
(長谷川如:是閑は当時これを「教育に対する軍国的侵略」として鋭く批判した)
という事を念のためここにつけ加えておく。
なお,配属令が田中義一の国民教育と軍隊教育の結合論という年来の持論から発生したものであり,
それがいわゆる「軍縮」 (というより寧ろ軍備の改革と言うべきであろう)の宇垣一成に継承されて結実したものであり,
それがまた26年公布の一般青年を対象にした「青年訓練所令」にも波及効果をもったという事も序でにつけ加えておこう。

 以上の当局の統制と弾圧の方策に抗して学生運動自体も次第に態度を硬化し非合法化していったことも言うまでもなかった。
24年の全国高校の社旗禁圧・暴圧反対運動,
25年の一高・三高の研究会解散命令に対する学連の抗議運動,
26年の先のいわゆる左傾思想取締内訓に対する学連の反対声明,
同年の政治研究会関係の四高生処分に対する反対運動が態度硬化の実例であり,
27年頃に新人会に入会した経験をもつ亀井勝一郎の『我が精神の遍歴』の一文9)
と上記の京大事件そのものは学生運動非合法化の好個の例となろうか。


 然し,以上のように推移して来た情勢も1928(昭和3)年以降,種々の面で当局は一変するに至った。
緊迫した世情に呼応して学生の動きも今まで以上に昂揚し,それに対応して当局の弾圧も従来にその比を見ぬ程に更に一段と強化された。
それは以下の関係事項を列挙するだけでも十分前窺えよう。
 28(昭和3)年……日本共産党大検挙(3・15事件),
「治安維持法」改正

(いわゆる思想国難の緊急勅命をもって改正を行い,国体に対する犯罪の刑を重くした),
特別高等警察設置,
文部省の専門学務局内に学生課を設く,
文部省学生の思想の指導調査機関設置費を要求,
大学・高等学校・専門学校に専任の学生主事・生徒主事を設置,
文部省思想問題に関する件を訓令,
文部省訓育費を計上,
帝大の左傾教授を処分,
東大新人会や京大・九大・東北大の社会科学研究会解散命令,
六高・松山高・富山高・五高・二高・東大生など思想問題で処分,
水戸高盟休。

全国教育大会,
国体観念にもとる学説思想の絶滅を期す等決議,
帝国教育会,

赤化思想防止のため思想問題調査委員会設置,
文部省・直轄学校生徒指導訓練:費126,000円,
思想調査臨時施設費52,000円を計上。
 29(昭和4)年……日本共産党議2次検挙(4・16事件),
教化総動員,
直轄学校学生生徒主事会議,
文部省の学生課,学生部に昇格し専門学務局より独立,
文部省社会教育局設置,
文部省思想善導と称して反マルクス主義文献を頒布,
四高・五五・北大・東北大などの左傾学生処分続発,
新人会解体宣言,
松山高・浦和高・松江高・姫路高・静岡高・高知高・福岡高・六高盟休,沖縄師範・長野伊那中生処分,
岡崎師範・岡山一中・唐津二王生思想事件
(問題が中等教育にまで及んでいる事に注目すべきである)。
 30(昭和5)年……学生思想善導施設方針を文部省議で決定,
帝国大学総長懇談会・私立大学総長協議会・直轄実業専門学校長会議・大学高等学校学生生徒主事協議会・私立大学学生監会議・関東及関西私立大学学生監打合会・
「学生思想二関スル各官省当局者学者教育関係者等ノ懇談会」
など学生思想対策のための会合が頻繁に開催さる,
高知高・弘前高・姫路高・京大・東北大・四高・山形高・水戸高・福岡高・八高・愛知医大で学生処分,
北大・松山高・新潟高・松本高・長崎医大・小樽高商・四高・東北大・広島高師の長物思想事件,
法政大・大谷大・関大・早大・浦和高・松山高・富山高・女子歯科医専・日本女子大・明大・大阪高・大倉高商・豊島師範・大洲中・球磨農などの盟休,
学生の思想対策として文部省,特別講義制度を設く。

 31(昭和6)年……文部省に学生思想問題調査委員会設置,
「新興教育」誌同人,新興教育講習会を開催し弾圧さる,
早大・慶大・東京高・法政大・日大・弘前高・山口高・高知高・津田塾・山形高・大阪商大・広島高師・一高・大阪外語・神戸高商・東京高師・東大・東工大などの学生思想事件,
大阪外語・東京高・松江高の盟休,

文部省,思想調査費に27,000円計上。

 以上は関係事項の中,学生運動面に挙げられるようなものを主として挙げてみたのであるが,
これらを一瞥しただけでも学生運動史も当局のそれに対する弾圧史も従来に比べ面目一新した事が察知されよう。

 学生運動が激化して行った事は先に列挙した学生の思想事件,処分事件,盟休事件の頻発にも明白であった。 
『日本学生社会運動史』,『学生の歴史』のそれぞれの著者が,殊に昭和5,6年頃を学生運動の「疾風怒濤」の時代と言い,
「学生運動欄熟の時代」であったと言っているのも蓋し至言であろうと思われる10)。
文部省思想局の調査によれぽ,其の前年の昭和3,4年当時の学生関係の

(A)事件数,(B)検挙者数,(C)起訴者数,(D)処分者数が
それぞれ
(A) 75件→117件,(B) 120名→292名,(C) 28名→28名,(D) 284名→812名であったのが,
昭和5,6年になるとそれぞれ

(A) 223件→395件,(B) 336名→295名,(C) 77名→32名,(D) 864名→984名
と激増しているが(一部減少している面があるとしても)11),
これが何よりの証左であろう。

昭和4年頃より学生運動の面でも,当局の弾圧面でも新局面が展開したであろう事は以上の事からも推察されよう。
尤も,以上の傾向は昭和6,7年頃を最高潮期として当分は続いたものの漸次弾圧されて鎮静して行ったのであるが12),
このように学生運動が昭和6年前後を境にし隆替を示したのは,
その背景に金融恐慌・世界恐慌に甚大な打撃を受けた日本資本主義,
それによる農村の窮乏化と都市の不況の一層の促進,
それらに危機感をもった日本ファシズムの本格的出現,
それに同調した学生対策をも含む当局の教育政策の遂行等々の社会状況があったからだと考えられる。
 同じ背景のもとで,これ亦,学生運動の高揚と雁行するような形で姿を現わしたのが当局の学生弾圧の姿勢であった。
不穏分子一掃主義をかねてより標榜していた当局が,今までに増して一段と態度を硬化させ厳罰主義で学生に臨んだことは先の関係事項中の学生処分の状況や諸訓令や学生主事会議,大学総長の会議開催等からも或る程度明瞭であるが,
筆者が詳しくそれを展開する後段でそれは更により明白になろう。

