2014年8月24日日曜日

有島武郎による農場開放(1922)

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有島 武郎(ありしま・たけお) 1878-1923
 有島武郎(1878~1923)は旧薩摩藩士の子として生まれました。
 父は北海道の土地を払い下げられた大地主であり、武郎自身北海道に在住していますので、この時に見た北海道の自然や小作人の様子が「カインの末裔」を書くのに大いに参考になったようです。
 なお作中、主人公が自分の雇い主である大地主の家を訪れる場面がありますが、それは武郎自身の家の様子であったのかもしれません。

 その後札幌農学校に進学し、キリスト教の洗礼を受けました。
札幌農学校といえば「少年よ大志を抱け」のクラーク博士で有名ですが、武郎自身は教えを受けているわけではありませんが、教え子の新渡戸稲造や内村鑑三とは交流があったようです。
 小説の題名や内容にキリスト教的素養が見られるのはこの時の体験によるものでしょう。

 米国留学帰国後に本格的に作家活動を開始し、志賀直哉や武者小路実篤らとともに白樺派として活動しました。
 父の死後小作人に土地を分け与え自作農にするなどの活動もしており、小作人が「カインの末裔」の主人公のような流浪の人生を送らないよう自ら実践をした人でもありました。



有島武郎による「農場開放」

 有島は1922年に、自分は作家として生計が立っているからと言って、その農場の所有権を、「共生農団信用利用組合」という、それまで小作人だった人たちによって合議制で運営する組織に譲渡しました。この集団農場は、敗戦後のいわゆる農地解放で解散するまで、維持・存続されました。


農場開放顛末
有島武郎

  小樽函館間の鉄道沿線の比羅夫駅の一つ手前に狩太といふのがある。

それの東々北には蝦夷富士がありその裾を尻別の美河が流れてゐるが、その川に沿うた高 台が私の狩太農場であります。

 この農場は、私の父が子供の可愛さから子供の内に世の中の廃りものが出来たときにその農場にゆけば食ひはぐれることはあるま いといふ考へからつくつたものであります。

その当時この北海道の土地は財産を投じて経営する大規模の農場には五百町歩まで無償貸附し小規模の農場には五町 歩を無償貸附したのでした。

そしてその条件は其翌年の内に一部を開墾するといふので道庁から役人がきてそれを検べ一定の年限がたてばその土地をたゞで呉れ るといふことになつてゐたのであります。

それから地租はたしか十五年間は免ぜられてゐたと思ひます。

 

 私は札幌農学校を明治三十四年に卒業しましたが、三十二年からこの農場が私の父によつて経営されました。

この農場の面積は四百五十町歩足らずなのであります。

私は農学校を卒業する前年の夏にはじめてこの農場 を訪れました。

倶知安まで汽車で参つてそれから荷馬を用ひ随分と難儀していつたのでした。

熊笹はこの天井位の高さにのびて見通しがきかないのみか樹木は天をくらくする位に繁つてゐました。

そこに小さい掘立小屋をたてゝ開墾の事務所がありました。

初めに入つた農民が八戸でありまして川に沿うたところに草で葺いた小屋をたてゝ開墾に従つたのでした。

小作料なしで三年やり三年後から小作料がとれるとかうなつてゐました。

その開墾の方法は秋にはいると熊笹に火を点 けて焼き最初はそこに蕎麦を蒔く、それから二年目に麦を蒔き三年目からいくらかの収穫があるといふのでした。

狩太の農場は三十二年からはじめて。

三十七八 年に至つて成墾いたし、こゝで私の父の所有になつたのであります。

それ迄にどれ丈けの金がかゝつたかといふと凡そ二万であります。

二万円ではやすく出来たのでありました。

今この農場へ行つてみましても小作人の家屋はその最初と同じ掘立小屋なのであつて牛一頭も殖えてゐないのであります。

私はこれを見て非常に変な感じに打たれたのでありますが、せめて家丈けでも板葺きの家が見られるやうになりたいといつても小作人は自分が経済が発展しやうがないので迷惑がるのであります。

廿四五年たちました今は七十戸程に増してゐますがその内で障子をたてたりして幾分でも住居すまひら しくなつた家は、小作をし乍ら小金をためて他の小作へ金を貸したりした人のもので、農業ばかりしてゐた小作人の家はいつまでたつても草葺の掘つ立小屋なのであります。

この農場の小作人の出入は随分激しく最初からの人はなく始めて七年後に入つたのが一人あります。

併し他と比べて私の農場は変らない方なのであ ります。

何分にも農場は太古から斧鉞が入らない原始の豊饒な土地なもので麦などは実に見事に出来るのですがそれにいゝ気になつて、肥料を施さぬものですか ら廿五六年もたつて全くひどく枯れて了ふといふことが起つてゐます。

それに五六年目毎にはげしい虫害を蒙つてその年は小作料をとりあげられる丈でも苦しいといふことがあるのであります。

かうした不安の上に、国内経済から国際経済に移つた為でせうが、外国からの穀物の輸入されるやうになつて、その収穫の作物の価の高低がはげしく時にはそれに投じた資金をも回収できない位に作物の価が廉くなるのであります。

