2014年8月24日日曜日

Copy:四、農地改革

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http://sightfree.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html http://sightfree.blogspot.jp/2011/11/tpp.html 有島武郎農地開放

四、農地改革
1 農地解放まで

小作争議と土地制度の改善


 明治維新以後も温存されてきた地主、小作の関係は、日本農業の近代化、民主化への道をさまたげてきた。
すなわち封建的貢納にかわらない高率な現物小作料によって搾取を余儀なくされてきた農民は、自らの力によって農業経営規模を拡大し、農業生産力を増進することも、生活を向上させることもできなかった。
 第1次世界大戦
(~1918年)の好況に社会の一部は潤いながらも、米をはじ めとした物価は高騰を続けた。米騒動(1918年)小作争議(1922年~)労働争議(1921年3万人の争議)(1922年~)など、社会全体が大きな動揺をしていた。
 1922年頃を転期として農民運動が起こり、農民たちは団結して小作条件の改善を要求するいわゆる小作争議(1922年~)が各地で激増してきた。
 こうした小作争議(1922年~)は地主的土地所有者に脅威をあたえることとなり、政府は大正13年(1924年)「小作調定書」を制定して小作争議の緩和に努力する一方、大正15年(1926年)には「自作農創設規則」を制定して自作農創設維持の政策がとられてきた。

http://sightfree.blogspot.jp/2014/08/copy_23.html(当ブログのコメント:
 第一次大戦(~1918年)の好況に社会の一部は潤いながらも、米をはじ めとした物価は高騰を続けた。
米騒動(1918年)小作争議(1922年~)労働争議(1921年3万人の争議)(1922年~)など、社会全体が大きな動揺をしていた。
 また、河上肇の個人雑誌『社会問題研究』や山川 均等の『社会主義研究』等により社会主義運動が活発化した。

 このように大正期の1922年頃には、農村不況による小作争議が全国に広がりを見せ政府は大正15(1926)年に自作農創設政策を推進。当時上川郡でも小作争議が発生していた背景もあり、松平直亮もこの政府案に理解を示して昭和8(1933)年に松平農場の農地開放の準備に取り掛かっている。) 

 1929年には世界恐慌(1929~)がおこり、
昭和12年(1937年)日華事変が起こり、わが国の経済は戦時体制へ切りかえられることになり、農業も食糧増産を要求されることになってきた。
この食糧増産体制を確立し、食糧増産政策を遂行するためには、必然的に農民の安定した農業経営が必要となり、従って地主的土地所有者の制度改革をする方向に農民の関心を向けさせることにした。
つまり昭和12年(1937年)に「自作農創設規則」を「自作農創設維持補助助成規則」に改め、次第に適正規模の自作農を創設する方向にむかった。
また昭和19年(1944年)にはさらに小作調停制度を強化することも合わせ「農地調整法」が制定された。

段階的自作農創設制度


 こうした措置によって地主的所有権に制限が加えられ、小規模ながら自作農を段階的に創設することになった。
なおこのほかにも小作料の引き上げを禁止し、不当に高い小作料は知事の命令で引き下げることができるなど小作料の適正化がはかられた。
また昭和16年(1941年)は「臨時農地価格統制令」や「臨時農地管理令」を制定して農地の移動を制限し、政府は食糧の増産体制と共に国家管理体制を強化してきた。
しかしこれらの政策はあくまでも戦時統制のための政策であって、農民のための農業近代化をすすめる本質的なものではなかった。

終戦と土地制度改革の動き


 自分の土地を持ち、独立した農業経営を営みたい農民の永い間の夢は、太平洋戦争の終結という大きな混乱と転換のなかで実現の方向に動きだした。

 すなわち前述の戦時体制下における農業諸施設は、より根本的に旧来の地主的土地所有制度を処理しなければ、わが国の農政矛盾による抗争は回避できない事態になっていた。
従って終戦による戦時体制の崩壊とともに、農地改革の必然性は客観的条件を備え、戦後処理の政府の緊急課題となっていた。

第1次農地改革の実施


 こうした情勢のなかで、時の幣原内閣は、昭和20年11月農地制度改革に関する草案をまとめて閣議決定し、同23日発表した。


http://sightfree.blogspot.jp/2011/11/tpp.html(当ブログ主の補足:【重要なポイント】農地改革は日本側の終戦以前からの念願であった。

この案は總司令部の一部修正を加えられて同年12月28日議会を通過成立し、いわゆる第1次農地改革の第1歩がふみ出されたのである。


http://sightfree.blogspot.jp/2014/08/blog-post_25.html≪農地改革法案(第1次)の経緯≫参照

その骨子は次のとおりである。
    (1)5か年計画で不在地主の所有地全部と、在村地主の所有地のうち平均5町歩以上の農地を強制的に小作人に売り渡す。
    (2)自作農創設不適地は強制譲渡から除外する。
    (3)地主が近く耕作する農地は解放の対象としない。
    (4)小作料は金納制とし、適正な価格とする。