 勿論事態は以仕の事ばかりで終わらなかった。
本稿の二の部分でも暗示的に部分的にも示し,また上記の関係事項でも触れているように社会教育面でも同断の事が見られた。
教化総動員など一連の動きがそれであるが,
関係事項の中,社会教育関係のそれの日常年表的なものからとりあげたものだけからも以上の事が窺える次第である。
言わば国家・社会を挙げて総がかりで国民を支配層の企図する所にもって行こうとした事は明白であった。
明治以来の政治(また産業・経済)の結末を教育でつけるという伝統はここでも脈々として生きていたと言うべきであろう。


 四.

 これまで繰返し捲き返し述べたように当局の学生対策も昭和3,4年頃を境に本格的新段階に突入した。
学生弾圧の本格的開幕がこの頃切って落されたと断言して可なりであろう。
それには先ず先の関係事項の昭和3年の冒頭の所を一瞥しただででも充分である。
重複するが,その該当部分を再び列挙してみると大要以下の通りである。
日本共産党大検挙(3。15事件),
治安維持法改正,
特別高等警察設置,
文部省の学生課設置,
同省の思想調査機関設置費の要求,
大学・高・専に専任の学生・生徒主事設置,同省の思想問題に関する訓令と訓育費の計上がそれである。
3・15事件,
治安維持法改正,
特高設置
がそれぞれ連動しながら国民の思想統制と弾圧に如何なる意味を持ったか,ここに敢て諜々するまでもないが,
それ以下の文部省の学生課設置等々もそれらと連動している事も明らかであった。
 昭和3年設置の文部省の学生課にしてからが,
「学生生徒ノ思想ノ調査及指導二関スル事務ヲ掌ラシメル為」(官制改正第6条ノ6)
設けられたものであったし,
大学・高・専の学生・生徒主事設置の趣旨も大体同様であった。
元来,学生主事,生徒主事の前身は学生監,生徒監で,
その任務はそれぞれ総長または学長,学校長または上官の命を承けて学生または生徒の「監督二関スル事ヲ掌スル」ことにあり,
それらは教官の中「ヨリ文部大臣之ヲ補ス」という事に定められていたが,
その学生監,生徒監の任務はそのままにして上記の如く改称し,
かつ専任にしたのが学生主事,生徒主事であった。
このように従来,教官中より遷せられる制度であったのを両主事ともに専任
(両主事ともに奏任官,学生主事補,生徒主事補ともに判任宮)
としたのは,この頃学生思想問題が頗る憂慮すべき情勢にあり,特に監督を要すると考えられたのに外ならなかった13)。
 思想問題に関する訓令というのは,水野文相の以下のような訓令を指している。 
「既往ノ事象照覧戒慎二値ヒス況ソや其ノ濡々トシテ風ヲ或シ抵止スル所ヲ知ラサルニ至ラバ蕾
二学生生徒ノ不幸タルノミナラズ国家存立ノ基礎掌下破ルルニ至ラムコトヲ伯ル是レ極端
ナル偏奇ノ思想ヲ根絶シ懐疑不安ノ流弊ヲ一掃スル下下テ遺憾ナキノ方途ヲ殊二学生生徒
ヲシテ之二感染スルコトナカラシメム群肝特二心力ヲ傾注シテ我力建国ノ本義ヲ体得セシ
メ国体観念ヲ明徴ナラシメ以テ堅実ナル思想ヲ酒養スルニ勉ムルノ真二現下喫緊ノ急務タ
ル所以ナリ」と。

これによれば,極端な偏奇の思想は学生の不幸を招くのみならず国家の存立をも危くする。
これに学生生徒が感染せぬようにするためには我が国建国の本義や国体観念の明徴が必要であるというのであった。
国体思想以外の外来思想をすべて偏奇な思想ときめつけると同時に,それから学生・生徒を遮断するためには,
建国の本義,国体明徴の観念で以て青年の頭脳を洗脳し満杯にして置くべきであるという
露骨な,そして恐るべき当局の意図をそこに読み取ることが筆者には出来るような気がしてならない。

 訓育費の計上というのは
「文部省学生課(部)を中心とする文部官僚によって立案された学生思想対策の一端を示」
しているが14),
それは別名思想善導費と呼ばれたように,
それが学生の思想善導を促進するための言わばアメであった事は確かである。
たとえ実際には教官との懇談会,コソバなどに使用されたとしても,
その効果を無視する事は出来まい。
因みに昭和3年以降の計上された訓育費は

3年・32,100円,
4年・62,400円,
5年・62,600円,
7年・64,400円,
8年・65,000円,
9年・65,200円
の巨額に達した。
なお,以上に関連して昭和7年以降,文部省の思想指導関係費として以下のものも計上されていた事を指摘しておきたい。
昭和7年,

 精神文化研究費73(単位千円,以下略)
 思想指導;訓練費113,
 学生部47,
 思想調査費4,
昭和8年,
 精神文化研究費95,
 思想調査費151,
 学生部53…
(以下略)
の如きがそれである(文部省年報による)15)。
費目の内訳の示す露骨な反動性は覆うべくもなかった16)。
 とも角,以上の事どもを連繋させ重ね合わせ考え直してみると,当局の意図が奈辺にあったか,言わずして明白であろう。
共産党の大検挙を遂行し,
治安維持法を更に厳しく改正し,
特高を設置し,
その上,文部省は文部省で学生取締りの学生課を設置し,
しかも大学・高専に学生・生徒主事を置き,
更に学生の思想善導費の訓育費まで計上してとなると,
また何をか言わんやである。
学生に対する広汎かつ巧妙な,しかも積極的かつトータルな思想統制といった非難は何としても避けられぬのではなかろうか。
恐らく当局の3・15事件に対するショックと驚きと恐れで,
以上のような処置をとったものだろうが,
とも角,当局のこういつた手の込んだやり方は未だかつて見られたことのないことではなかったろうか。
先にも筆者が学生弾圧の幕あけと言ったゆえんである。
これに左傾帝大教授の処分,学生・生徒の処分等を重ね合わせると,更に以上の感を深くするのは恐らく筆者だけでもあるまい。
 然し,学生をとりまく厳しい状況は以上の域に止まらず,
問題は更にもっと深刻になって行った。
 29(昭和4)年の教化総動員
(文部省によれぽ,国体明徴と経済生活の改善を目的としたこの総動員は講演会7312回,講習会386回,映写会1165回,音楽会33回,展観会52回計,8952回,入場人員3,793,000余人の多きにのぼったと言う。
一般大衆を相手のそれであったとしても,これは簡単には無視出来まい。)