それから今一つ、この小作人と市場との間にたつ仲買と いふのがその土地の作物を抵当にして恐ろしい利子にかけて所謂米塩の資を貸すのであります。

小作人はこれにそれを借りねばならないのでありますがそのため時としては収穫したものをそのまゝ持つていかれて仕舞ふことがあるのであります。

この仲買といふのが中々跋扈してゐます。


 私は明治廿七八年頃から小作人の生活をみてゐますが実に悲惨なものでありまして、そのため私の農場の附近は現在小作権といふものに殆ど値がないのであります。


 さて私は明治三十六年から明治四十年まで亜米利加に留学しました。

亜米利加にゐるときクロポトキンの著作などに親しんだことから物の所有といふことに疑問を抱かされたのでありましたが、帰朝するとすぐ英語の教師となつて札幌に赴任いたしました。


 私は父の財産で少しの不自由もせずに修学してきたのですけれどほんとうのところそれで少しも圧迫されることが無かつたかといへばさうでもありませんでした。

『一円の金でもそれは人力車夫が三日働かねば得られないものだ』と父に戒められたことを記憶してゐます。


  人は財産があるがために親子の間の愛情は深められるといひますが私は全く反対だと思ふのです。

本能としての愛で愛し合つてこそ其愛情が純粋さを保つのであ つて経済関係が這入れば這入るほど鎖のやうなつながりに親子の間はなるのであるとかう信ぜられるのであります。

私の家庭では毫も父によつて圧迫を感じさせ られたことはなかつたのでしたが、私自身にとつて親子の間に私有財産が存在するといふことが常に一つの圧迫として私にはたらいてゐました。

明治四十年頃に私はこの農場を投げだすことを言ひましたがそれは実行が困難でありそれに父に対して、たとひこのことが父のためにも恩恵を与へることになるとは知つてゐま したが、徒らに悲しませることになると思つたのでともかく父の生きてゐる間は黙つてゐることにしたのでした。


 併し父も逝くなりそれに最近に至つ てしなくてはならなくなつたから――つまり他人がどう思つてもいゝしたくてせずに居られなくなつたので愈かの農場を抛棄することになつたのであります。

私が自分自身の為仕事を見出したといふこともこの抛棄の決心を固めさせてくれました。

文学といふところに落着くことが出来た、それでその自分の為仕事を妨げ ようとするものはすべてかいやりたくなつて了つたので。

それからもう一つは農民の状態をみるとどうしてもこのまゝにしておけない、このことも強く自分に迫 つて参つたのでした。


 狩太農場を開放するに到りました動機、それをたづねてみましたら先づ以上のやうなものであります。


 私は昨年北海道に行きまして小作人の人々の前で私の考へをお話しました。

そして私の趣旨も大体はわかつ てくれました。

そのとき私がいつたことは『泉』の第一号に小作人への告別として載せておきました。

私はどう考へても生産の機関は私有にすべきものでない、 それは公有若くは共有であるべき筈のものだ。

私有財産としてこの農場からの収益は決して私が収める筈のものでない。

小作料は貴君方自身の懐にいれてどうか 仲よくやつていつて貰ひたいとお話したのでした。


 これでもう私は引退ればいゝのでしたが、その後をいゝ結果のでるやうに組織運営されそこを共同 的精神が支配出来るやうにといふ願ひから私はこの農場の組織と施設とを北海道大学農業経済の教室で作製して貰つたのであります。

その案は最近に森本厚吉君 から私の手に届きました。


 それを見て第一に感じたことは今の日本の法律は共有財産を保護するといふ点に於て殆ど役に立たぬものでないかといふこ とでした。

あの農場を小作人の共有にするといふことが許されないなら残つた方法は二つで財団法人にするか組合組織にするかであります。

前者にするといはゞ 専制政治のやうになつてそこに協調的施設が加はつても小作人自身は自分を共有的精神に訓練させることが困難となる。

また組合組織にしても幾多の矛盾は避け がたく一例せば利益金の分配が極めて面倒なのであつてその創設のとき現金を多くもつた人が組合から一番多く利益をうけることになるのであります。


  今度出来てきた施行案は土地は皆のものであるとして小作株といふのを持たしてあるので、そのため公有になつても実際の状態は私有制度だといはれるのであり ます。

忠告してくれる人はその小作株は一応買取つて了つてそれの転売をも防ぎ利益配当の不平等もなくするやうに――そして名実ともに公有にせよといつてく れるのであります。

土地の利益と持株の利益とを別にして了ふことも必要と思つてゐますが、兎も角充分に案に付き練りました上で、農園の総会に提出したいと 考へてゐるのです。

農民自身が自身をトレインするものでもつと自由な共産的規約に致しておきたく思つてゐます。

今迄に例がないのでクリエイトするより仕方ありません。

この農場は共産農園と名付けることを望んだのでしたが共生農園といふ名になりました。


 私はこの共生農園の将来を決して楽観してゐない。

それが四分八裂して遂に再び資本家の掌中に入ることは残念だが観念してゐる。

武者小路氏の新しい村はと もかく理解した人々の集まりだが私の農園は予備知識のない人々の集まりで而かも狼の如き資本家の中に存在するのであります。

併し現在の状態では共産的精神 は周囲がさうでない場合にその実行が結局不可能で自滅せねばならない、かく完全なプランの下でも駄目なものだ

――この一つのプルーフを得る丈けで私は満足するものでこの将来がどうであるかといふことはエッセンシャルなことゝは思つてゐないものであります。(終)

 

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