第1次農地改革に対する総司令部の改善命令


 しかしこの第1次農地改革は、連合軍総司令部において詳細に検討された結果その内容は地主に妥協的であり、日本の民主化を進めるための措置としてはなお不徹底であるとして、昭和20年12月9日いわゆる農民解放指令と呼ばれている「農地改革についての覚書」が発せられ、より広範で徹底した農地改革の実施を日本政府に命じたのである。


http://sightfree.blogspot.jp/2014/08/blog-post_87.html≪農地改革法案(第2次)の経緯≫参照
 
 この歴史的な農地大改革を実施する根幹となった総司令部の覚書の内容は次のとおりである。

1、民主化促進上、経済的障害を排除し人権の尊重を全からしめ、且数世紀に亘る封建的圧制の下日本農民を奴隷化して来た経済的桎梏(しっこく)を打破するために、日本政府はその耕作農民に対し、その労働の成果を享受させる為、現状より以上の均等の機会を保障すべきことを指令せらる。

2、本指令の目的は全人口の過半が耕作に従事している国土の農業構造を永きに亘って病的ならしめて来た諸多の根源を芟除するに在る。その病根の主なるものを掲げれば次の如し。

     A 極端なる零細農形態
       日本の過半数の農家が1.5エーカー(約6反)以下の土地を耕している。
     B 極めて不利なる小作条件下における小作農の夥多
       日本の農民の4分の3以上が小作及至自小作であり、収穫の半分及至それ以上の小作料を払っている。
     C 極めて高率の農村金利の下における農村負担の重圧
       全農村在住世帯の半数足らずが僅かにその農業収入を維持し得ているに過ぎない程度に農村負債は農村に深く食い入っている。
     D 商工業に対し格段に農業上に不利なる政府の財政政策
       農業金融の金利及び農業に対する直接税は商工業におけるそれよりも遙かに重圧的である。
     E 農民の利害を無視せる農民及至農業団体に対する政府の権力的統制
       農民の利害と懸け離れたる統制団体により一方的に割当てられた供出割当は、往々にして農民を飯米及至供出非協力、利己的農家に追込んでいる。
     日本農民の解放はこの如き農村の基本的禍根が徹底的に芟除せらるるに非ざれば進行を始めないであろう。


3、よって日本政府は1946年(昭和21年)3月15日までに次の諸計画を内容とせる農地改革案を本司令部に提出すべし。

     A 不在地主より耕作者に対する土地所有権の移譲
     B 耕作せざる所有者より農地を適正価格を以って買取る制度
     C 小作者収入に相応せる年賦償還による小作人の農地買取制
     D 小作人が自作農化したる場合再び小作人に転落せざることを保障するための制度上保障策は下記事項に亘るべし。

    (1)適正利率による農村長期及び短期信用の普及確保
    (2)加工業者及び配給業者の搾取に対する農民の保護手段
    (3)農産物価格の安定策
    (4)農民に対する技術上その他の啓蒙事項普及の計画
    (5)非農民的利害に支配せられず、かつ日本農民の経済的、文化的進歩を目的とせる農村協同組合運動の醸成並に奨励計画

     E なお日本帝国政府は上記項目以外において農民の国民経済への寄与に相応したる農民所得分配の享受を保障するため必要と認められる計画を提出すべし。

総司令部の改善命令によって痛手を受けた地主

 この指令によって、日本政府は1946年3月15日までに總司令官に対して農地改革の具体策を提出しなければならなくなったが、こうした農地改革を断行されることによって痛手を受ける地主側は、まずこの措置される前に小作地の取り上げが各地で行われ、終戦から22年5月までの間にこの件数は全国で457,000件にのぼっている。
この土地の取り上げの激化は、当然小作農民の闘争の激化をひきおこし、土地取り上げ反対争議は1946年1月から8月までに23,000件以上にのぼっていることからみても、地主の農地改革に対する抵抗のはげしさがよくわかる。(農民組合50年史より)

 政府は總司令部の指令による回答を迫られていたが、期日ぎりぎりの1946年3月15日に、改革案の大綱を回答した。
しかし總司令部はまだまだ不徹底なものであるとして採用せず、対日理事会にはかって関係各国の考えた改革案を提出させた。


 (当ブログの補足)
(対日理事会では、5月29日の第5回理事会で(共産主義国)ソ連代表デレヴイヤンコ中将が第1次改革法を批判してソ連試案を提出、
ついで6月12日の第6回理事会では英連邦代表マクマホン・ボールがイギリス案を発表するなど、活発な論議が展開された。)


 その結果、マッカーサーは英国案を基本にした勧告案を作成し、日本政府に早期実施方を要求した。
日本政府はこの勧告に基づき、1946年8月6日の閣議において「自作農創設特別措置法」と「農地調整法改正法律案」を決定し、10月11日議会を通過して成立した。これがいわゆる第2次農地改革案である。

第2次農地改革の概要

 この第2次改革案の大筋は、在村地主の保有農地を1町歩以内とし、不在地主はその全耕作地を解放して買収される。
これらの売買は国が直接地主から小作地を強制的に買収して小作人に売渡す方式がとられ、国有農地は自作農創設に管理換えをされた。
買収価格は賃貸価格を基礎にして、水田は40倍、畑は48倍と定められたが、戦後のインフレーションによって激しい物価、賃金の上昇にもかかわらずこの価格は据えおかれたため、小作人は無償に近い価格で買収したかたちとなった。
また小作料も水田で2割5分、畑で1割5分以下におさえて金納と定められた。

 以上が戦前戦後における農地制度のあらましであるが、いつの時代においても新制度に移行する過程にはとかく紛争の起き易いもので、この制度の改革をめぐっても地主と小作人との間にいろいろな争いが発生している。
とくに農民運動が高まり、農民組合が結成されてその活動が盛んとなるにつれて、地主の土地のやみ売りや違法が明るみに出されて、農民裁判にかけられる一幕もあった。

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