第二次日本共産党検挙(4・16事件)
もさる事ながら,
何よりも逸してならぬのは,
同年の勝田文相の演説内容と文部省学生課の学生部への昇格であった。
 勝田文相は伺年6月,全国教育大会で次のように演説した。
この大会は先にも述べたように国体観念にもとる学説思想の絶滅を期す等を決議した類の大会であったが,
勝田文相の演説はそれに勝るとも劣らぬ体のものであった。
彼は言う。
 

「狂える虎の処置をするには相等の威厳を示す必要があると私は考えている。
学生・生徒主事を配置したのも即ちこの意味であります。
またこれらの思想取締りには相当の機関が必要であって,
今回私の下に学生部を置いて思想を取締り,
学生主事と連絡してやるようにしたいと思って,
既に官制は内閣各部を通過して数日の後には枢密院に移されることになっております。
以上は応急的なものでありますが,
等々恒久的に亘っての唯物思想の打破に干ては種々なる計画を以てその実行に当っております。」

と17)。

みずから思想対策を買って出た程の文相だけあっての暴言であるが,
彼の眼からは国体思想に無縁な思想は取締りの対象でしかなく,
活動家の学生達は狂える虎,禽獣でしかなく,
学生狩りのターゲットにしかならなかったのである。
 学生課から昇格した文部省の学生部も,依然として
「学生・生徒ノ思想ノ調査及指導二関スル事務」
を掌るものではあったが,その内実は次のようなものであった。
実はその内実を伝える好個の一文があり,
次にその文を紹介しがてら,
兼ねてそれによって学生部の内実を窺うこととしたい。
然し,その前に筆者はその一文の性質について一応言及しておかねばならない。
と言うのは,次に示すように,それは起草年月日不明の(マル秘)の文章で,先ずその由来から明らかにしなければ紹介するにも紹介のしょうがないからである。
 以下掲げる文章は「学生部ヲ必要トスル理由」という一文であるが,
それの発掘・紹介者である掛川トミ子女史によれば次のように推理されている。
女史はその面の専門家であり,筆者は女史の専門家的見識を信頼し,それもそのまま忠実に紹介することとした。
それによると,先の一文は文部省学生部の課長級の職員によって執筆されたらしい起草年月日不明の(マル秘)の文章なのであるが,
文面からその起草時期は昭和6年4月以降になるらしい18)。
実を言うと,同年四月成立した若槻内閣は大恐慌による歳入減を切り抜けるため行財政の整理をすすめたが,恐らく其の際学生部も縮小もしくは廃止の対象とされたものらしく,
それに対する反論を系統的に述べたのが,
以上の一文であったと思われると女史は言うのである19)。


以上のようにこの一文は昭和6年の,しかも特殊な事情の下で出された一文であるにしても(マル秘)の一文ではあり,
自己防衛的点がなくはないとしても,
学生部の存在理由を系統的に述べた草稿であるだけに,
それだけ文部官僚のそれに対する本音が系統的に提出されていると解して間違いはないようである。
掛川女史が
「文部官僚の思想統制に対する並々ならぬ意欲と志向が明確に表明されている」20)
と言うのは蓋し至言であろう。


 所で,上記の「学生部ヲ必要トスル理由」なる一文は,
学生部を必要とする理由の19項目を挙げ,
その中の第1,第12,第13,第19,第18,第19項の見出しに○を付し
(恐らく力点をそれらに置いたしるしであろう),
そしてそれぞれの項目について大要,以下のように展開している21)。


 (一)学生思想問題ノ重大
  「学生思想問題ハ刻下ノ重要問題」で,日本共産党の数次の検挙にもかかわらず一面それも間断
なく補充せられ,一方愚な秘密運動の組織とその策動は益々複雑化し漸次各地各方面に広がる傾向
にある。 従来, 大学・高・専等に限られていた運動が今日では文理大,高師,師範ばかりか中学
校,小学校教員,青少年団等にも波及し件数も急増している。学生部廃止の理由は解し難い。
 (二) 一般学生ノ思想ノ変化
 極左青年の「運動ノ正体ハ極左一派ノ者ガ」 「一般学生ノ思想ノ動揺変化二乗ジテ之ヲ利用シ」
「策動ヲ重ネ以テ多数ノ者ヲ動カシ居ルモノナレパ」此の一般学生の思想の変動も現下重大な問題
である。一般学生の思想も漸次其の堅実性,善良性を失ない,個人主義化,物質主義化し,益々社
会主義化する傾向にあるのは重:大問題で, 「今日将二十分ナル調査研究ヲ遂ゲ教育上夫々適切ナル
考慮ヲ回ラ」さねぽならない。
 (三) 十分ナル処置ト対策ノ必要
 以上の通りであるので,「常に十分警戒シテ」「危険ナル秘密運動ノ手段方法ヲ知り十分之ヲ取
締リ防遇シテ多数ノ学生生徒二伝染シ事ノ重大トナルヲ防止スルト同時二善クー般学生ノ思想傾向
ヲ察シテ正シク之ヲ指導シ又其ノ思想ノ程度一応ジテ適切ナル教誠ヲ施シ以テ改俊ノ実ヲ挙グルニ
努メ又各学校ノ騒擾ヲ防ギテ其ノ統制規律ヲ保チ学校教育ノ破壊セラルルヲ防グが如キハ現下最モ
緊切ナル焦眉ノ重要問題」である。
 (四) 相当重ミアル中央機関ノ必要
 此の中央機関は全国各段階多数の学校の諸問題に対応して処置を定め対策を立て, 「其ノ実行二
関シテ学校長学生生徒主事等ヲ監督シ指導スルノ任二当ルモノナルヲ以テ是非トモ相当二力アル部
局」でなければならない。学生部の「廃止縮小ノ如キハ全ク其ノ理由」がない。
 (五) 独立シタル専門ノ部局ノ必要
 極左事件の様態の現況などから考えて,頻発する思想問題を調査研究し,指導・監督・処理する
衝にある部局は是非独立した専門の部局である必要がある。
 (六) 現下ノ極左運動,方法性質上特殊,一局ノ必要
 現下の極左策動は一校から他校に直ちに波及し,しかもその運動はそれを有効にするために常に
新方針,新組織を以て運動するのが例であるので,それらの情報を得たら敏速にそれを各学校に知
らしめ,適当なる這出の処置をとらしめる必要がある。これらの事をなすためにも是非とも専門の
機関が必要である。
 (七)事務分量ノ大ナルコト又本年度ヨリ新二経費ノ増加
 思想的事件の激増で学生部の事務量も過多になった。「斯ノ如キ形勢二三ミテ,目下ノ財政ノ緊
縮ヲ必要トスル状態二不拘昭和六年度ヨリ議会ノ協賛ヲ経テ学生部ノ経費ヲ増加シ其ノ人員ヲ増加
シ進ソデ種々ノ施設ヲ行ヒ得ルニ至レル次第」である。
 (八)学生部ノ事務ノ特殊ナル点
 「学生部ノ事務ハ内務省警保局,司法省刑事局,府県警察部,裁判所検事局等ト密接ナル関係ヲ
持ツ事項多ク文部省ノ事務トシテ二極メテ特殊ナル事項ヲ含ミ,又一般二今日ノ極左危険思想運動
ノ内容方法等ハ極メテ特殊ノ専門的ノモノニシテ一般ニハ容易二理解セラレザル傾アリ。又左傾運
動,監督取締等ノ秘密ヲ要スル事項多キ為事務ノ内容其ノ処理ノ方法等モ普ク発表シテ理解ヲ求ム
ルコト難ク従テ如何ナル事務ヲ執り居ルヤ,十分明カナラザル等遺憾ナル点アリテ他ノ文部省ノ普
通事務ト余程異リタルモノ」がある。
 (九)教育ノ将来ノ問題トシテ大切
 「此ノ学生思想問題旧事将来国家ノ:負担者タル青年学生ノ国体観念国家思想二関連シ,又家庭,
公共団体,社会二関スル根本思想ニモ関係スル問題ニシテ固ヨリ国家ノ教育上ノ重大問題ナリ」。
故に今日の事態は之を研究調査して将来の教育に関する重要な基礎的参考事項となさねばならな
い。これらに関して調査・研究を進めるため専門の機関を本省に置く必要がある。
 (十)今日実施スル施設ノ効果
 思想問題に対する対策は昭和五年以来積極的に実施せるもので,指導教官制度,特別講義綱度そ
の他があるが,現在施設の効果として見るべきものを挙げれば,以下のものがある。指導教官制度
により「教員ト生徒トノ関係が密接トナリ,生徒ノ思想傾向,性行等ヲー層ヨク知りヤル」に至っ
た事,特別講義等の効果が挙って来て「危険思想二対スル判断力ノ増シ来レルコト」,福利施設が
整備するに至った事, 「父兄トノ連絡モ益々良好トナリ来レルコト,各学校当局者モ(中等学校
迄)益々極左運動ノ方法,真相二関スル知識ヲ充分ニスル臆病レルコト,従ッテ其ノ処置モ漸次適
切トナリ来レルコト,各種学校内ノ極左秘密団体等ノ取締,同盟休校二関スル処置等モ漸次有効トナリ来レルコト,内務省関,司法省関等トノ連絡モ益々良好トナリ来レルコト等」である。
 (一一)主事ノ任務及其ノ設置ノ効果
 「学生生徒主事設置ノ効果ハ今日ノ各学校ノ監督取締上,又指導訓育上二於テ種々現ハレ居ルコ
ト勿論ニシテ,今日ノ事態二於テモシ此ノ主事ナカリセバ各学校二於テハ頻発スル極左的事件処理
ノ衝二当ル者ナク,各学校ノ左傾学生ノ策動ハ益々甚ダシク遂二収拾スベカラザルモノアルハ想像
二半カラズ。又各学校ノ思想上ノ指導訓育施設等モ主事ナクシテハ到底之ヲ処理シ行クコト能ハザ
ルベシ。主事一足ノ職務上常二左傾学生ヨリ反対ヲ受ケ,其ノ悪ロノ対象トナリ居ル状況ニシテ事
実又ソノ任務ハ極メテ困難ナルヲ以テ此ノ点ハ大イニ同情セザルベカラズ。然レドモ主事ハ各学校
共鋭意他ノ教官ト純計シテ指導監督ノ為二努力シツツアリテ其ノ効果ハ決シテ勘少二非ルコト言二
倹タズ。将来思想問題二関スル知識ヲ精シクシ経験ヲ経ルニ従ヒ益々其ノカヲ発揮スベキヲ疑」わ
ない。
 (一二) 三省共通ノ施設,文部省施設ノミヲ廃スルノ不可
 此の思想問題に関しては「内務省方面ニモ司法省方面ニモ相関連シテ夫々必要ナル機関ヲ設置シ
タルモノナリ。従テ今日文部省学生部ノミヲ廃セントスルが如キハ全ク意味ヲナサザル偏頗ノ処置
ト言ハザルベカラズ。況や今日ノ赤化思想犯罪ノ中二於テハ青年学生二関スル事犯ハソノ最モ著シ
キモノトシテ重大視セラレソノ処置ニツイテハ司法省内務省等ノ当局者二於テモ最モ憂慮施設シツ
ツアル所ナルニ此ノ青年学生ノ思想事件ヲ管掌スル学生部ノ如キヲ廃止縮小スルが如キハ真二反対
セザルヲ得ザル所」である。
 (一三) 思想判事地方庁思想視学等設置ノ計画
  「最近司法省二於テハ刻下己ムヲ得ザル必要巨躯ヘル為既設ノ思想検事ノ外二尚思想判事:ヲ設置
セントスル議アリ。又小学校教員赤化事件ヲ起シタルニ三ノ府県二於テハ専任ノ思想視学ヲ設置シ
テ増大スル思想事件二当ラシメソトスル計画アリ。」かかる際に文部省の学生部を廃止しようというのは甚しい矛盾,錯誤の事と言わねばならない。
 (一四) 学生思想問題二対スル各方面ノ関心ノ増大
 最近各方面で学生の思想問題に対し多大の関心が寄せられるに至り,「貴族院ノ議会派,陸海軍関係ノ会合其他多数ノ団体二於テ頻りニ思想問題二関スル講話ヲ需メ且又之が対策二関シ意見ヲ交換スル等ノコトアリ」

 「地方二於テハ進ソデ中等学校・小学校・校長教員其他ノ為二思想問題二関
スル講習会,会議等ヲ開キ,学生部関係者ヲ招キテ学生思想問題ノ内容実状ニツキ説明ヲ求メ来ル
コト益々多キ傾向」がある。
 (一五) 学生部廃止縮小ニヨリ想像セラレル悪結果
 若し今日学生部が廃止せられ,または縮小されたりしたら,「其ノ結果タルや文部省二於テ事実上
殆ド思想事件ヲ指揮統制スベキ中央機関ヲ失フニ等シク各学校ハ左傾学生,監督取締二関シ,欠ク可ラザル必要ナル智識情報ヲ十分二得ルコト能ハズ事件ヲ処理シ対策ヲ実施スルカアル中心指導者ヲ失フコトトナルベク中学生生徒主事ハ全ク意気撃沈スルニ至ルベキノミナラズ,斯ル学生部廃止
ノ事ハ必ズや左傾学生ノ危険ナル宣伝ノ好資料トナリ著シク其ノー派ノ勢ヲ増大シ学校二於ケル思
想事件ハ益々困難ノモノトナリ又益々増大スルノ原因トナル処アルコトヲ思」わなけ’ればならない。
(一六)学生思想問題調査会トノ関係
 「学生思想問題二関シテハソノ問題ノ重要ナルト更二根本的対策ヲ講ズルノ必要ヨリ目下学生思
想問題調査会ヲ設ケテ,各方面ノ有力者ヲ集計テ調査審議ヲ進メツツアリ。此時二当り学生思想問
題ヲ担当スル学生部ノ如キ機関ヲ反対二廃止縮小スルが如キハ全ク矛盾スルモノト云ハザル」をえない。
 (一七) 一般社会ノ思想悪化二対スル関係
 「学生部二於テハ独リ大学,学校戸閉於ケル思想問題ノ処置ヲナシ又ソノ調査研究ヲナスノミナ
ラズ現下ノ極左危険思想ヨリ見テー般社会ノ思想ノ悪化動揺二対シテ之ヲ調査研究シ,ソノ原因ソ
ノ処置:等ニツキ漸次攻究シ適切ナル施設ヲ講ズベキ任務ヲ有スルモノニシテ現下ノ如ク憂慮スベキ
社会ノ思想傾向トソノ漸次悪化ノ度ヲ増シ来ルノ綿甲ノ機関ノ廃止縮小ノ如キハ全然ソノ当ヲ得タルモノト謂」い難い。
 (一八) 貴族院ノ付帯決議
 「現下ノ学生生徒其他教育関係ノ思想問題ハ」 「今春帝国議会ノ重要ナル問題トナリ特二貴族院
二於テハ事態ヲ重大視シテ左ノ如キ希望決議ヲ付シテ文部省予算ノ通過ヲ見タリ。 r近時思想ノ悪
化益々甚シク単二教育方面二方リ其実行運動ヲ企ツルニ至レルハ国家ノ為深憂二堪ヘズ。政府ハ此
際一層之が防塵愚母適切有効ナル方法ヲ講ゼラレソコトヲ望ム』故に政府としては「今日進ンデー
層徹底完備セル施設ヲナシ,対策ヲ立テザルベカラザル立場ニアリ学生部廃止縮小ノ如キハ決議二
反スルモノト謂」わなければならない。
 (一九) 枢密院二学生部官制付議ノ際二於ケル論議ノ大要
 「昭和四年六月学生部設置ノ官制案枢密院二付議セラレタル当時ノ会議ニハ枢密院触文相擁文部
当局者ノ他,第二重要問題トシテ総理大臣ノ出席ヲ分球,学生思想問題ハ刻下ノ重要問題ニシテ指
導防遽ノ方法ヲ講ゼザルベカラズ,今回ノ提案ハ寧口当面ノ処置ヲ講ズルノミノモノト思ハル,政府
ハ尚進ンデ一層十分ナル処置ヲ講ジ根本的ノ方法ヲ立ツルノ必要アリト信ズトノ趣旨ニテ政府ノ所
信ヲ求メ政府ハ之二対シテ今回ノ処置ハ当面止ムヲ得ザル必要ナル処置ニシテ尚進ソデ今後十分ナ
ル処置ヲ攻究実施スベキ考ナルニ依リ是非本案賛成セラレ度シトノ意味ノ弁明ヲナシ以テ案ノ通過
ヲ見タルモノナリ。従ッテ今若シ学生部ヲ廃止縮小ノ如キハ不穏当ナル処置ト云」わねぽならない。


 (二〇)結語
 「右ノ如キ事情ニシテ今日学生ノ思想事件バー般社会ノ極左危険思想事件中二於テモ特二注意ヲ
要スル重要問題トシテ今後益々之二関スル施設ヲ為サザルベカラザルモノタルト同時二前述シタル
如ク上ハ大学ヨリ下ハ小学校青年団二至ル迄,殆ド文部省全体ノ局課二関係アル事項ナルヲ以テ之
ヲ縮小シテ或ルーツノ局二属セシムルが如キ殆ド不可能ナル事項ト謂」わざるをえない。

 以上が「学生部ヲ必要トスル理由」なる(マル秘)文の概要である。
行革が論ぜられている今日から見ると一種の感傷を催す一文ではあるが,
それはとも角として敢て長い引用をしたのは,
その極秘部分にしている所を窺いたいと思ったからである。
いうまでなく,これは昭和6年?の文章で,
先にも言ったように自己防衛的な部分がなくはないとしても,
既述の掛川女史の言の如く思想統制にかける文部省の
「並々ならぬ意欲と志向」22)
がそのまま伝わってくるような文章であり,
かつは(マル秘)で本音の文章ではあり,
昭和6年の部分を除くと,それを潮らせて大部分は昭和4年の学生部,
また相当な部分は昭和3年の学生課に関連づけ,
あてはめ乍ら考えてもよい文章だと考えられる。
 (マル秘)文を上記のように考え,それも含め,以上のように段々に見て来た事をまとめてみると,
学生課設置よりそれの学生部昇格にかけて事態は正に急激変したと考えざるをえない。
 少なくも学生課設置からそれの学生部への昇格の部分や上記(マル秘)文だけに限って見ても次の事柄が指摘できるようである。
 何度も引用した掛川女史の言の如く,
学生課(部)設置以後の文部省の思想統制はそれまでの
「伝統的禁止方針から積極的なトータルな統制へと質的な変容をとげた。」
と言って然るべきであろう23)。
これが第一に指摘しておきたい事である。
3・15事件,4・16事件が起ったことが学生課の設置,
それの学生部への昇格をもたらした直接の契機であったが,
以上の事件はまた上記のような文部省の思想統制の質的変容をもたらす直接のモメントとなった事も確かであった。
 更に,学生課(部)が学生・生徒主事とは勿論
(先の勝田文相の言でも明白),
他誌,例えば内務省や司法省などとも密接な関係をもっていたこと,
これは言わでもの事であろうが,筆者が指摘しておきたい第二の事柄である。この点は上記(マル秘)文中に
 「学校長学生生徒主事等ヲ監督シ指導スルノ寝腫当ルモノナルヲ以テ」
とか,
 「学生部ノ事務ハ内務省警
保局, 司法省刑事局, 府県警察部,裁判所検事局等ト密接ナル関係ヲモツ事項多ク」
とか ,
「三省共通ノ施設」「内務省方面ニモ司法省方面ニモ相関連シテ」
「内務省関、司法省関等トノ連絡モ益々良好トナリ来レルコト」
等とある所からも判然とするが,
これに類する事例は他でも多数挙げる事が出来る。
例えば戦前,文部省は陸軍省文部局と言われたと喧伝されているが,
これもその一つであり,
昭和5年の「学生思想問題二関スル各官省当局者学者教育関係者等ノ懇談会」の如きもその端的な例であった。
文部省年報の該箇所の説明によると同年9月22日
「東京帝国大学教授,官立大学長,官立高等学校長,帝国大学及私立大学学生主事,内務及司法省,東京地方裁判所等ノ思想問題関係老一五名ヲ本省(文部省)二会同シ学生生徒の思想善導二関シ懇談ヲナシタリ」24)
とある。32(昭和7)年,第三高等学校を中退した土屋祝郎は彼の著『野南ゆる』の中で,
同年起った三高盟休事件の事にふれて盟休の四要求項目の一つに生徒主事の即時解職が掲げてあった事と,
籠城を解散させられた際,私服の特高と制服の警察と生徒主事が一緒になって学生を取囲んでいた事とを書き,
そこに立っていた生徒主事の「顔だけは決して忘れることが出来なかった。」
と述べている25)。
以上のように特高と学校側が一体化していたことは「特高警察例規集」 (1935年まで)の第2編第29条に「学生ノ思想運動ノ視察取締二当リテハ
特二学校当局トノ連絡ヲ緊密ニスベシ」とあり26),
後述の昭和4年末の学生・生徒主事会議における帝大答申に「関係官トノ連絡ヲ一層ヨクスルコト」とある事からも明白であろう。
3・15事件,4・16事件の中央統一公判の裁判長であった宮城実は
「私の経験より見たる共産党事件の審理に就て」
と題する講演の中で
「此の如き事件をやるに付ては刑務所,裁判所,検事局,警視庁皆一面に国家権力を発動して,之に当る事が必要であると私
共は最初に考えた,そこで刑務所,憲兵隊,警視庁,警察,是等の人々に先ず裁判所へ寄
って貰った。そうして色々相談をした」
と述べて居り,
現在の憲法状況から見るならば,
これは全く驚くべき事柄であるが,
このように軍隊,警察,裁判所,検事局,刑務所等々国家の権力機構が一体化しているというのが当時の事実であり,
情況でもあったのである27)。

 学生課(部)に関連して指摘したいことがもう一つある。
それは同課(部)が学生の思想のみでなく,
一般社会の思想にも関係と関心をもっていたという事である。
この点は学生部の任務に
「学生生徒ノ思想ノ指導二関スルコト」(学生課)
の他に
「学生生徒ノ思想ノ調査二関スルコト」
と更に
「内外二於ケル社会思想ノ調査二関スルコト」(以上,調査課)
とあるのでも窺えるが,
先の(マル秘)文の中に
「一般社会ノ思想悪化二対スル関係」
という
項目に
「学生部二瀬テハ独リ大学・学校等小寒ケル思想問題ノ処置ヲナシ又ソノ調査研究
ヲナスノミナラズ現下ノ極左ノ危険思想ヨリ見テー般社会ノ思想ノ悪化動揺二対シテ之ヲ
調査研究シ,ソノ原因ソノ処置等ニツキ漸次攻究シ適切ナル施設ヲ講ズベキ任務ヲ有スルモノニシテ云々」
とあるのではより明白であろう。
また以上のような事であったればこそ学生課が学生部に,それが思想局に,更にそれが教学局に昇格したのである。
 以上の学生課(部)の動きに列挙した関係事項の日本共産党検挙,
治安維持法改正,
特高設置,
全国教育大会,
教化総動員等々
を重ね合わせてみると,
昭和初年という年代は体制側が国体思想に向けてすべての国家権力機構を挙げて総がかりで強圧的に国民を教育した時代であったし,
また,総がかりで国体思想に反する異分子を仮借なく一掃排撃した時代であったと言えるのではあるまいか。
そしてその事は一般国民にも教官にも学生・生徒にも同様であったと言えるのではあるまいか。
 更に29年末の直轄学校学生生徒主事会議において,
「学生生徒ノ思想劇ノ指導訓育ヲ徹
底セシメ又思想問題二対スル批判力ヲ養ハシムル為此際実施スベキ方策如何」
という諮問事項に対し,
以下の如き驚くべき答申が直轄学校側からなされていた事も忘れてはならない28)。


 帝国大学答申
 一.入学二際シテハ思想的傾向ヲ厳重二調査シ……充分二監督スルコト

 一.家庭トノ連絡ヲ図ルコト
 一.関係官庁トノ連絡ヲ図ルコト
 一.学生ノ集団社会二就イテハ従来ヨリモー層厳重二指導監督スルコト
 ー.大学上声テモ訓育ヲ重ンジ……
 一.教官ノ詮衡ヲ厳重ニスルコト
 ー.訓育二重キヲ置ク為学生主事ノ地位ヲ向上セシムルコト
 一.各学部教授ヲシテ夫々其ノ専門ノ立場ヨリ社会思想ノ研究セシメ各学部協力シテ学内講演会ヲ開キ学生二健全ナル批判力ヲ収得セシムル様努力スルコト
 一.出版物及興行物ノ検閲取締ヲー層厳貌セラレタキコト
 一.思想関係講座ヲ増設スルコト
 一.機密費ヲ新設スルコト

 官立大学答申
 一.教官ノ詮衡ヲ厳重ニスルコト

 一.小寄宿舎ヲ設立スルコト
 一.ゼミナールノ新設及増設ヲナスコト
 一.出版物ノ厳重ナル監督ヲナスコト
 一.思想善導二必要ナル文献ヲ出版及配布スルコト
 一.訓育費ヲ増額シソノ使途ヲ学生主事ニー任スルコト

 高等学校答申
 一.教官ハ協カー致シ生徒ト接触シー層訓育ノ徹底ヲ期スルコト

 一.……左傾思想ノ共同研究ハ勿論其ノ個人研究ヲモ禁止スル方針ヲトルコトハ此際一層緊要ト認ム
 一.不穏当ナル生徒ノ団体運動ノ取締二二テハ此際一層厳重:ニスルコト
 一.図書新聞雑誌等出版物ノ取締ヲー層厳重ニセラレタキコト

 以上の諸答申を通覧すると,訓育指導の徹底・図書・出版物・興行物の取締,思想善導という学生対策が貫徹され,それの請負機関が学校であるとの観を催させられるのみでなく,

学校側教官側もまた自己規制を自らに課している事を痛感させられるのを否みえない。
これでは学問の独立も大学の自由・自治も,ましてや学生の自治も何もあったものではあるまい。
これではまた学問の独立も大学の自由・自治も「権力側からは勿論」の事,
大学・高校「内部からも崩されている」29)

事は明々白々であろう。
前述の如く,この前年いわゆる帝大(東大・京大・九大)の左傾教授処分問題が起きているが,
それに対応し深く関わっているのが答申中の教官の厳重な詮衡という字句であった。
如何に欧米の大学・高専より日本のそれが近代学校としての出発が遅く,
従ってその自治・自由の伝統の歴史も浅く,それが稀薄だったとしても,
これでは余りにもひど過ぎると言わざるをえぬのではなかろうか。
一般に欧米大学・高・専諸学校の自由・自治に比し,
日本のそれは微弱かつ不完全だと今まで指摘されて来たが,
遺憾ながら,これはその典型とも言うべきであろうか。
時勢は学生側ばかりでなく,学校側・教官側をも異分子一掃・排除の渦中に捲きこんでいたのである。
学校側・教官側も一方では当局の学生弾圧の請負機関に化せられつつ,他方では自らに自己規制を課することと当局へ全面’協力することとを強いられるという異常な状況下にあったのである。
 もとより,以上の傾向は私立学校も例外でなく,
いな寧ろ其の傾向は官立側より強かったと解釈される面がなくはなかった。
例えば昭和5年12月,文部省開催の私立大学総長思想問題’協議会で
「教授二思想健全ナル者ヲ採用スルノ必要アルコト」
「学校紛擾ノ鎮撫ハ国家ノ権力ノ発動二依ラザルベカラザルコト」
などが明らかにされているのが其の一例であろう30)。
 ここで基本的な事柄に言及すれば,
これらの事どもはヨーロッパの大学の自治が学問的ギルドの自治,または教授会の自治(パリ型)と学生の自治(ボロニや型)の合体の上に成り立っていたのに対し,
日本のそれは教師中心のパリ型を踏襲した独逸型を直接模しながらも,
肝心の自治の本質的様態を学ばず,
天皇制下の富国強兵策や指導者養成の強力な一手段として特殊な発達をしたために教師の自治中心の,
しかもそれも具状権中心の微弱かつ不完全な大学の自治しか展開出来なかった事に起因するものと考えられる。
特に大学の典型であった帝国大学は国家の須要に応じる学問をする場所であったし,
教授はある面,
天皇制権力に守られた人達でもあったのである。
 路線は以上のよ5に敷かれ,この路線の上を匙り,
時にそのウイークポイントを補強・補完して推移して行ったと言うのが昭和5年以降の動向であったと筆者には考えられる。
 30(昭和5)年になると,上記のように帝国大学総長懇談会,私立大学総長’協議会,直
轄実業専門学校長会議,等々が目白押しに頻繁に開かれた。
これは,前年の3・15事件,4・ユ6事件の余波によるものであろう。
この中,「私立大学総長協議会」と「学生思想二関スル各省当局者学者教育関係者等ノ懇談会」とについては先に紹介したので繰返さぬが,
それで他の会議の模様も大体推測がつけられようか。
 同年は特別講義制定(昭和9年まで継続)も開かれた。
これは上述のような先年から懸案の要望になるものであるが,
言うまでもなく文部省学生部を中心とする文部官僚によって立案された学生思想対策の一つであり,
「生徒ヲシテ広ク一般思想問題等二関シ中正穏
健ナル識見ト批判力トヲ養ハシメ,瓢箪ヅテ外来思想ニノミ傾注スルコトヲ避ケ,ヨク日
本精神ノ本義二目醒メシムル目的ヲ以テ各学校二身テ学者,実際家等二委嘱シ毎学年六時
間乃至一二時間ノ特別講義ヲ開講シ全校生徒ヲシテ聴講セシメ」
るという制度であった。
同年度開講の講師・題目の一部を紹介すれば,
一高,三上参次,教育勅語換発由来,心高,紀平正美,二つの相違せる思考の方向に就て,三高,河合栄治郎,ジョン・スチュアート・ミルとトーアス・ヒル・グリーン,四高,紀平正美,自己意識運動の形式清明心に就て,鹿子木員信,歴史的認識と現代埋解及克服,五高,新戸部稲造,自己の教育……
であった。
題目から見る限り,この時点では国体思想一辺倒であったとは言えぬが,
次第に時代が下るにつれてその傾向が濃くなって行った事は言う迄もない。
 なお,同年には学生・生徒主事の動静を推察させるような資料が若干あるのでこれも紹介しておこう・
 菊川忠雄氏や大森義太郎氏らによれば,
この頃日学校に配属された学生・生徒主事は
「生徒の写真を市内の書店に配布して,思想ものを購読する生徒の首実験を企てた」り,
「東京の本屋からマルクス全集をとっている学生を郵便局から調べて来た」り,
大学進学希望生徒の思想傾向を号表によって分類し内報したりしていたらしいが,
学生をいわゆる善導する方法については各主事ともに余り自信がなかったらしく,
例えばこの年の6月名古屋で開かれた全国官公立高商生徒主事協議会では
「世界的有数なるマルクス批判書を一
挙に翻訳して配布されたし。翻訳は抄訳意訳でもよし,要は平易簡明を期せられたし」と
文部省学生部に要望したという31)。
以上の資料は一面特高まがいの主事の姿を浮彫りにしているが,
こんな安直な方法では対決は勿論,善導も覚束なかったろうと思われる。
「学問的思想的対決を避け,安易な方法で対処しようとした所に,高等教育機関における生徒主事制度の非教育的性格があった」
と言っ七然るべきであろう32)。
 然し,以上のような学生に対する諸対策をもってしても猶且つ学生思想対策の効果は充分挙げられなかったようである。
その事を文部省も認めざるを得なかった為に発足させたのが,上記の昭和6年設置の学生思想問題調査委員会であったと考えられる。
文部省の言う所によるとこの委員会は
「今日迄に得たる調査資料を基礎として詳細に学生思想問題の
実状,その内容を研究し,進んで思想問題に関する対策を攻究し現在実施する対策で一層
充実拡張すると同時に更に根本的に各学校に於ける教育の内容・訓育の実際にわたりこれ
を思想問題の鏡に照して十分なる検討攻究を遂げて以て適切なる改善策を着てんことを期し」,
学生・生徒左傾の原因と対策を追求するための趣旨で設けられたものであるが,
そういう趣旨のみでなく,
この委員会が「学者,有識者,学校関係者,教育行政関係者」の39名で構成され
(田中隆:三文相を始め,吉田茂,紀平正美,河合栄治郎,蠣山政道,吉田熊次,小磯国昭などが含まれていた),
答申の翌昭和7年答申するまで総会6回,小委員会17回,整理委員会8回計31回の会合が開かれている所を見ると,
当局者らの学生思想対策再構築への意気込みが感ぜられてならない。
筆者の見る所では,昭和3,4,5年頃で学生思想対策のあらゆる面が本格的に研究,実施され,その成否を集大成し,その上に立って対策方法の再構築を行ない,
出発して行ったのがこの昭和6年の「学生思想問題調査委員会」以降であったと考える。
 この委員会の発足や途中経過,それと関連する32(昭和7)年の国民精神文化研究所の発足など重大な問題を残しているが,
紙幅の関係もあり本稿の範囲外にあると筆者は考え,
他日の稿に譲る事とした。



1)久保義三『日本ファシズム教育政策史』1969年 明治図書出版 p.35p.155~p.164
2)岩松繁俊「次長暴言問題の歴史的背景」, 山口定rファシズムー一その比較研究のために』
 1979年忌安藤良雄『日本のファシズム』 思想341号
3)山口定『ファシズムーその比較研究のために』 前掲書
4) 『政治学事、典』 平凡社 昭和44年 p.1101
5) 『政治学事典』 平凡社 前掲書 p.1100~p.1101
6)久保義三『日本ファシズム教育政策史』
7)唐沢富太郎『学生の歴史』 p.219 昭和30年 創文社
8)菊川忠雄『学生社会運動史』 p.378鯉口書店 昭和22年
9)唐沢富太郎『学生の歴史』 p.223 前掲書
10)高桑末秀『日本学生社会運動史』 p.156 1955年 青木書店,唐沢富太郎『学生の歴史』
 前掲書 p.224
11)高桑末秀r日本学生社会運動史』 前掲書 p.156
12)高桑末秀r日本学生社会運動史』 前掲書p.212によれぽ昭和7年より昭和12年にかけては
 ㈹ 308件→157件→84件→40件→24件→67件,(B)1,119名→1,170名→670名→305名→88名→74
 名→87名,◎ 32名→60名→93名→31名→2名→1名→4名,¢)984名→901名→578名→162名
 →3名→26名→27名となっている.
13)岩波書店『教育学辞典 第一巻』 p.237 昭和11年目 『明治以降教育制度発達史』 第九巻
 p.49昭和13年 教育資料調査室
14)r思想統制』掛川トミ子編 1976年越みすず書房 p.xvp.46
15)久保義三『日本フ.アシズム教育政策史』 前掲書 p.352
16)久保義三『日本ファシズム教育政策史』 前掲書 p.352
ユ7)
18)
19)
20)
21)
22)
23)
24)
「帝国教育」
『思想統制』
r思想統制』
『思想統制』
『思想統制』
『思想統制』
『思想統制』
  『文部省第58年報』
25)土屋祝郎『紅燃ゆる』
26) 『治安維持法』
27)思想研究資料特輯
28) 『思想調査資料』
第563号 p.80
前掲書 P.ix
前掲書 P.ix
前掲書 P.ix
前掲書 P.3~P.7
前掲書 P.ix
前掲書 P,ix
   P,6
    1978年 岩波書店 P.118P.124
 p.453みすず書房 1973年
  第12号 特高警察黒書 p.201977年
  第六輯 P.117~P,120昭和5年4月
新日本出版
久保義三 前掲書参照

29)久保義三『日本ファシズム教育政策史』
30)久保義三『日本ファシズム教育政策史』
31)久保義三『日本ファシズム教育政策史』
32)久保義三r日本ファシズム教育政策史』
前掲書 P.175
前掲書 p。175
前掲書 p.175~p.176
(昭和56年10月31日受理)

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